Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「裸足の猫」  第二話


 「ごきげんよう、美弥さん」
 「ごきげんよう、かえでさん」
 教室で一限目の準備をしていると、前の席のかえでさんが声をかけてきた。
 「美弥さん、今朝マリア様の前で二年生の方とお話していらしでしょう?もしかしてお知り合いの
方?」
 かえでさんが興味深そうに聞いてくる。
 「ううん、昨日初めて会った人。名前もさっき聞いたばかり」
 「そうなの。もしかしたらクラスで一番かしらって思ってしまったのだけど、早とちりだったみた
いね」
 答えを聞いて、かえでさんは残念そうに椅子に座る。
 「一番?」
 あまり話をするつもりはなかったけれど、一番というのが何なのか気になってしまった。
 「ええ、クラスで一番最初に姉妹になったのかと思って」
 「そう……」
 そんな事だったのか。正直そう思った。
 けれど当然かもしれない。同じ東京でも端と端に近い美弥の地元でも噂になるくらいだからリリア
ンに入学、ましてやかえでさんのように幼稚舎からの生粋のリリアン子(昨日聞いた話だけれど)に
とって高等部にしかない伝統という「姉妹」について興味があることは。
 けれども、そんなことは美弥にとってどうでも良い事だった。
 かえでさんや佳乃さまのお節介のせいでおかしな方向に向かってはいるものの、美弥はやはりここ
で親しい人間を作るつもりはないのだから、誰か上級生と姉妹とやらになるつもりは毛頭無かったし、
興味もなかったから。
 「でも早々に姉妹になった人もいるのよ。菊組の有馬菜々っていう人。なんでも始業式の前に黄薔
薇さまと契りを結ばれたそうなの」
 「黄薔薇さま?」
 また初めて聞くような言葉だった。
 「あら、ごめんなさい。まだお話していなかったわね。リリアンでは生徒会役員の三年生の方々を
薔薇さまとお呼びするの。それで薔薇さまは三人いらして、紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さまと
お呼びしているのよ。今は福沢祐巳さまが紅薔薇さま、島津由乃さまが黄薔薇さま、藤堂志摩子さま
が白薔薇さまでいらっしゃるの」
 正直なところ美弥は少し呆れてしまった。
 よくもまあこれだけ一般世間からは想像も付かないような事がいろいろとあるものだと。
 同じ学校のただの生徒会役員に、そんなご大層な二つ名まで捧げられるとは。
 「それで、黄薔薇さまには妹がいらっしゃらなかったの。それがまさか始業式でいきなり姉妹の契
りをされるなんて誰も想像していなかったものだから今朝はその話でもちきりなのよ」
 「そうなの……」
 呆れを通り越して馬鹿馬鹿しさすら感じてしまう。
 そして、それを嬉々として語るかえでさんも、なんだか別世界の住人のような気がしてきてしまう。
 目立たず、親しい人を作らず、そんな風に思っていた美弥だったけれど、それ以前にこのリリアン
の伝統やら風習やらに辟易してしまう。
 ここでは作ろうとするまでもなく、そういった人は作れないのではないか。そう思えた。
 「美弥さんにも良いお姉さまが出来ると良いわね」
 最後にそう言って、かえでさんは前に向き直って鞄から一限目の国語の教科書やらを取り出し始め
た。
 それを見た美弥は少しだけほっとした。
 少なくとも授業を受けている間だけはこの酷く非現実的なマリア様の箱庭から離れられると思った
から。
 程なく、担任の教師が入ってきてホームルームが始まった。

***

 クラスの掃除をしている最中、美弥は箒で床を掃きながら窓の外を見ていた。
 窓から見えるグラウンドでは、運動部らしい生徒の一団が外周を走っている。
 その中に一人、随分と背の低い生徒が走っている。
 はじめは先ほどの一団から遅れているのかと思っていたけれど、どうやらそうではなく、意図的に
離れて走っている。
 なぜだろうか、と思いながら目を凝らすと、それはあの佳乃さまだった。
 「他の人と走るのが嫌なのかしら?」
 思わず口をついてそんな言葉がこぼれる。
 「美弥さん、どうかして?」
 「あ、いえ。なんでも」
 同じ教室の掃除をしているクラスメイトの一人が美弥の声が聞こえたのか、箒の手を休めて窓の外
に目を向ける。
 「あら、あの方は」
 「二年桜組の谷木内佳乃さま……」
 「まあ、美弥さんのお知り合い?」
 しまった。
 聞かれるままに答えた自分を呪いたくなる。
 今朝方、話をしていただけでかえでさんに姉かと問われたのを思い出して心の中で悔やむ。
 彼女も、美弥が佳乃さまのことを知っている事に驚いて、興味深そうな瞳を向けてくる。
 「知り合い、というほどでも。ただちょっと色々教えて頂いただけで、まだ二、三度しかお会いし
た事はないのよ」
 「それでもうらやましいわ。良くして下さるということは美弥さんのことを気に入られたのかもし
れないし、もしかしたら妹にとお考えなのかもしれなくてよ」
 やはり彼女も姉妹絡みで美弥と佳乃さまを結び付けてきた。
 本当に勘弁して欲しい。
 自ら招いた失敗とはいえ、上級生と接点を見つけると誰でも彼でも姉妹に結び付けてくるのは。
 「そうね、でもわたし。姉を持ちたいなんて思わないから……」
 「え!」
 美弥の言葉に彼女は心底驚いたようだった。
 まるでそんな生徒が居るはずが無いとでも言うように。
 「あ、掃除。急がないと先生に怒られるわ」
 「美弥さん」
 クラスメイトはまだ聞きたい事があると言いたげだったけれど、美弥は掃除を理由にいささか強引
に話を切り上げた。
 姉なんて。あの日以来、実の姉すら疎ましかったというのに、赤の他人の姉なんてとてもじゃない
けれど持ちたいなどとは思わなかった。
 話の続きを聞きたそうなクラスメイトに隙を与えず、美弥はちりとりを持っている別のクラスメイ
トに埃を回収してもらい、それを捨てたゴミ箱を持って足早に教室を出た。
 「はあ……」
 まだ入学して二日だというのに、いろいろな事が一度に頭に入ってきて、決して回転の遅いほうで
はない美弥の頭は既に混乱しかけているような気がする。
 マリア像への登下校時のお祈り、上級生、同級生、下級生の呼び方、姉妹、挙句に生徒会役員の呼
び名。
 本当にこの学校はどうかしている。
 色々な事があって、高校には行こうと決めたものの、それは早まった事かもしれなかった。
 進学などせずにアルバイトでもしていたほうが良かったのかもしれない。
 もちろん、気楽な学生と違って、働く事自体も嫌な事が一杯あるのかもしれないけれど。
 アルバイトの経験もない美弥にはそれは想像以上のものではなかった。
 「あら、ごきげんよう。美弥ちゃん」
 「佳乃さま……」
 ゴミ捨て場を目前にして、またも佳乃さまは美弥の前に姿を現した。
 「ゴミ捨て?お疲れ様」
 「いえ」
 佳乃さまのお節介のせいで、クラスでも変に注目されてしまっている為か、愛想笑いもまともに返
せなかった。
 「何、何か嫌な事でもあったのかしら」
 「いえ、そんなことは」
 佳乃さまのお節介のせいだ。とはさすがに言えなかった。
 「あら、そう?」
 「ええ」
 先ほどまでのランニングの所為だろうか、佳乃さまは肩にかけたスポーツタオルで汗を拭いながら、
空いた右手で美弥の持っているゴミ箱に手をかける。
 「あ、手伝ってもらわなくても」
 「いいじゃない、まだ美弥ちゃんとお話したいし」
 「でも、部活は……」
 「部活?」
 佳乃さまが不思議そうな顔をする。
 「部活なんてしてないわよ」
 「え?」
 今度は美弥が不思議な顔をする番だった。
 「でも、さっきは部活の人たちと一緒に走っていたんじゃ」
 「ああ、あの子達は違うよ。ただ同じ時間に走っていただけ。わたしはどこの部活にも入っていな
いもの」
 「それじゃあ……」
 「せっかく大きなグラウンドがあるんだもの。同じ走るなら家に帰って公園とかを走るより学校で
走ったほうが楽で良いじゃない」
 大きく笑いながら佳乃さまが言う。
 確かに佳乃さまの言うとおりだとは思うけれど、それだけが理由ではない、そんな気がする。
 「わたしなら学校にいるより家に帰りますけれど」
 「美弥ちゃんはそうなのね。でもわたしは違う。人は人よ、誰もが同じ考えをしている訳ではない
わ。例えば、学校で近しい人を作りたくないって考える人もいるし、仲の良い友達や先輩なんかを沢
山作りたい人もいる」
 まただ。
 どうしてこの人はこうも美弥の考えている事を正確に言い当ててくるのだろう。
 笑顔のまま、一緒にゴミ箱を運んでくれている佳乃さまに、美弥は恐れに近いものを感じ始めてい
た。
 美弥よりも頭一つ分ほども小さい背。
 曲の強い髪の毛。
 体操着を着ているから解ってしまう、やや筋肉質な腕や脚。
 「どうしたの?ゴミ、捨てないの?」
 「え、あ、捨てます」
 佳乃さまの事に気をとられていたら、いつの間にかゴミ捨て場に着いていた。
 あまりたいしたゴミは入っていなかったけれど、佳乃さまにつられて「せーの」でゴミを捨てる。
 「美弥ちゃんは何かクラブに入るの?」
 「いえ、クラブに入るつもりはありません」
 「そ、っか」
 その言葉を聞いたとき、佳乃さまの瞳がわずかに細まったことに美弥は気がついた。
 けれど、それが一体何を思ってのことなのかはまったく想像できなかった。
 「さてと、わたしはそろそろ帰るかな」
 「もう走られないんですか?」
 「ふふふ、あれでもグラウンドを十周したのよ。さすがに一日でそんなに走るつもりはないわ。走
るのが好きなわけでもないし」
 苦笑しながら佳乃さまは言った。
 その間に、軽く足を伸ばしたりしている。
 「それじゃまた明日ね、美弥ちゃん。ごきげんよう」
 「ご、ごきげんよう」
 戸惑いながらもリリアンらしい挨拶を返す。
 佳乃さまはそれを聞いて小さく手を振った後、走って校舎に戻っていかれた。
 「あ、教室に戻らなくちゃ」
 ゴミを捨てに来ていた事を思い出し、美弥はゴミ箱に手をかけて教室へと急いだ。
 「美弥さん、もしかしてゴミ捨て場の場所がわからなかったのかしら」
 「あ、ううん。なんとかたどり着けたから。ありがとうかえでさん」
 教室に戻ると、掃除当番の生徒も大半が帰っていて、日誌を届けに行っていたかえでさんが自分の
席から足早に近づいてきて声をかけてくれた。
 彼女はすこし心配そうな顔をしたけれど、美弥が「これで明日からは大丈夫よ」と答えたらほっと
したように微笑んだ。
 そんなかえでさんに、美弥はほんの少し嬉しくなり、そして同じくらいに誰も居なければ良かった
のにと思ってしまった。
 やっぱり一人がいい。
 今はまだあまり親しい人はいらない。友達も、先輩も……。
 (今は?)
 自分の思いに疑問符が浮かんだ。
 今は。と言う事はその先ではそれを求めるのだろうか。
 「それじゃ、わたしはちょっと見学したいクラブがあるからお先に失礼させてもらうわね。ごきげ
んよう、美弥さん」
 「ごきげんよう、かえでさん」
 そう言って、かえでさんは鞄を持って教室から出て行った。
 教室の中を見渡すと、先ほどまではまだ二、三人残っていたクラスメイトもいつの間にか居なくな
っていて、教室には美弥ひとりだけになっていた。
 「はあ……」
 なんとなく急に気が抜けて、美弥は手近な椅子に腰を下ろした。
 人となるべく関わらないように、目立たないようにしていこうと思っていたのに。
 人と深く関わると、必ず嫌な事が起こる。
 自分が原因のときもあり、相手が原因のときもある。
 そして、それが行き過ぎると……自分か、相手かのどちらかが自制できなかったとき。
 必ずそれは不幸を招き寄せる。
 だから、人と必要以上に、関わるのは、嫌、だ。

 

 −To Be Next−


本当はこの作品はマリ見てがらみで考えていたわけではなったのですが、ふっとリリアンに当てはめてみたら
すっきりとはまったような気がしまして。
菜々は名前だけです…


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