GBのアームチェアCinema見ist:W.I.L.L.O.W

W.I.L.L.O.W

ウィロー:W・I・I・L・O・W

監  督 ロン・ハワード/ジョージ・ルーカス
音  楽 ジェームス・ホーナー
主  演 バル・キルマー/ワーリック・デービス
助  演 ジョアンヌ・ワーリー
製 作 年 1988/米
シナリオ 


剣士マッドマーティガン役のバル・キルマーは「トップガン」のトム“アイスマン”カザンスキー役。ウィロー役のワーリック・デービスは「ジェダイ」「イウォークアドベンチャー」「エンドア」のイウォーク族ウイケット役で有名。
最近では「ハリー・ポッター」に妖精の教授役でも出演している。
ルーカス氏は絶対に観客を裏切らない。
この作品もファンタジーファンやルーカスマニアだけでなく老若男女誰がみても心から楽しめる作品である。

鑑賞:88.7.27.
(当時某パソコン通信映画SIGに書き込んだもの:原文まま)
“W・I・L・L・O・W”見てきました。
映画みるまえにまずひとこと「ルーカスさん、スターウォーズの続きは一体どうなっちゃったの?」というスターウォーズフリークスの素朴な疑問。
さて、前知識として、まるで、D&D R.P.G.のようなお話しじゃねーか。とか、スターウォーズの中世版だろう。とか、「指輪物語」をメインモチーフにした、神話、民話、ファンタジー、その他もろもろの混ぜ合わせごった煮映画だろうと思っていた。
…実は、息子(小1)にせがまれていったもんで…若くして所帯をもったので、子持ちなのだ。(一所懸命自己フォロー)
要するに、ジョージ・ルーカスは好きだけれど、余り期待して無かったという事なんだな。これが。しかし…

結論から言うと…
1,500円は惜しくない!(わたしゃいつも1,200円の特別観賞券だけどね)

シナリオその物は、まさに、どこかで聞いた話の寄せ集め、聖書あり、ギリシャ・ローマ神話、北欧神話あり、イギリスファンタジーありと賑やか至極。
映像は、まさにスターウォーズ、インディージョーンズ、007。おまけに黒沢明にジョンフォードと来たもんだ!
こう書いていくと、まるでこの映画を否定しているように見えるけど、決してそうじゃない。
2時間7分全く飽きることないスピード感。(これぞルーカス映画の真髄!)
観客を絶対裏切らない展開。←これは、実は娯楽映画にとって大変大事なことなのだ。
大多数の観客の期待する展開をそのまま進行させるというのは簡単なようで、実は難しい。みんなが考え付くような筋書きでラストまで突っ走れば、普通ならとてもボンクラシナリオになってしまうのは必至だろうから。
さりとて、よくある「意表を突いた結末のどんでん返し」なんてことをやたらやられると、観客は少なからず、違和感、欲求不満を感じることも多々あることも確か。
凡庸に陥らず、しかし予想を裏切らず優れたシナリオを創造する。やはりルーカス先生「タダモノデハナイ!」
勧善懲悪正義の味方、冒険活劇痛快無類!単純明快映像美麗。(こりゃーまるで変換ヒット率のテストだ)
例えば、悪の魔女の娘、ジョアンヌ・ワーリー扮する「ソーシャ姫」。結構私好みのいい女で、見るからに(メイクも)悪党面ではないと思っていたら、案の定冒頭で、魔女の側近が「女王は姫に滅ぼされるであろう」との予言。ふーん、やっぱりね。でも決して落胆ではない。美人はやっぱり“正義の味方”であって欲しいもんだ。
助演のバル・キルマー(トップ・ガンに出ていたって?知らなかった)扮する風来坊の剣士マッドマティガンは正に永島敏行(←この字でよかったかな?自信がない)面。スターウォーズのハンソロを彷彿とさせるとぼけた二枚目。
個人的にはギャバン・オハーリヒーのエアク将軍が好みのキャラクターではある。
ひとつ気になったのは、主人公ワーリック・ディビス扮するウィロー初めネルウィンの村の人々。欧米にはああ言った俗に言う「小人」(差別的意味じゃありませんよ。念のため)の俳優のユニオンがあって、市民権を得て活躍しているそうだが、我が国では、この映画は作れなかっただろうな。

ここから先は一寸映画の本題からはずれるので、だるいと思う人はBREAKして下さい。(差別逆差別について)

かつて、某小学館(特に名を明かす)の下請けの企画の仕事をしていたとき、我が国出版の歴史に汚点を残した(と私は思っている)ピノキオ絵本事件があった。
ピノキオのお話しをご存じの方はお分かりと思うが、ピノキオを悪の道に誘惑するのが「片目のキツネ」と「ビッコのネコ」なのだ。
よいお母さんたちの団体(名前は忘れた!)や、なんたらいう団体が日く、「この話を読んだ子供が 目の不自由な人や、足の不自由な人を悪人だと思い込んでしまったら困る」
なんだいこりゃ、ほとんど闇雲、ただのヒステリー。
その後、小学館の絵本から、ピノキオの二人(2匹?)の悪党がいなくなったとさ。
この話、完ぺきに逆差別だと思わない?
後日談があって、ピノキオの時は我が社(ノベルティや付録の企画をしていた:前にいた会社だけど)には直接の被害はなかったけど、小学館やたらと神経質になってしまって、出版物その他の見直しをおっ始めたんだ。ここで我が社は被害をこうむった。
忘れもしない、“ガキオヤジ”と言うキャラクターだった。ポリ成型の金型を起こし終わったところで事件はおきた。
“ガキオヤジ”の指が4本だったんだ。
ウォルト・ディズニー以来、漫画の主人公の指は4本がおおい。鉄腕アトムしかり、チャーリーブラウン(こやつは、時と場合で4本と5本を使い分ける)しかり。デフォルメした絵柄に5本指はいささかバランスが悪いという理由だそうだ。
これ等は、逆差別以前のただの集団ヒステリーじゃないかと思う。
ポリエチレンの人形は金型とともに闇のかなたへと葬り去られました。あーもったいな。
それに付けても我が国の良識と呼ばれるものは寒い。
身体障害者や被差別者達を保護しようなんて言う発想がそも胡散臭い。(ピノキオの話をねじ曲げちまったおばさん達や表面的に福祉なんて大声で叫んでるような人々のことだよ)
大体“保護”って言葉は上から下への施し以外の何でもないじゃねーか。
「メッカチ」や「ビッコ」(昔の絵本ではこういう表現がなされていた)を表現から駆逐するなんて事に血道を上げるのは一寸見当違いも甚だしい。もっとも障害者問題や同和問題で金儲けをするとんでもないやつらもいるので、こういう事件はなくならないとは思うけどね。
実は、学生の時は、「社会福祉」などという物を専攻していたんだが、この国の意識は「みんな同じじゃないか、一緒に暮らそう」では決してないんだよね。
妊娠中に胎児に障害あることがが確認されるとほとんどの医師は「堕胎(中絶なんてのはいいがかり、堕胎は殺人だ)」を勧めるんだそうな。これってナチの優性思想とどこが違うの? さて、生まれてしまえば施設はほとんど隔離のためのもの。電車の駅を見れば、確かにこれ見よがしに点字ブロックや「車椅子も通れますよ」と言わんばかりに一部申し訳程度に拡張した改札口。
でもね、その点字ブロックや改札口に行きつくまでになにがあるとおもう?
障害者云々以前、町を子供の目の高さで見てご覧(車椅子の人の目の位置もおなしぐらいだね)、普通に何も考えずに暮らしてる人には一寸怖くて歩けないよ。
誰も本気で健常じゃない人々や未来を担う子供達と一緒に暮らしていこうなんて考えてはいないんだ。
福祉を前面に訴えても選挙じゃ勝てないからねー。
GB500はこの国の良識の行く末を憂えているのだ。
本編と関係のない話をたくさんしてしまったけど、これも映画を見て導きだされた感想。

さて、だらだらと書き綴ったこのアーティクル、さいごまで読んでくれた人ありがとう!
映画はとっても面白かったよ!

不条理に怒る GB500

(88.7.28.)
“W・I・L・L・O・W”確かに面白かった、入場料は惜しくない。
“エンドア”が「すか」だったので余計に楽しめたのかもしれない。
(残念ながら、と言うか、幸いにして、と言うか“イウォーク・アドヴェンチャー”は見ていない)
ルーカス作品に対して「すか」評価をすると“ルーカス・フリークス”の皆さんに集中砲火を浴びるのは必至だけれど、とりあえず“エンドア”は「すか」。
きっと“イウォーク…”も「すか」でしょう。
この2作品、“W・I・L・L・O・W”のパンフを読むまで知らなかったのだけれど、ルーカスフィルムの「TVムービー」なのだそうな。
そう言えば、確かにスクリーンはスタンダードサイズだったし、シナリオもなんとなく安易な進行だったような気がする。何と言っても本編が短かった。
宣伝では当然「TVムービー」ですよ等絶対言わないし、パンフにすら一言も書いていない。
テレビ用作品なら、制作費・時間ともに劇場用ほどかけられないのは当然で、それを知らずに入場料払って裏切られた観客こそ「いいつらのかわ」。これはルーカスには全く責任がない。悪いのはひとえに「東宝東和」の詐欺集団(一寸言い過ぎ、御免なさい)
“アメリカ物語”もよかったけど何となくディズニーコンプレクッスを感じてしまって印象に残っているのはテーマミュージックだけ。(これは車のCFにも使われているしね)

ルーカス作品は観客を裏切らないみたいな「固定観念」を持っている我々がわるいんだろね。
それはそうと“ジェダイの復讐”(RETURN of the JEDI)これってどう考えても「ジェダイへの回帰」の誤訳じゃないかと思うのは私だけだろーか。

いま我が国では、コンピュータゲームを初めとして一寸した「ファンタジー」ブーム。 でもね、昔からのファンに言わせるとただ衣装・設定をそれらしくして勇者やお姫様、ドラゴンや魔法を出せばそれで「はいファンタジーでございます」ってのもねー。

ファンタジーの世界はもともとヨーロピアン(特にイギリス周辺に住む人達ね)のもの。
その底には先祖代々受け継がれてきた「価値観」。そして、土着宗教からクリスチャンになっていく過程(まだクリスチャンでない人々もかなりいるそーな)での宗教観、風土・気候、言語その他が渾然となって醸し出す世界だから。
パンフの中で監督のロン・ハワードは「演出上、言葉特にアクセントには気を配った。西洋には、フェアリーテールの国と言うとヨーロッパ的なものというイメージがある。アメリカ英語の台詞では映画の雰囲気が台無しになってしまうんだ」と語ったと記されている。
ふーん、そーだろなー。「竹取物語」は見てないけど、かぐやひめが「へー、うっそー、やだー」とか、翁が「したっけが、しょーがねーじゃん!」とか言ったらこりゃぶち壊しだもんねー(ちと例がひどすぎた)

さて、我が国の数少ないファンタジーメーカーはと言えば、やはり「宮崎駿」の名をあげないわけにはいかないだろう。

また「風の谷のナウシカ」がTV放映されましたね。「となりのトトロ」も現在文芸座で上映中だし。
この2作品については、今回は特に言うことはないけれど、この間一寸読んだ物に宮崎駿氏の面白いお話しがあったので一寸長いけれどそのまま引きます。

「人間に害するから害鳥で、人間の役に立つから益鳥というのも、おかしな話でね。風景ってのは、みる人間の感情によって印象が変わるんですよ。豊かな自然というのは、同時にすごく凶暴な自然であるはずです。だから、人は自然に対して謙虚にもなるし、豊かさについても十分知ると思うんですよ。“ダーククリスタル”を見てるとね、なんか、これで何千年も地上がダメになるなんて言ってるでしょう。それでラストがどうなるかというと、ゴルフ場みたいなのができて(笑)。あれだったら、元のジャングルのほうが、いろんな生き物がたくさんいて、よっぽど生き生きしてましたよ。それでいいんじゃないかと思う。だから、じつに変な話だなとぼくは思っている。(笑)--以下略--」

うーむ。“ダーククリスタル”は映像表現に気を取られて(ブライアン・フロウドのファンだもので←うっ、変態だ、変態だ!)そこまで気づかなかったなー。やはり宮崎先生は偉大だ!
表現の形態こそ違え我が国で一人作家名を上げよ、と言われたら迷わず「宮崎駿」の名を上げてしまうな。
“ナウシカ”も“ラピュタ”ももちろん素敵だけれど、個人的には“トトロ”がいっちゃんすっきやねん。


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