Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「裸足の猫」  第一話


  自分と同じ制服に身を包んだ幾人もの生徒がバスを降りてゆく。
 その中に、明らかに緊張している生徒がちらほらと見受けられる。
 その人数は、背の高い門をくぐって、木が生い茂る小さな箱庭のようなマリア像の前まで来ても増えこそ
すれど、減る事はなかった。
 背の高い少女や、背の低い少女。
 痩せている少女や、ふくよかな少女。
 よくもこれだけ女ばかりが集まったものだと関心する。
 入学式の日、隣に座った子に教えてもらっていなければ、目の前で繰り広げられている行為などは奇異
にしか感じられなかっただろう。
 マリア像の前でほとんどすべての生徒が手を合わせ、何事かをお祈りするなどと言う事は今までの十五年
間で想像すらしたことはなかったから。
 「ごきげんよう、貴方は他校からの新入生ね」
 その集団をわき目に見ながら通り過ぎようとしたとき、突然声をかけられる。
 「ええ、そうですけど」
 面倒だなと思いつつも、振り返る。
 誰がいるのだろうと振り返った視界の中には、ちょっと曲のある髪の毛の一部分しか見えなかった。
 その髪の毛を追うように視線を下げると、自分よりも頭一つほど低いところに、柔らかい笑顔をたたえた一
人の生徒が居た。
 (ち、ちいさい……)
 概ね平均的な身長の自分よりもまだ背の低いその生徒は、何がしかの意思を感じさせる瞳をまっすぐ自分
に向けて立っていた。
 「それが何か?」
 その視線に負けまいとしてか、無意識のうちに身体に力が入る。
 「リリアンではね、登下校のときにマリア様にお祈りをするのよ。勿論、強制でもなんでもないけれど、折角だ
から貴方もお祈りをしてはいかがかしら」
 「お祈りといっても、特に何もありませんから」
 「何でも構わないのよ。早く友達ができますようにとか、無事に一日を過ごせますように、とかね」
 多分、この人は高等部から編入してきた何も知らない新入生に対する親切以外の何の気もないのだろう。
けれど、今の自分にはそれがとても鬱陶しげに感じられた。
 「ご説明痛み入ります。ですが、わたしは何もお祈りするつもりはありません。友達を作るのも、今日一日を
無事に過ごすのも、全て自分で意思を持ってすれば良いだけのことですから、わざわざ神様にお祈りする事
も無いと思いますので」
 言いたい事を告げると、くるっとUターンをして校舎に向かう。
 自分の背中に先ほどの生徒の視線を感じるけれど、気にしない。
 向こうが勝手にお節介を焼いてきただけなのだから、自分が何の気も煩う必要などない。
       み な せ み や
 それが水無瀬美弥の私立リリアン女学園における初登校の日の出来事だった。

                ***

 きっかけは何だっただろうか。
 姉さんが東大に合格したときだっただろうか?
 それともお母さんの言ったあの一言だっただろうか。
 「それではこのリリアン女学園を志望した動機を聞かせてください」
 面接の日、人のよさそうなシスターを中心にして、教師が目の前の机に居並ぶ。
 「そうですね、内申書に書いてあると思いますが、わたしには何度か補導歴があります。こんなわたしでも神
様のお力があれば合格して更生させてくれるかなとか思ったからです」
 「な……」
 「……」
 シスターの両隣の教師と思われる男女が顔色を変える。
 怒っているのだ。美弥のふざけた回答に。
 当然だろう、合格など全くするつもりはない。ゆえに受けのよい答えなどする気もないのだから。
 リリアン女学園どころか、高校そのものに行くつもりがなかったから何でも言えた。
 小、中学校共に公立で、高校に行く気がなかったから受験くらいは経験しておこうと思って受けただけだった
から。
 「なるほど。よく解りました、それではこれで貴方の面接は終了です。ご苦労様」
 「失礼します」
 シスターが人のよさそうな顔に妙な笑顔を浮かべて退出を促すので、美弥はほんの少しだけ会釈をしてとっと
と退出した。
 そう。あの面接の日、まさかここにこうやって座る事など想像すらしていなかった。
 私立リリアン女学園と言えば都内でも有数のお嬢様学校のはず。であるならば、筆記試験の結果はともかく、
面接であんなふざけた回答をした自分が合格するなどと夢にも思わなかったから。
 そして、合格しても入学しなければ済んだはずだった。
 母が自殺未遂などをしなければ。
 原因は単純だった。
 美弥が高校に行く気が無いと口にしたからだった。
 5つ年上の姉、美貴が東大に合格するまでは姉妹揃って品行方正、学力優秀な水瀬家の娘達で通っていた。
 それが嫌になったのは間違いなく姉さんが東大に合格した時だった。
 何気ない母の一言。
 「美貴ちゃんが東大に合格して一安心ね。美弥が一流大学に行けなくても一安心ね」
 たしかそんな内容だった気がする。
 今となってはどうでも良い事だったけれど。
 その言葉を聞いたとたん、全てがどうでも良く感じられた。
 今の今まで、勉強をがんばれば母が自分のことを「よくがんばったわね」と褒めてくれた。
 それが嬉しくてずっと勉強をがんばってきた。なのに、姉さんが東大に合格した途端、美弥のことはどうでも良
いような言われ方をして、今までの自分が全て否定されたような気がした。
 自分は母の自慢の道具だったのか、自分は姉の保険だったのかと……。
 三年生になってからというもの、学校に通う振りをして繁華街を遊びまわったりした。
 そんな美弥に母は世間体がどうのとか、いろいろと五月蝿く言い出した。それは親として当然の事だったのだろ
うけど、美弥にとってはもう母などどうでも良く感じられるようになってしまっていた。
 ただの五月蝿いおばさん。そんな感じだった。
 そして、その夏に初めてした万引きで補導された。
 その時、母は涙を流しながら警察署にやってきた。その涙を見ても、美弥は何も感じなかった。母に褒められて
あれだけ嬉しかった事など、幻に感じられるほど。
 そいうった事が何度か繰り返され、あの日を迎えた。
 公立の高校から不合格の通知が届いた。
 それはそうだろう、中学三年生の一年間に三度も補導され、あれだけ優秀だった勉強もその時にはせいぜい学
年で真ん中の平均点すら下回る始末。
 試験の際の内容そのものは勉強するまでもなくほとんどが解ける内容だったけれど、まじめに回答を記入しな
かったのだから良い点数など取れるはずもない。
 当然、内申書にもそれらの事は書かれているはずで、普通の高校ならそんな生徒を合格させるはずもない。
 だから不合格通知にも美弥はなんとも思わなかった。
 けれど、母は違った。
 公立高校の不合格通知を見た途端、美弥の頬を平手で打ち、訳の分からない事を喚きながら泣きじゃくった。
 父と姉が美弥を酷く罵り、母を部屋に連れていく。
 取り残された美弥はそんな光景を夢のように思いながら、自室に帰った。
 それから数日後、リリアン女学園からまさかの合格通知が届いた。
 あの日、あれだけ錯乱した母が今度は美弥を抱きしめて喜んだ。
 同じ中学校からリリアン女学園を受験した生徒は何人も居たけれど、合格したのは美弥ただ一人だった。
 「美弥がリリアンに合格できたのなら公立高校なんて合格していてもリリアンに行かせるわ。そっちの方が自慢で
きるもの」
 などと言いながら……。
 そんな母に美弥は言ってしまったのだ。「リリアンでもどこでも、高校に行く気は無い」と……。
 そして翌日、母は自殺を図った。
 遺書らしいものには美弥がおかしくなったのは自分のせいである、とか自分がもっとしっかりと教育していれば、
などと書いてあったらしい。
 母は母で繊細だったのだと思い知った。
 まるで自分が一番傷ついたと思っていたのけれど、それは母も同じだったのだ。
 幸い一命を取り留めたけれど、今も身体の一部に麻痺などが残っている。
 自分のせいで人が一人命を失いかけた。全てがどうでも良く思えた美弥の心に、それは鋭く突き刺さった。
 それから少しして、美弥は父の姉である叔母のもとに預けられた。
 「もう、お前を母さんと一緒に住まわせる事は出来ない」
 叔母の元へ追い出される前の日、父からそう告げられた。
 そして、美弥はリリアンへの入学手続きを両親に代わって整えてくれた叔母の家に移った。
 子供の居ない叔母夫婦は優しかった。
 母を自殺に追い込んだような美弥を、我が子のように暖かく迎えてくれた。
 美弥がリリアンに通うことを決めたのは母への贖罪だったのかもしれない。

***

 教室に入っていくらも経たないうちに、始業式のために美弥たちは移動を始める。
 「同級生は「さん」付け、上級生は「さま」付けでお呼びするの。苗字ではお呼びしないのよ、例えば美弥さんが
上級生、わたしが下級生だとすると、わたしは美弥さんのことを「美弥さま」とお呼びすることになるのよ」
 出席番号で美弥のすぐ前の松永かえでさんが道すがらいろいろと教えてくれる。
 「有難う、まつな……じゃないのね、かえでさん」
 「いえ」
 間もなく入り口というところで、かえでさんは微笑みながら前に向き直った。
 なんと優しい人ばかりなのだろう。
 こんな自分にも親切に色々教えてくれる。
 鬱陶しさすら感じるほどに。
 講堂に入って決められた椅子に向かう通路でぽんっと腕に触れられた。
 誰だ、と思って振りかえると先ほどマリア像の前で声をかけてきた生徒が居た。
 「はい」
 歩きながらだったので何も答えることは出来なかったけれど、彼女は先ほどの事など気にしていない様子で笑って
いた。
 (二年生だったのね)
 座っている席は自分達が座る椅子の列とは反対側、二年生たちの席だった。
 「あんな口を利いた下級生にどうしてまだ笑顔を向けられるの」
 「え、何か言った?美弥さん」
 美弥の独り言に、かえでさんが振り返る。
 「あ、ううん。独り言だから気にしないで」
 「そう?」
 適当に返事をしたのに、かえでさんはくすっと小さく笑って前を向く。
 もしかしたらこのリリアンにはかえでさんや、あの二年生のように人の良い善人しか居ないのではないだろう。そんな
考えがチラッと頭をよぎった。
 (馬鹿馬鹿しい。自分がこんな出来損ないなのに、そんな事あるはずがないじゃない)
 母親を殺しかけたのに……。
 そこまで考えた時、着席の声が聞こえてきたので長椅子に腰を下ろす。
 壇上には面接で見たシスターが立っていた。
 「学園長のシスター上村よ」
 かえでさんが小声で教えてくれた。そういえば入学式でも見たような気がする。
 入学式の日は一緒に来る予定だった叔母が仕事の都合でどうしても来られずに、美弥がひとりで来たものだから、
手続きや何やらで忙殺されてしまって、式自体の記憶があまり残っていなかった。
 学園長の話が通り抜けていく。
 希望だの、期待だの、明るい未来を連想させる言葉が飛び込んでくるけれど、そんな言葉には何も感じるものはな
かった。
 なんの期待も、希望もない。
 ただここに居るだけ。
 通うと決めたときには母への贖罪じみた事を想ったような気もするけれど、実際にその場に立ってみると、それさえ
も勘違いだったのではないかと思えてきてしまった。
 これからの三年間、どうやってここで生きていけばいいのだろうか。
 もちろん、嫌でも卒業させられる義務教育ではないのだから、途中で退学する事もできるけれど、それは今考える
事ではないような気がした。
 あれこれと考えているうちに始業式も終わり、生徒達が教室に戻っていく。
 美弥のクラス、一年藤組の番が来てクラスメイトが一斉に立ち上がる。
 講堂から出て行くとき、なんとなく視線を向けた二年生の席。先ほどの二年生が隣の生徒とひそひそと話している
姿が見えた。
 何を期待していたのか、美弥はほんの少しだけ溜め息をついて視線を戻そうとしたとき、彼女は美弥に気づいて小
さく手を振った。
 美弥は慌てて視線を戻す。
 なぜだろうか。彼女の方に目を向けたときには何かを期待していたような気がしたのに、目が合った途端に自分を見
られるのが怖くなってしまった。
 そのまま、もう一度振り返ることもなく、美弥は講堂を後にした。

               ***

 「ごきげんよう」
 始業式の次の日の朝。
 昨日と同じバスで登校した美弥が、マリア像の前を通り過ぎようとした時、背後から挨拶をされた。
 まさかと思って振り返ると、そのまさかだった。
 そこには昨日のように、あの名前も知らない二年生が昨日と同じ笑顔で立っていた。
 「おはようございます……」
 既視感を振り払うように、美弥はとりあえず挨拶を返す。
 正直なところ、自分自身の事もうまく制御できないでいる美弥は、高校であまり友達や近しい人を作りたくはなかった。
 相手の何の気ない一言で、また母のような事になるのは嫌だったから。
 それなのに、かえでさんといい、この人といいどうしてこうまで美弥に世話を焼いてくれるのだろうか。
 こんなところで二年生に目をつけられて、変に目立ってしまうのは勘弁して欲しかった。
 「おはよう。でも、ごきげんよう。って言うのがリリアンでは一般的な挨拶よね。どっちでも構わないけれど、「郷に入れば
郷に従え」って言うじゃない?マリア様へのお祈りはしないにしても、挨拶くらいは合わせてみたらどうかしら。手間でも
ないし」
 カラカラと笑いながら彼女は言う。
 「どうしてそんなにわたしに世話を焼くんですか?えっと……」
                                   や ぎ う ち か の
 「あ、ごめんなさい。わたしは二年桜組の谷木内佳乃。あなたは?」
 「一年藤組の水無瀬美弥です」
 「美弥ちゃん、ね。よろしく」
 無邪気に谷木内さんが手を差し出す。
 これはやはり握手を求めているのだろうか。
 「握手、いやかしら?」
 やはり握手だったのか。
 美弥は呆れるようにしながらも右手を差し出した。
 「あの、谷木内先輩」
 「佳乃さま。って呼んで欲しいな。リリアンでの名前の呼び方、誰か教えてくれなかった?」
 谷木内さんの言葉に昨日、講堂までの道すがらにかえでさんに教えてもらった事を思い出す。
 リリアンならではの名前の呼び方を。同級生は「さん」、上級生は「さま」。
 と言う事は今、谷木内……じゃなくって「佳乃さま」が言った「美弥ちゃん」というのは下級生の呼び方なのだろう。
 「佳乃さま」
 「なにかしら」
 「その、名前の後に「ちゃん」と言うのはやはり下級生の呼び方なのでしょうか?」
 「そうね、全員ではないけれど、ほとんどが下級生は「ちゃん」付けで呼んでいるわね」
 「そうですか……」
 なんだか妙な学校に来てしまった。
 噂で上級生と下級生が姉妹と呼ばれる関係になるのは知ってはいたけれど、こんな名前の呼び方にまで独特のもの
があったなんて知らなかった。
 「おいおい慣れてくるとは思うけれど、あまり習慣とか無視していると却って目立つわよ」
 「え……」
 この人は何を言っているのだろう。
 本当にそう思った。たった二、三度会っただけなのに、どうして美弥が目立ったりするのが嫌だと考えていた事が
わかってしまったのだろうか。
 「やっぱりそうだった?去年同じクラスだった人になんとなく似たようなところがあったから言ってみたんだけど」
 自分はその通りですと言うような顔でもしていたのだろうか。
 佳乃さまは一人で納得したように、曲のある短い髪をいじりながら言った。
 「まあ、その子も周りのせいですぐにそんなこと出来なくなってしまったけれど。貴女ももしかしたらそうなってしま
うかも知れないわね。それじゃ、また。ごきげんよう」
 美弥が口を挟む間もなく、佳乃さまはそういって後者のほうに歩いていった。
 一体あの人はなんなのだろう。
 美弥の心を見透かしたように言い当てておきながら、これでもかと美弥にお節介を焼いて、そのまま去っていく。
 しばらく呆然としながら、美弥は佳乃さまの背中を見送った。

 −To Be Next−


久しぶりの更新がオリジナルになってしまい申し訳ありません。
「Confidence」の続きも思いつかず、瞳子ネタも無く、オリジナルに走ってしまいました。
新刊では有馬菜々の登場に衝撃を受けてしまいました。そうきたかって感じでしたが
菜 々が異常に気に入ってしまった自分にびっくりしています。
「エデンの〜」初のオリジナルキャラ作品、皆様がどう思われるのか非常に気になると
ころですが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。


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