Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「裸足の猫」  第三話


 「ごきげんよう、美弥さん」
 「ごきげんよう」
 始業式から二週間近く。美弥は大分とこのリリアン女学園に馴染んで来ていた。
 あくまで表面上は。
 佳乃さまに言われてからというもの、意識しているつもりはないのに、いつのまにかリリアンの習慣にも
慣れようとしている。
 名前の呼び方や、「ごきげんよう」という挨拶。
 これまで、美弥は普段の生活で「ごきげんよう」なんて挨拶はしたことがなかったというのに。
 あのゴミ捨て場で会った時に感じた佳乃さまへの恐れにも似た感情。結局、それを払拭する事も出来ない
まま、気が付くと美弥は佳乃さまと何度も会っていた。
 佳乃さまはいつの間にか美弥の側に現れては少しお話をして去っていってしまう。
 それが毎日のように続いていた。
 「美弥さん、谷木内佳乃さまとはまだ姉妹の契りを結ばれないの?」
 そんな事を言ってくるクラスメイトが日増しに増えてくる。
 どうやら一年藤組では、美弥と佳乃さまが姉妹になるというのは既定事項のように扱われてしまっている
様子だった。
 美弥にとってはいい迷惑だったけれど。
 目立たず、親しい人を作らないようにしていこうと思っていたのに、佳乃さまがしょっちゅう美弥の側に
現れるため、何人ものクラスメイトにその現場を見られているからこういう事態に陥ってしまった。
 また、クラスメイト達もそのおかげであまり親しい友達も作ろうとしない美弥に接する良い話題とばかり
に話しかけてくる。
 話しかけられる以上、美弥のほうも無視するわけにも行かず、適当に流してはいるものの、必然と話す量
も増えてくる。
 このクラスで初めて言葉を交わした相手であるかえでさんにしても、いまだ席替えが無いため、休み時間
などの折々に話しかけてくる。
 「それで、来月の初めにはマリア祭という行事があるの。その時に薔薇さま方がわたしたち新入生一人一
人におメダイを下さるの。今から楽しみだわ。わたしたちはどの薔薇さまがおメダイを下さるのかしら」
 「かえでさんはどなただったら嬉しい?」
 「そうねえ、わたしはやっぱり紅薔薇さまかしら。あの飾らない中にも威厳があるところが良いかしら。
わたしたちにも気さくに声をかけて下さるし」
 「そう」
 適当に流しているつもりでも、会話の量が増えてくると必然的にある程度は話につながりが出てきてしま
う。
 それからしばらくの間、薔薇さまと呼ばれる三年生の話にかえでさんは盛り上がっていた。
 「はーい、おしゃべりはそこまでね。日直さん」
 現国の教師が入ってきながら日直に号令を促す。
 「起立、礼」
 生徒達が一斉に椅子から立ち上がり、礼をする。
 「着席」
 号令の一瞬後、椅子を引く音が教室に響いて、生徒達が着席する。
 かえでさんの薔薇さま談義もそこで終わりになった。

***

 「ごきげんよう、美弥ちゃん」
 「ごきげんよう、佳乃さま」
 今日は掃除がないので、早々に教室から退散した美弥だったけれど、校舎を出た途端に佳乃さまに捕まっ
てしまった。
 もしかすると、佳乃さまは美弥をストーキングしているのでは?と思えてくるほどのタイミングだった。
 「今日は一段と機嫌が宜しくないようね」
 佳乃さまが美弥の顔をみるなり苦笑しながら言う。
 「そんなことはありません」
 何気ない振りをして否定してみるものの、多分、無駄な事だろう。
 「解るわよ。わたしの事、ストーカーみたいだとか思っているんでしょう」
 可笑しい時の癖なのだろうか。
 そういうときの佳乃さまは必ず髪の毛を左手で弄っている。
 「解っていらっしゃるんじゃないですか」
 「なんだかね、わかっちゃうの。美弥ちゃんの考えている事は」
 珍しく佳乃さまが照れたような表情をする。
 それを見て、美弥は一体どんな顔をしているのだろうか。
 「美弥ちゃんってさ、猫みたいよね。裸足の」
 「裸足の、猫……ですか?」
 「うん」
 なんだか今日の佳乃さまはいつもと違う。
 別に佳乃さまのことなんてどうでも良いはずなのに、気が付くと気になってしようがなくなってくる。
 「猫って、群れるの嫌いじゃない、基本的に。美弥ちゃんのわざと他人に関わろうとしないようなところ
が同じに見えるもの。まずはそういうところが一つ目」
 「はあ」
 「そして、誰も美弥ちゃんにそんな事を望んでいる訳でもないのに、自分からわざわざ歩きにくい、ごつ
ごつした険しい道を歩いているようなところが二つ目かな」
 どうかしら。といった感じで佳乃さまが美弥を見つめる。
 「よく解りません……」
 答えたものの、本当は佳乃さまの言うとおりだと言う事は解っていた。
 けれど、そんな事を素直に認めたくもなかった。
 まるで美弥が馬鹿だと言われているような気がしたから。
 「そう?まあいいわ。そういうことにしておきましょう」
 「……」
 やっぱりいつもと違う。
 普段もいろいろずけずけと言ってくる佳乃さまだったけれど、今日は言葉の所々に棘が感じられた。
 「でもね、自分でも解っているとは思うけれど、そんな事はただの自己満足なのよ」
 「自己満足、ですか」
 「そう」
 佳乃さまがきつい眼差しで美弥を見る。
 でもそれは決して美弥を責める眼差しではなかった。どちらかと言うと、哀れみのようなものを感じさせ
るものだった。
 なんとく美弥は腹立たしいものを覚える。
 なぜ出会って間もない佳乃さまにそんな眼差しで見られなければいけないのか。
 「だって誰も相手にそんな事を望んでいないんですものね」
 佳乃さまは美弥の表情の変化に気づかないまま、話を続ける。
 いえ、本当はきっと気づいているはずだ。ただ気づかない振りをしているに過ぎない。なんの証拠もない
けれど、美弥は確信していた。
 「帰るところでしょう?よかったら一時間ほど付き合って貰えるかしら」
 「え?」
 突然何を言い出すのだろう。
 「M駅までバスでしょう。途中のバス停ですこし寄り道するだけだから。それとも何か予定でもあるのか
しら」
 「いえ、予定はありませんけど……」
 適当にでまかせでも言って、帰ってもよかった。本当はそう口にするつもりだった。けれど、口から出た
のは同意の言葉だった。
 なぜ付き合う事にしたのか自分でも解らなかった。
 「有難う、それじゃ行きましょうか」
 言いながら、佳乃さまは美弥の手を掴み、ぐいぐいと引っ張ってゆく。
 「ひ、一人で付いてゆけます」
 掴まれた手を解こうとしてみるけれど、佳乃さまの小さな身体にどうしてこんな力があるのか不思議に思
えるほど、その手は美弥の手を堅く掴んでいた。
 「か、佳乃さま。痛い……」
 美弥の悲鳴にも似た声にも振り向かず、佳乃さまは歩き続ける。
 絶対に跡が残っちゃう。
 そう思ったとき、ふっと痛みが薄くなった。
 佳乃さまが美弥の手を離したのだった。
 「ごめんなさい、ちょっとだけ待っていて頂戴」
 美弥に向き直る事もなく、佳乃さまはそう言って両手を合わせる。
 美弥が視線を巡らせると、そこにはマリア様が居た。
 目を閉じ、真剣に何かをお祈りしている。その姿から、平穏な一日や、そんな易しいことを祈っているの
ではないだろう事が想像できた。
 一体何をお祈りしているのだろうか。
 少しだけ気になった。
 「ごめんね、行きましょうか」
 佳乃さまが頭を上げ、美弥に向き直ると先ほどまでの棘のある表情は消えていて、昨日までと同じ、優し
い表情に戻っていた。
 「はい……」
 美弥の返事を聞いて、佳乃さまはゆっくりと歩き出した。
 今度は手を掴んだりはしないまま。
 背の高い門をくぐって、すぐ側のバス停に向かう。
 そのあいだ、佳乃さまは美弥の方を振り返ったりはしななかった。
 美弥の中で佳乃さまという存在が余計に不確かなものに思えてくる。
 しっかりと何かを見つめているのは間違いない。けれども、そこには今にも消えてしまいそうになるよう
な危うい何かも潜んでいるように感じる。
 それだけは間違いないと思える。
 美弥自身も知っている何かだったから。母の一言を聞いたとき、感じたものと同じ何かと気づいてしまっ
たから。
 「バスが来たわ」
 ほら、今も。
 バスが来た事を告げるために、再び美弥の方に顔を向けた佳乃さま瞳には、その危うい何かが確かに潜ん
でいた。


 

 −To Be Next−


 

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