Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「紅い薔薇の花びら」 第七話 『お姉さま』


 祥子さんに「さようなら」と言われた次の日、蓉子は何時ものように温室に立ち寄ったけれど彼女
 は居なかった。
 待ち始めてから5分、10分、15分と無慈悲に時間は過ぎていったが、祥子さんが現れる気配は
 無い。
 小さく溜息を吐きながら、蓉子はロサ・キネンシスの小さな蕾を眺めていた。
 この場所でこの小さな蕾を眺め始めてから既に30分。恐らく祥子さんは既に学校を後にしている
 だろう。けれど、何故だかここから離れる事が出来なかった。

 「買い被り……ね」

 祥子さんの台詞が頭の中で鮮明に再生される。
 放課後直後の中庭で、彼女は二年生から姉妹の申し出を受けていた。そして、その申し出をにべも
 無く断った。
 見も知らぬ上級生からの安易な姉妹の申し出。現在のリリアンでは比較的多くみられる光景だろう。
 だからこそ、このような伝統が今もって残っているのだろう。リリアンに通う、大多数の思春期の
 少女にとって、この上級生との関係は憧れとなっていて、そのステイタスと共に多くの学外の生徒
 が高等部に受験してくる一つの理由になっている。
 けれど、それは彼女の望んだ姉妹の形ではなかった。
 祥子さんがどのような人との関係を望んだのかまでは解らない。恐らくは彼女の中にある厳然とし
 た基準を満たした人でなければならないのだろう。昨日の出来事と、短いながらも今までに交わし
 た彼女との会話からそれは容易に想像できる。
 そして、あの言葉から察するに、蓉子はその基準を満たしつつあったのだと思う。

 「でも……」

 蓉子は思う。
 祥子さんを妹にしたいと思わなかった訳ではなかったけど、現実としてそれを強く願った訳ではな
 かった。妹を持つと言う事に実感が沸かなかったから……。

 「もうこんな時間……」

 はっとなって見た左手首の腕時計は4時を少し周った位置を指していた。
 慌てて立ち上がり、長時間しゃがんで居た為にスカートによっていた皺を伸ばして温室を後にして
 薔薇の館に急いで向った。スカートのプリーツは乱さぬように、セーラーのカラーは翻さないよう
 に……

 「お・そ・い」
 「すみません」

 お姉さまがくすくす笑いながら、嫌味を仰る。
 そんなお姉さまの笑顔に、先程まで温室で沈んでいた蓉子の心にじわじわと暖かさが滲んでいく。
 嫌味の中にも蓉子を思いやってくれているお姉さまの暖かさがとても強く感じられて。

 「心配したのよ、蓉子が理由も告げずに遅れるなんて今まで無かったから」
 「個人的な用事がありましたので」
 「まあ、いいわ。とりあえずお茶を入れて頂戴」
 「はい」

 お姉さまに促されるまま、蓉子は流しに向いアッサムのリーフをティーポットに入れる。
 何時の間にか令が隣に来てカップの準備をしてくれる。

 「紅薔薇さまは蓉子さまがいらっしゃるのを待っていらしたんですよ」
 「令……」
 「わたしがお茶を用意しようとしたら、蓉子さまのお茶が飲みたいって」
 「そうなの……」

 カップをソーサーに載せ、蓉子の傍らに差し出してくれながら、令はお姉さまの事をそっと教えて
 くれる。
 少し首を巡らせ、お姉さまの横顔を視界に納める。そのお顔は普段と変わりなく、優しく微笑みを
 湛えて他の薔薇さまと談笑していた。心の中で”ありがとうございます”とお姉さまに礼を述べる。
 優しく包み込んでくださるお姉さま。

 「お待たせしました、お姉さま」
 「本当よ、私は蓉子の入れてくれるお茶が大好きなの。だから理由も告げずに遅くならないでね」
 「はい」

 にっこり微笑むお姉さまの暖かい笑顔に、蓉子も飛び切りの笑顔で答える。
 けれど……。 心の奥では祥子さんのことが気になって仕方が無かった。
 彼女にはこのように包み込んでくれるお姉さまは居ない。あのきつく受け取られがちな表面上の雰
 囲気。その奥に潜む、ひどく弱々しげな本当の彼女の姿に気がついている人は一体どれだけいるの
 だろうか。理解してあげることが出来る人は……。

 ─翌日。

 移動教室のため、裁縫箱を抱えながらクラスメイトと被服室へ向う蓉子の前を祥子さんが一人で歩
 いてくる。

 「ごきげんよう、祥子さん」

 小さな不安を感じながらも、蓉子は彼女に挨拶をする。

 「……」

 しかし、祥子さんは蓉子の事を見るでもなく、無言で通り過ぎていった。
 蓉子は足を止め、過ぎ去った彼女の後姿を哀しげに見送る。
 やはり、彼女に嫌われたのだろうか。

 「今の、小笠原祥子さんでしょう。蓉子さん、親しかったのではなくって?」
 「どうだったのかしら……」

 クラスメイトのささやかな問いに、蓉子は曖昧な答えを返す事しか出来なかった。

 放課後、薔薇の館で生徒会としての雑用を処理していた蓉子の隣の席に突然お姉さまがやって来た。
 書類に訂正を加えている蓉子を頬杖をついて見ながら、何事か言いたげな様子で。
 なんだか心の奥まで見透かされているような気がして、どうにも居心地の悪さのような感じがして
 いたけれど、書類にシャープペンシルで修正を加えていく。

 「ねえ、蓉子」
 「なんでしょう、お姉さま」
 「江利子ちゃんから聞いたわ。小笠原祥子さんに嫌われたんですって?」
 「な……」

 お姉さまの言葉にはっとして、江利子の方を見ると彼女は当然と言った風に黄薔薇さまと話をして
 いる。

 「こっちを見なさい、蓉子」

 言われるままに視線を戻すと、お姉さまはにこにこしながら蓉子を見ていらした。

 「祥子さん、妹にしたいの?」
 「わかりません、この間お話したようにまだ妹なんて実感が沸かないんですもの」
 「そうかしら?」

 さも意外そうにお姉さまが仰る。

 「彼女の事、好きなんでしょう」
 「好きかどうかなんて……まだそんなに親しいわけでも」
 「嘘ね。蓉子は小笠原祥子さんと言う人に惹かれてる」
 「それは……」

 お姉さまはやはり蓉子の心を見透かしている。

 「それは認めます、でも好きかどうかは別でしょう」
 「同じよ。程度の問題だわ。それに、最近ここに来るのが遅れているのはリリアン瓦版に書かれて
  いた通り、祥子さんに会うためなのでしょう」
 「はい」

 何時もとは違う、真剣な眼差しのお姉さまの顔をじっと見つめる事が出来なくなって、蓉子はふと
 視線を逸らしてしまう。こんな真剣な表情のお姉さまをみるのは二度目だ。一度目はお姉さまに姉
 妹の契りを申し込まれた時。あの時はなんとも心が弾んだものだったけれど、今は……。

 「ねえ蓉子。人が誰かを好きになるのなんて時間も理由も要らないの。その相手のどこかにでも惹
  かれたのならそれが始まり。わたしの妹になったとき、あなたは理由なんて考えていたかしら?」
 「……いえ」

 お姉さまの言うとおりだった。
 あの時、ほんの数日前に知り合ったお姉さまが蓉子の事を、いえ、普段の毅然とした優等生ではな
 い、たった16年しか生きていない、脆くか弱い少女である蓉子の素顔を好きだと言ってくれたそ
 のお姉さまの姿に惹かれて申し出を受けたのだ。その時にはそんな事は考えもしなかった。ただ、
 「この人が好き」、そう思ったからロザリオを受け取った。

 「それが普通よ。わたしは人を好きになるのに理由を求めるような子を妹にしたつもりなんてない
  もの。そんな風に人を値踏みするような子だったら声すら掛けはしないわ」
 「お姉さま……」

 祥子さんのことを思ってみる。
 たしかに理由は無い。興味を持った、あの瞳に惹かれた。ただそれだけ。

 「言ってきなさい、祥子さんに」

 お姉さまの真剣な顔が、また普段の優しい顔に戻る。

 「あなたが好きだから妹にしたいって。そしてちゃんと返事を聞くの。それでもし振られたのなら
  私のところに戻ってらっしゃい。その時には優しくしてあげるから」

 その言葉に蓉子は瞳を閉じ、天井に遮られ、見えないはずの空を仰ぎ見た。

 「お姉さまの仕事はね、妹を優しく包み込んであげる事。だからもし、蓉子が必要とするのならい
  つでも抱きしめてあげる」

 最後の言葉には多少行き過ぎを感じないでもなかったけれど、そのお姉さまの優しさだけで蓉子の
 心の中には定まりきらなかった祥子さんへの想いが再び大きく膨らんでいくのが確信できた。
 今なら言える。

 ─祥子さん、あなたが好き。と……。

 −To Be Next−


今回のあとがきは、最終話に纏めて書きます。


Back | NovelTop | Next