朝からの嵐は、夕刻になっても未練のように吹き荒れていた。 それにも増して、人々の他群れるその場のエネルギーは何かを孕み溢れ膨張しつつある。 その圧力に圧倒されわが身は丸く小さく佇んでいる。外庭の舞台空間に配置され、嵐に翻 弄され声なく抗う無数の“白い風船”その中に私は入り込んだ。次々と織りたたみ込まれ る音と動き、迸る息遣い、綿の衣の起こす風が人間の日常と非日常の狭間を漂い、幾時が 身体をすり抜けていく。気がつくと雨はやんでいた、でも月は見えない! 月はまだ出て いないはず、なのに月光スポットライトを浴び現れる男、天然肉体詩人「虫丸」の肩は確 かに光っている。月の光が描いた一筋の道を戸惑いもなく近づいてくる。一瞬息をのむ気 配、そこにいる誰しもが感じたであろう「あっ、私を観てる!」古い肖像画のように・・・ 他はすべて視界から消え去る。この場に集う期待感はこの一体感を求めているのだろう か、心身に潜む「一如」の快感の記憶を探っているのだろうか・・・風巻く庭の奥から軒の 縁までただ歩いて来る「貴方は誰?」異界からの使者のよう・・・身体の中をしびれの ように走っていたギターの音もこの時、無音と化す。この数分間に凝縮された命の輝き。 美しく、気高く、そして悲しい、身体表現の粋。月も観ていた。すべてとひとつになって・・・ 身体そのものを表現体にする舞踏手は本来の素質の上に何を積み重ねているのだろう。 同じ事をやっていても感応する人、しない人、何が分けるのだろう? 私のように空間上に身体の動きをもって構築、演出創造する人間にとって、その素材にな る「個」というものに最も関心があるのは当然、もちろんモノとしてではなく人間として である事は云うまでもない。表現方法、訓練が違う素材どうしのコラボレイションは絶対 不可能と云う人もいるが、私はそうは思わない。やはり人間その人物の器であり、関わり 方の問題であろう。その「個」の持っている魅力的な存在感をより引き出しクオリティの 高い作品にしていくのが、演出家の手腕であり、醍醐味だと思う。 今年の夏、アートコンプレックス1928でのJunk’s Dance Crewの公演「ちりぬるを」 は私にとって今までになく面白く、充実した創作活動になった。申し訳ないが、やりたい事を みなやった、出し惜しみはしない主義。確かにまだまだ課題はある、でもことのほか巧く いったと自負している。虫丸氏の存在も大きかったが、出演者、スタッフを決めた時から それぞれその人の力量で思う存分やって貰えれば良いと思っていた。あまり不安にもな らなかったのは何故だろう?きっと色々無理難題も聞いてくれた寛容で才能のある皆さん のお陰、大いなる感謝を献上! さらに「個」である己に磨きをかけ、益々多くの出会いと交流の拡がりを望み、短い人生の 中での長いお付き合いを心より願う・・・ 格段暑かった夏の火照りが未だに残る頬に、えにし庵に起こった風がここちよく、金木犀 の香りが奥深く染み入り、泡立つ心がしんと静まる・・・ ああ!生きている! 新たな旅が始まる・・さて何処へ・・・月光の道を夢見つつ、更に歩を前に・・・! 2001/10/13 記 薫 |