<コンサート きいて、みて>
1998年10月

プロの演奏家、団体によるクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
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*エフゲニー・キーシン ピアノ・リサイタル
  1998年10月31日(土) 19:00〜 サントリーホール
 エフゲニー・キーシンの実演に接するのは随分久し振りである。 実はキーシンのライヴを(最初で)最後にきいたのは、今から約10年前のことだ。 それ以後、彼はたびたび来日していたように思うが、どういうわけかこちらの都合がつかず、ずっときけずにいた。 勿論、彼はその間に世界中の桧舞台を数多く踏んで、今や押しも押されぬ名若手ピアニストになり、それはしばしばリリースされる彼の新譜をとおしても確認できていた。 でも、実演をきくのが、やはり一番であろう。 この日のプログラムはアンコールまで含めて、全部ショパンの作品であった。 女性ファンがかなり多いのは、10年前と同じ。
 現在、27歳のキーシンのピアノは、作品全体を広い視点で見渡して、音楽を隙もなく構築してゆくことに、最大の美点があるように思えた。 それとテクニック。 キーシンのテクニックはほぼ完璧で、それも妙に才気走ったところがなく、ヴィルトゥオーゾぶりをこれみよがしにアピールするところもない。 実に当たり前に「上手い」のである。 それらの美点が如実に反映されていたのが、「24の前奏曲」である。 ひとつひとつの曲調、曲想を慎重に吟味して、全体としてひとつの大きな世界を表現していた。 その構成は強靭なもので、その点ではまるでバッハでもきいているかのよう。 この曲集を全曲通して演奏して、これほど作品の本質を直截に明らかにする演奏は、なかなかきけるものではない。
 休憩を挟んで、「舟歌」にもキーシンの作品に対する鋭い目が光っていた。 しかし、ないものねだりを言わせてもらえば、こういった作品に対してのアプローチとしては、やや息苦しい気もした。 あともう少しだけ、遊びごころ、というか、ゆとりのようなものが欲しくなる。 とても立派な演奏ではあったけれど、この作品の持っているある種の弱さも、同時に呈示されてしまっていたようにも思った。
 やはり最大のききものは、ピアノ・ソナタ第2番であった。 キーシンのいいところが、すべて織り込まれたような演奏。 ソナタの構成力、第1、第2楽章での、安定したテクニックの上にある迫力、第3楽章での明暗の対比、第4楽章での、ひとつひとつの音を明確にひきわけるテクニックなどは、もはや大ピアニストの風格すら感じさせるもの。 それまで携帯電話が鳴ったり、物が落ちたりして、様々なノイズがきかれたホール内も、この曲のときは静まり返っていた。 聴衆が唖然としていたのも、無理もないことであろう。
 鳴り止まない熱狂的な拍手に応えて、アンコールが何と5曲。 ワルツ、マズルカなどが、詩情豊かに演奏されたが、中でもスケルツォ第2番が、キーシン入魂の演奏であり、圧倒的であった。
 キーシンは、極めて順調に成長しているように見え、名ピアニストの系譜に入ろうとしているようだ。 ただ、そう見えても、若くしてスターであった彼には、ここまでくるのに多くの困難があったと思うし、今後もあることだろう。 それらに負けることなく、また一見順風満帆に名ピアニストとなった彼の演奏を、何年後かにきける日が来るのだろうか。



*紀尾井シンフォニエッタ 東京 第16回定期演奏会
  1998年10月24日(土) 18:00〜 紀尾井ホール
 紀尾井シンフォニエッタの結成以来4シーズン目のスタート。 例年より、やや遅れての開幕である。 今回も指揮は、首席指揮者の尾高忠明。
 まず、プロコフィエフの交響曲第1番「古典」。 立ち上がりから爽やかな勢いを持って始まった演奏は、各声部を立体的に響かせ、見通しのいいすっきりとした流れを維持した。 こういった作品は、このオーケストラの得意なレパートリーになるのだろうが、各セクションが有機的に統一され、その中でのオーケストラの自主性が音楽に生気をもたらしていた。 指揮の尾高はその自主性を大事にし、その上で音楽に適切な方向性を与えており、演奏を首尾よくまとめていた。
 次にハイドンのチェロ協奏曲第1番。 チェロにスティーヴン・イッサーリスを迎えた。 イッサーリスの出すややくすんだチェロの音色は、意外にハイドンとマッチしていた。 テクニック上の安定感もかなりあって、メリハリをしっかりとつけたフレージングは、これも音楽をよく息づかせる。 どちらかと言えば筋肉質な感じのある演奏で、オーセンティックな要素があると言えるが、まったく無理が見られず、作品が手の内に入った演奏を余裕を持ってきかせるところは、もはや名人芸の域に達している感がある。 何よりもイッサーリスは、自分の個性というものをしっかりと持っており、尾高と紀尾井シンフォニエッタも、それにぴったりとつけた。 かなりレヴェルの高い演奏であったせいか、鳴り止まぬ拍手にアンコールを2曲、無伴奏で。 ピアティゴルスキーが編曲したプロコフィエフの「マーチ」と、カザルスが編曲したカタルーニャ民謡「鳥の歌」。 かつての偉大なチェリストふたりが編曲したこれらの曲を、イッサーリスは祈るように弾いていた。
 後半は、ベートーヴェンの交響曲第7番。 昨シーズンあたりから、紀尾井シンフォニエッタは、こういった大規模な曲を取り上げることがしばしばあって、「室内オーケストラとしての特色が希薄になってきた」といった意見も、一部の聴衆の間から出ているようだ。 私も、そう思うときもあるけれど、反面、このくらい規模の現代楽器のオーケストラで、ベートーヴェンやメンデルスゾーンや、時にはブラームスだってきくことの興味深さも、なかなか捨て難いような気がする。 実際、この日のベートーヴェンもおもしろかった。 基本的には、作品の古典的造形を重視した演奏であり、その枠組みの中での前衛性までにも踏み込んだものであった。 尾高は当然のことながら、リズムを意識し、きびきびとしたアーティキュレーションをオーケストラに要求する。 そして時に炸裂するフォルテでは、音が多少混濁してしまうことを厭わず、奏者に相当な音量で弾かせる。 このやり方は、これまでの紀尾井シンフォニエッタの演奏会ではあまり見られなかったものであり、このオーケストラの新たな展開を予感させるものであった。 音楽は、室内オーケストラを思わせない迫力を持ったクライマックスの中で終結した。
 現代楽器の室内オーケストラにおける「古典」を、考えさせられた演奏会であった。



*ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  1998年10月21日(水) 19:00〜 サントリーホール
 ベルリン・フィルの今回の来日公演、東京での最終公演である。 プログラムはシューマンとフランス印象派の音楽、という、やや焦点が絞りにくいものである。 指揮は勿論、芸術監督のクラウディオ・アバド。
 開演前のステージ上は、早くも2曲目のピアノ協奏曲に備えて、指揮台の手前にピアノが置かれている。 アバドはまず、シューマンの「マンフレッド」序曲を、ピアノの向こう側で指揮した。 強烈な勢いを伴って開始されたこの曲、アバドは予想通り、劇的に音楽を進めてゆく。 それが、リズムもテンポもとてもしっかりしているので、決して浮ついた感じはしない。 それにしても、ベルリン・フィルの表現意欲の、何と旺盛なことか。 これが超一流のオーケストラである。 技術的なことはさることながら、団員ひとりひとりが音楽を積極的に「表現」しようとする意気込みが、大変な迫力となってきき手のこころを鷲掴みにする。 1曲目から相当なインパクトである。
 1曲目に対する拍手が鳴り止まぬうちに、楽員が次の曲のために入れ替わっている最中に、スタッフがピアノの蓋を開けようとしている間に、アバドはもう、次のピアノ協奏曲のソリスト、マリア・ジョアン・ピリスを連れて入場してきた。 このあたりのアバドのステージ・マナーと言ったら、「勿体ぶる」ところなど微塵もない。 いかにもアバドらしいマナーである。 あっという間に、シューマンのピアノ協奏曲が始まった。 ピリスのピアノは相変わらず、細やかな感性を下敷きにした、とてもリリカルなもの。 そのピアニズムはここではいささか地味ではあったけれど、その音楽が語っている内容は深い。 ただ、このピリスのピアノにとって、ベルリン・フィルは少し重かったような気がした。 アバドが慎重に注意を払って、伴奏をつけようとしていたけれど、どうしてもピアノがオーケストラに負けている印象がつきまとう。 それでもピアノが裸になるカデンツァ部では、ぞくぞくするほどの美しいピアノがきこえてくる。 少し、複雑な感想を持ってしまった演奏であった。
 後半は、フランス音楽の名作をふたつ。 まず、ドビュッシーの夜想曲。 これは各楽曲につけられた表題どおりの光景が目に浮かぶような演奏であった。 アバドは冷静に、音楽を丁寧にときほぐし、ベルリン・フィルもそれによく応えて、実にすっきりとした、見通しのよい演奏をきかせてくれた。 と言っても、それは少しも分析的ではなく、この音楽の美しさが自然に表わされたものであった。 『シレーヌ』でのヴォカリーズは、オーケストラの真中から後方にかけてばらばらに配置されたアーノルト・シェーンベルク合唱団が受け持ったのだが、これがまたアバドの意図にぴったりの、無垢な清潔さをもった合唱。 全員着席したまま声を出していたので、各人がさながらオーケストラの楽器のよう。 本当の意味で、繊細な演奏であったと言える。
 そして、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。 これもアバドお得意の楽曲で、最初のコントラバスの弱音のピチカートから、何と音楽的であったことだろう。 アバドもベルリン・フィルも、実に楽しそうで、きいている私もわくわくしっぱなしであった。 無論、クライマックスの表情は圧倒的で、ベルリン・フィルが、その機能性を存分に見せた演奏であり、きいたあとは非常な充足感に満たされた。
 更に、アンコールにストラヴィンスキーの「火の鳥」のおしまいの部分、『子守歌』と『終曲』。 ドビュッシー、ラヴェルの後に、ストラヴィンスキーを持ってくるあたり、なかなか心憎いが、演奏は決して「おまけ」ではなく、細部まで丁寧に仕上げられており、充実度は本プロに匹敵する。 最後は圧倒的な高揚感を生み出して、演奏会は終演した。
 今回のアバドとベルリン・フィルの公演は大変に充実したものであった。 これは、アバドとベルリン・フィルの共同作業が、ひとつのピークを迎えているからではないだろうか。 アバドの2002年の芸術監督辞任はもう決定しているようだが、私たちはもう一度、この組み合わせをきくことができるはずだ。 2000年の「トリスタンとイゾルデ」の本格上演が、恐らくその機会になると思うけれど、それが今から待ち遠しくてならない。



*イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
  1998年10月20日(火) 19:00〜 東京芸術劇場
 イスラエル・フィルの日本公演、指揮はロリン・マゼールである。 と、言っても、この公演は数年前から開催されている「マゼールと世界のオーケストラ」シリーズの一環で、興行的には主役はマゼールのようだ。 ともあれ、このところメータの指揮できくのが当たり前になっていたこのオーケストラが、マゼールの指揮でどんな音楽をきかせてくれるのか、興味深いところだ。 今回はマーラーの交響曲を集中的に取り上げるもので、この日は交響曲第1番と交響曲第4番。 この順番で演奏される予定であった。 プログラムにも、そう発表されている。
 開演前のステージ上の様子をもっとしっかり見ておくべきだった。 マゼールが指揮台にあがり、指揮棒が軽快に拍子を刻む。 第1番の棒にしてはおかしい。 出てきた音をきいて、一瞬何が起こったのかと思ったが、すぐにそれは第4番の出だしだと分かった。 ステージをよく見ると、第1番にしては管楽器の編成が小振りだし、何よりもコンサートマスターの横にはヴァイオリンがひとつ余計に置かれている。 これは、どう見ても第4番が演奏されるべき状況ではないか。 つまり、曲目の前後が、発表と逆転していたのだ。 開演前にロビーに張り出してあった掲示を見落としたか、はたまた断りのアナウンスを聞きそびれたか、と思い、休憩時間にロビーを見渡したが、掲示はなく、かといって混乱が起きている様子もない。 演奏会終演後、出口の所に、演奏順が逆転した旨と、それに関する「お詫び」が主催者の名前で張り出されていた。 これは、後の祭りである。 いったい、こういう事を気にする聴衆がどれほどいるのかは分からないけれど、私個人としては、大変に戸惑ってしまった。 第1番と第4番では、きく前のこころの持ちようが随分違う。 きいている方は、すんなり演奏に入っていけないと思うのだが、こんな些細なことを気にするなんて、と呆れられてしまうだろうか。
 そんなわけで、最初の第4番は、なかなか演奏に集中出来なかったのだけれど、第1楽章中盤あたりから、気持ちを立て直してきいた。 いかにもマゼールらしいマーラーだったが、かつてに比べるとかなり音楽に無駄がなくなったような印象。 無論、随所に彼の閃きのようなものが見え隠れするのだけれど、結構すっきりとはまっていて、才気走ったイメージは弱くなっていたと思う。 と言っても、演奏が悪くなったということではなく、これはこれできき映えがする。 第2楽章はおもしろかった。 特にホルンが特徴的で、決して洗練された音色ではないのだけれど、テクニックは見事であり、マゼールの管を随所で強調する解釈も手伝って、ホルン協奏曲の様相を呈するほどの存在感。 第3楽章は意外にあっさりしていた。 そして第4楽章に入る前に間を置き、ここでソプラノのアンジェラ・マリア・ブラジを迎え入れるのだが、ここは個人的には、やはりあまり間を空けて欲しくなかった。 マゼールの考え方なのかも知れないが、拍手も起きるし、緊張感をそがれる。 途中でソリストを入れるなら、やはり第2楽章と第3楽章の間の方が違和感が少ないと思う。 そのブラジだが、なかなか美しい歌をきかせてくれたけれど、表情がやや平板だったような気がした。
 後半は交響曲第1番。 マゼールはイスラエル・フィルをよく鳴らし、豪快な音楽に仕上げた。 このアプローチなら、この曲を後ろに持ってきた方がおさまりがいいのだろう。 オーケストラが爆発するところなど、その直前に大見得を切るなど、マゼールの面目躍如といったところが、いくつか見られたけれど、それでもこの日のマゼールは大分大人しかったのではないだろうか。 これは、テレビカメラが入っていたことと、無関係ではないのかも知れないけれど。 全体を通してみれば、なかなか充実したマーラー演奏であったと思う。
 ただ、この演奏会から今のマゼールが何をやりたいのかは、あまりよく見えなかった。



*ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  1998年10月19日(月) 19:00〜 サントリーホール
 このところ、2年毎に日本公演を開催しているベルリン・フィル。 今回も、芸術監督のクラウディオ・アバドの指揮で、マーラーの大曲を持ってきた。 この日の曲目は、交響曲第3番。 アバドとベルリン・フィルが、これまで日本で演奏したマーラーの充実度を考えれば、このプログラムが今回の来日公演の最大の目玉であると考える向きは多いだろう。 いい演奏への期待感から、開演前から場内に熱気がみなぎっている。
 その演奏だが、第1楽章が始まってしばらくは、私はまず複雑な思いにかられた。 確かに冒頭の金管は朗々と鳴り響き、その後の音楽もアーティキュレーションやフレージングが、まったくもって正確であり、曖昧さは皆無だ。 しかし、変な言い方だが、すべてが折り目正し過ぎるのだ。 私はこの曲のこの楽章には、色々な楽想が、めくるめく変化を伴って、ある意味で刺激的に表現されることを期待してしまうのだが、アバドの指揮にはその「変化」が乏しいように思われたのだ。 ゆったり目のテンポをベースに展開されたその音楽は、ひょっとしてこれは期待外れの演奏になってしまうのでは、と危惧したのだが、それは私の、とんでもない浅はかな大誤算であった。 この楽章も中盤を過ぎ、後半に入る頃になると、アバドの意図が遅まきながら見えた気がして、この演奏に一気に目覚めてしまった。 「緻密にコントロールされた騒乱」というのがこの楽章の趣旨だとすれば、それをこれほど純音楽的に表現した演奏は、他にあっただろうか。 正確なフレージング、大きく揺れることのないテンポは、やはりこの曲の表現する「自然」を、スケール大きく抽出しているものであるし、それは音楽が進むにつれて、思いもよらなかった迫力を生み出し、コーダの部分では完全に納得してしまった。 マーラーだからと言って、大袈裟に騒いだりする必要など、全然ないのだ。 私はともすると、このことを忘れがちである。
 第2楽章と第3楽章は、アタッカで演奏された。 これはアバドのひとつの持ち味である、「爽快感」を如実に生かしたものであり、音楽はここで安らぎを取り戻す。 ベルリン・フィルはどんどん演奏に熱が入ってゆく。 それを冷静に捌くアバド。 大変な見物でもある。 舞台裏からのポストホルンのフレーズが、ベルリン・フィルの弦楽器の珠玉のピアニシモの上で奏でられた時の素晴らしい瞬間をどう説明しよう。 そして今回の来日中、この演奏会の2日前に実父を亡くされたと言う大変な状況の中で、この日のコンサートマスターを務めた安永徹の、最高のヴァイオリン・ソロ。 ひとつひとつが、当たり前のこととして、目の前に展開されてゆく。
 第4楽章の冒頭の弱音は、実に深みのある、味わい深いもの(本当はこんな言葉では足りない!)で、アルトのアンナ・ラーソンの、艶もあり声量も充分な、心のこもった歌唱がこれに続く。 第5楽章の合唱は、アーノルト・シェーンベルク合唱団が、25名という必要最小限の人数であたったが、今までこの曲で、こんなに上手い合唱はきいたことがない。 発音は明瞭で、なによりも純真さが際立っており、この曲にぴったりだ。 児童合唱は、お馴染みの東京少年少女合唱隊だが、27名の彼らも、私が今まできいてきたこの合唱隊の歌としては、最高の出来であったと思う。 なお、合唱団はステージ後方席(Pブロック)に陣取られ、中央部に女声合唱、向かって左手に児童合唱が置かれ、右手は客席になっていた。 珍しい配置だと思う。 アバドは中間部のテンポをぐっとおとして、デモーニッシュな部分を強調していたのが印象的。
 そして、素晴らしい第6楽章である。 これはもう、言葉にはできない。 これほど美しいマーラー演奏があっただろうか。 純粋に、自然に、繊細に、音楽的に・・・。
 アバドとベルリン・フィルのマーラーならば、4年前の第9交響曲、2年前の第2交響曲と、いずれも名演であったけれど、今回の第3交響曲もそれらに匹敵する、いや、ことによるとそれら以上の、感動をもたらしたと思う。 演奏中に、何度も涙が出た。 今、私はこの演奏をきくことができた幸せを、かみしめているところである。



*新日本フィルハーモニー交響楽団 第270回定期演奏会
  1998年10月18日(日) 15:00〜 すみだトリフォニーホール
 新日本フィルの10月の定期演奏会は、名誉芸術監督の小澤征爾の指揮。 今回のオーケストラ配置はヴァイオリン両翼型ではなかった。
 R.シュトラウス特集の予定が、「4つの最後の歌」を歌う予定だったシルヴィア・マクネアーのキャンセル(親族が重病のためらしい)により、ナタリー・シュトゥッツマンが代役に立ち、プログラムもマーラーの「亡き児をしのぶ歌」に変更になった。 個人的には、「4つの最後の歌」の方がききたかったのだが、シュトゥッツマンの名演で、そんなことはどうでもよくなった。 都響の今月の定期で、美しいヘンデルをきかせてくれたシュトゥッツマンだが、マーラーでは更に、歌の心象風景にまで踏み込んだ木目の細かい歌唱を披露しており、その清楚で美しく、ほの暗い声も、女性が歌った場合のこの歌曲にぴったり。 声量は大きくないから、迫力をきかせるタイプでもないので、第5曲「この嵐の中で」の冒頭部などは、やや物足りない感じもしたが、その後の歌唱は、この歌曲集を静かにまとめるにはふさわしいもの。 小澤指揮の新日本フィルもシュトゥッツマンの歌に敏感に反応し、伴奏をとても丁寧に仕上げた。 金管の一部に今一歩のデリケートさが欲しいと思ったけれど、全体の出来から考えれば、とるに足らないことだろう。
 小澤と新日本フィルの丁寧な音楽作りは、この後のR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」にも、とてもいい形で反映されていた。 この演奏は圧巻であった。 小澤の得意とする作品であろうが、第1曲目の「英雄」から、オーケストラを気持ちよく鳴らし、これは大変な耳の御馳走であった。 小澤の指揮ぶりは、「こうするのが、この作品をもっとも良く響かせる方法なのだ」ということを説明しているようで、そこには小難しい理屈など入り込む余地もない。 音楽は本当に生き生きと輝いており、かつてボストン響でこの曲をきいたときの、ある種の硬さのようなものはなく、非常に柔軟な演奏であったように思う。 オーケストラの自主性も素晴らしく、久し振りにゴージャスなオーケストラ・サウンドに酔った気分になった。 ライヴであるが故の勢い余ったミスが少しだけあったけれど、私は、この作品はこういう演奏でききたい、といつも思っている。 なお、この日のコンサート・マスターをつとめる予定だったステュアート・ケイニンは怪我で降板、これも代役でこのオーケストラのアシスタント・コンサートマスターである崔文洙がトップに座った。 当然、「英雄の生涯」のヴァイオリン・ソロは崔だったのだが、さすがに「最高のソロ・ヴァイオリン」とまではいかなかったにしても、とてもよく健闘していたのではないだろうか。
 小澤の指揮は、こういった作品に対して本当に見事な適応性を見せると思う。 安心してきけた。



*ボローニャ歌劇場 「ドン・カルロ」
  1998年10月17日(土) 17:00〜 NHKホール
 ボローニャ歌劇場の今回の来日公演の、最終公演である。 演目は、ヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」。 この公演には、カレーラスもクーラも、フレーニもバルツァも出演していないが、この歌劇場の音楽監督である、ダニエレ・ガッティが指揮をする唯一の演目になっている。 そして、これはこの歌劇場の底力をまざまざと見せつけた、極めて充実した公演になった。
 とにかく、今回の来日公演の大目玉であるスーパー・スターがいなくても、それぞれの歌手たちの水準が非常に高い。 「ドン・カルロ」は一流の歌手を大勢揃えなければ、いい演奏にならないので、日本での上演機会が少ない、という話もうなずける。 これだけの上演を、国内のオペラ団が実現させることは、残念ながらちょっと考えにくいからだ。 当初、クーラが歌うはずだったタイトル・ロールには、アルベルト・クピードが当てられたのだが、その輝かしい歌声と、適切な性格描写、安定した歌唱は、これこそイタリア・オペラ、と言うにふさわしいものであったし、そのことは、他の出演者たちにも当てはまる。 エリザベッタのダニエラ・デッシー、エボリ公女のグロリア・スカルキの女声ふたりも、実に堂々とした、パワー溢れる歌いっぷり。 フィリッポ二世のニコライ・ギャウロフも、年輪を感じさせる味のある歌で、舞台全体を引き締めていて、とても見事。 ロドリーゴのパオロ・コーニは、他の出演者に比べてやや落ちる気がして、もう少し存在感が欲しくなったところもあったが、歌唱に力が足りなかったものの、尻上がりに調子を上げてきてはいたようであった。
 この上演はイタリア語4幕版が用いられていたが、第2幕冒頭に、フランス語版第3幕第1場の一部が挿入されており、それによってドン・カルロがエボリ公女をエリザベッタと間違えてしまう理由も明確になり、更にはエボリ公女の歌がひとつ余分にきける、というおまけまでつく。 この秀逸なアイデアを出したのは、若き音楽監督のガッティだというが、彼の指揮も瞠目すべきものであった。 基本的には、開放的な音楽作りで、勢いもあるものだけれど、何よりもカンタービレの美しさが際立っており、歌を重視した指揮ぶりは、イタリア・オペラにうってつけ。 その裏側で、管弦のバランスへの配慮も万全だし、個性的でもあった。 強いて言えば、アンサンブルがやや弱かったけれど、きっとこの人は、これからどんどん良くなっていくに違いない。 注目に値する指揮者である。 それから、ここのオーケストラは、とてもうまい。
 演出は、アンドレイ・シェルバン。 舞台装置などは簡素なもので、「見るオペラ」としての要素は後退していたが、「うた」を最重要視する演出は、オペラの主役は音楽であることを考慮すれば、むしろ私にとっては、とても好ましいものであった。
 「ドン・カルロ」は悲劇だけれど、これだけ圧倒的な公演に接すると、「楽しい」とさえ思えるものだ。



*ケルン放送交響楽団
  1998年10月11日(日) 14:00〜 サントリーホール
 ケルン放響も、昨年から首席指揮者が交代しており、その任に当たっているのは前パリ管音楽監督のセミヨン・ビシュコフである。 この組み合わせでは初めての日本公演だ。 このオーケストラについては、前首席指揮者のフォンクの印象は薄く、むしろ日本では、ベルティーニがたびたび来日してきかせた名演の数々が思い浮かべられるだろう。 オーケストラの配置はヴァイオリン両翼型。 このことはもう珍しいことではなくなった。 最近の指揮者は、この配置を本当によく好むようになった。 ちょっと前までは、考えにくかったことである。 ケルン放響がベルティーニと演奏したときも、ビシュコフがパリ管と来日したときも、この配置ではなかった。
 さて、この日の演奏会で私がもっとも注目していたのは、シューベルトが「グレイト」の次の交響曲として構想していた作品のスケッチを、ベリオが素材として用いた(これはもはや「編曲」の域を超えている)作品である、「レンダリング」の実演である。 この作品はシューベルト的な音楽と、ベリオの音楽が交互に現れて、過去と現在を有機的に繋ぎあわせようとする試みで、それが成功しているのかそうでないのかは意見の分かれる所だけれど、私には楽しい作品にきこえる。 実際にはこれまで、ベリオの自作自演による録音で、この曲を楽しんできたのだが、今回、実演に初めて接する機会を得たわけである。 ビシュコフはさすがに職業指揮者(?)だけあって、ベリオの指揮できくよりも流麗に演奏しており、シューベルトからベリオへの音楽の移行、あるいはその逆も、ほとんどそれと感じさせずに行なっていた。 したがってこちらも、この曲の幻想的な味わいをききとることができ、シューベルトとベリオのそれぞれの作風がコラージュ風に再現されることによって、作曲者(この場合ベリオだが)の意図が、まずは忠実に表現されていたのではないかと思う。 オーケストラも手慣れたもので、この作品に内在しているスリルも、管弦の色彩によって、過不足なく演奏されていた。
 あとは、マーラーの交響曲第5番。 ケルン放響のマーラーと言えば、どうしてもベルティーニや、場合によっては若杉の演奏が頭に浮かぶきき手も多いだろうから、もうすでにそれだけでビシュコフの分が悪いのだが、彼はそんなことを一切気にするふしもなく(当然か)、この作品に正面から取り組んでいた。 ライヴ特有のミスが少しだけ見られたけれど、基本的にはこのオーケストラの高い機能性に負ったところも大きかった演奏であった。 第1部では、時々音楽が停滞したり、フレーズの継ぎ目で緊張感が失われていたように思えたが、有名なアダージェットは淡白に演奏されるなど、ビシュコフなりの主張はあった。 ただ私には、その意味合いが分かりにくかったのだけれど、今後、このオーケストラと上手に共同作業を進めてゆく過程において、より一層磨かれた演奏を生み出してもらいたいものだ。 こころから感激する機会は、それが達成されたときの楽しみとしておこう。
 この日は、今回の来日公演の最終日ということもあって、ただでさえ長いプログラムの上に、アンコールが3曲。 ブラームスのハンガリー舞曲第1番、ドヴォルザークのスラブ舞曲作品72−2、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲。 これらはいずれも、気楽に楽しめた。



*東京都交響楽団 「作曲家の肖像 Vol.27 メンデルスゾーン」
  1998年10月10日(土) 14:00〜 東京芸術劇場
 都響のこのシリーズ、今回はメンデルスゾーンの特集で、指揮はネヴィル・マリナーである。
 最初、序曲「ルイ・ブラス」で、好調な滑り出しを見せた演奏会、2曲目はお馴染みのヴァイオリン協奏曲で、堀米ゆず子がソリスト。 堀米はやや細身の音で、繊細に、時には大胆に旋律をうたわせて、その対比がなかなかのものである。 速いところでは、音楽を前へ前へ進めようとする意気込みが、気負いに感じられる所もあり、やや落ち着かない印象も受けたが、第1楽章のカデンツァなど、繊細さと大胆さがいい感じに混ざり合っていて、緊張感のある音楽を作っていた。 最終楽章などオーケストラと掛け合いになるような場面も見られ、きき応えも充分。 マリナーも堀米のソロに適確に応じた、経験を感じさせる指揮ぶりで、安定感を崩すことがなかったのはさすがである。
 メインは交響曲第3番「スコットランド」。 マリナーは第1楽章の序奏部を、深々と呼吸させた後、主部第1主題をきびきびとしたテンポ設定にしてメリハリをつけ、きかせ上手なところをまず見せる。 第2楽章は、本当にヴィヴァーチェ・ノン・トロッポであり、引き締まった推進力を感じさせるが、決してやかましく煽るようなことはしない。 この楽章の演奏法では、もっともよくオーケストラが鳴るような音楽設計で、それが中身の濃い迫力を生み出していた。 第3楽章も、もってまわったところがなく、その音楽の流れはとても自然。 こういう名曲は妙なことをしなくても、ちゃんといい演奏になるのだ、ということを証明しているよう。 フィナーレのコーダも、大袈裟なギア・チェンジをほどこすことなく、こうなるのが当然のように、さり気ない表情を作り出しており、好感が持てた。 特別に際立った特徴がある演奏ではないのだが、「平凡」というのとは違う。 それはほとんど意識されない計算の上に、きちんと成り立っている立派な個性であると思う。
 やはりマリナーは職人気質を持った指揮者で、知らず知らずのうちに、オーケストラもききても彼のペースにはまっている、といった状態だ。 そのやり方に強引さはなく、多分この人は、失敗しない演奏を生み出す力を、体の中にしみ込ませている。 演奏は大体開放的なものになることが多いけれど、それが音楽の「喜び」を最優先に表現しようとする、彼なりの方法論のひとつであるように思う。 これまでは、あまり気にならなかった指揮者だったのだが、今回の来日では、彼の美質が特に強く感じられ、もう74歳にもなるマリナーの芸術は、いよいよ円熟期に入ったことをうかがわせた。
 終演後の楽団員の指揮者への拍手の様子を見ていると、都響もこの指揮者を相当気に入っているようで、それはこの5月に目の当たりにした、N響とプレヴィンとの良好な関係に匹敵するようにさえ思えた。 もっともプレヴィンとマリナーでは、当然タイプが違うが、オーケストラに気持ちよく演奏させることが出来れば、きいている方も大概気持ちよくなるというものだ。



*マリア・ジョアン・ピリス/オーギュスタン・デュメイ/ジャン・ワン
  1998年10月8日(木) 19:00〜 東京オペラシティ コンサートホール
 このコンサートのタイトルには3人の演奏家の名前がクレジットされているが、実際はピアニストのマリア・ジョアン・ピリスを中心としたソロ、デュオ、そしてトリオで構成された演奏会である。 プログラムが変更になり、個人的には、まだディスクになっていないオーギュスタン・デュメイのバッハや、プロコフィエフのヴァイオリン・ソナタをききたかったのだけれど、それがドビュッシーやラヴェルになっても、悪くない。
 まずピリスのピアノ・ソロで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番。 ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタは、ピリスのように音楽を大声で語らせない演奏家にこそ、ぴったりだと思うのだが、この日の演奏もとても味わい深いものとなった。 表面的には音楽の流れを重視した、自然な演奏にきこえるが、その奥に潜む精神性は、「孤高」とも言うべき厳しいもので、第3楽章など絶望の果ての諦観すら思わせるものである。 この人のピアノで、残りの後期のソナタもきいてみたくなったが、それはとても恐ろしいことのようにも感じる。
 デュメイとのデュオでは、ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタとラヴェルのツィガーヌを演奏したが、こちらも情熱を見事にコントロールしたデュオをきかせた。 ただ、デュメイのヴァイオリンがいつになく粗い印象を受けた。 楽器を上手く鳴らし切れないもどかしささえ感じたのだが、この時点では、あるいは不調であったのかも知れない。
 そして、最後にチェロのジャン・ワンを加えてのトリオで、曲目はブラームスのピアノ三重奏曲第1番。 やはりこれが、この日の最大のききものとなった。 冒頭、波のさざめきのようなピリスのピアノに続いて、ワンのチェロが穏やかに主題をうたい出せば、そこはもう一気にブラームスの世界そのものである。 ワンは、ピリスとデュメイが共演者に選んだ人だけあって、とても優秀なチェリストである。 この曲ではアンサンブルを引き締める役割であったようにさえ感じた。 デュメイも前半の粗さは影をひそめ、心のこもったヴァイオリンを響かせ、ピリスも、要所要所で音楽を先導してゆく。 中間のふたつの楽章が絶品であった。 第2楽章のトリオにあたる部分の、静かな佇まいの中から精神が飛躍して行くような、かといって不必要に力強くないうた。 そして、第3楽章の静寂の中に見え隠れする不安と希望。 これらが実に見事に表現されており、大きな充実感を味わった。
 アンコールに、やはりブラームスのピアノ三重奏曲第2番からの緩徐楽章を。 上品な室内楽を、しみじみと味わったコンサートであった。



*チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
  1998年10月7日(水) 19:00〜 すみだトリフォニーホール
 これまでの来日公演で、クーベリックやノイマンと素晴らしい演奏をしてきたチェコ・フィル。 時代は変わり、現在の首席指揮者は何と、ウラディーミル・アシュケナージである。 就任後、初めての日本公演になる。 興味津々である。
 ベートーヴェンの序曲「コリオラン」を手堅くまとめた後は、このオーケストラにとってゆかりの作曲家である、ドヴォルザークの交響曲第8番だ。 アシュケナージとチェコ・フィルの相性を占うのにもってこいの曲目である。 そしてこれは、おもしろい演奏になった。 アシュケナージはこの曲の「リズム感」を、独特のアーティキュレーションを施すことによって、効果的に表現した。 所謂「スラヴ的な」旋律の粘りや、うねりといった、表面的な効果に背を向けて、各楽章の基調となるリズムをバランスよく、また質感を変えることなく、一貫した流れの中で構築していった。 それによって、各楽章の性格付けがとても鮮明になり、結果的にあたかも、ベートーヴェンの第7交響曲に、この作品の源流を見るかの如き演奏となって、大変に興味深かった。 管弦のバランスも通常とは少し違っていて、総じて淡白な表現と言えるが、時々刺激的に特定の声部を浮き上がらせ、きき手を挑発するような場面もあった。 オーケストラも、嫌々アシュケナージの指示に従っている様には見えず、双方納得づくで演奏している風情がうかがえたのは何よりだ。 だから、過去のチェコ・フィルのドヴォルザークとやや異なっていたにもかかわらず、音楽的な説得力を持ち得たのだと思う。
 メインはR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」で、アシュケナージが得意としている管弦楽作品のひとつだが、さすがにその指揮ぶりには一点の曇りもなく、確信に満ちた演奏となった。 ここでのアシュケナージも基本的には純音楽的な解釈を示し、この作品の表題にはあまり関心を持っていなかったように思えたが、曲そのものの成立の経緯を考えれば、これは極めて真っ当なアプローチであったとも言える。 個人的にはもっと色彩感が欲しかったり、「舞踏の歌」のワルツなどはあまりに生真面目過ぎて、もっとスウィングして欲しかったりしたけれど、音響的な効果を狙った派手派手しい演奏に比べれば、はるかに良心的で、よかった。 アンコールにドヴォルザークの「スラヴ舞曲」作品72−2。 これも濃厚な演奏と言うより、節度ある演奏と言った方が近かったけれど、だからと言ってつまらなかったわけでは、全然ない。
 アシュケナージとチェコ・フィルの関係は、まずまずのようだ。 今後、どんな音楽を作っていくのか、両者の共同作業に期待を持たせてくれた演奏会だった。



*東京都交響楽団 第476回定期演奏会
  1998年10月6日(火) 19:00〜 サントリーホール
 都響、10月の定期演奏会を指揮するのは、ネヴィル・マリナー。 今回は、それぞれがとても分かりやすいコンセプトを持ったプログラムを3つ指揮する。 この日はイギリス音楽特集で、そうは言っても、決して偏狭な印象を残さないプログラミングである。
 この演奏会の楽しみの幅を広げた要因のひとつに、ナタリー・シュトゥッツマンがコントラルトの音域を使って、休憩の前後に2曲づつ、ヘンデルのオペラからのアリアをきかせたことがあげられる。 シュトゥッツマンは声量がある歌手ではないが、繊細な歌唱をきかせるタイプでもない。 だが、翳りを帯びたこの人の声色は、この種の作品には思っていたより適合しているようだった。 特に「リナルド」からのアリアと「アマディージ」からのアリアは、性格的には対照的な内容の歌だが、大袈裟な身振りではなく、わずかにうたい方のニュアンスを変えることで作品の特質を充分に表現できる力は大した物。 マリナーと都響も、様式感をしっかりと持って、雰囲気のある伴奏。 シュトゥッツマンは、アンコールとして「オンブラ・マイ・フ」を披露して、サービス精神も豊富なところを見せた。
 さて、私はアカデミー管弦楽団を中心に、マリナーの指揮した演奏会を何度かきいたことがあるけれど、この日の演奏会は、これまででもっとも感心したものとなった。 マリナーはオーケストラを鳴らすのがとても上手く、しかしそのやり方は大向こうを唸らせるような、所謂スペクタクル的なものではなく、明るく、等身大に開放するもの、とでも言おうか。 そしてリズムが明快で、テンポを動かすときも無理なく、安定度が極めて高い。 それは一曲目のブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を演奏する際も、音楽を悲痛な響きで埋めるよりも、音楽的な美点をひとつでも多く表出することに心が砕かれているところに、よくあらわれていた。 時々、物足りないところもあったが、全体を通しての印象は悪くない。
 最後のエルガーの「エニグマ変奏曲」も、各変奏の特徴を明確に描き分ける、といういき方ではなく、全体を大きな流れとしてとらえ、その中での各変奏の位置づけを表現するという、つまりひとつの音楽作品として、自然に楽しくきけるような演奏に仕上げていた。 しかも前述したように、マリナーが職人芸的な捌きで、心地良くオーケストラを鳴らすので、終演後の聴衆のウケもよかった。 私自身も、楽しんだし、同時に充足感も味わった。
 「アラベラ」、「朝比奈のブルックナー」と、このところ大仕事が続いていた都響だが、この日はマリナーのもとで、伸び伸びと、まるで何かから解放されたような、いい意味で力の抜けた演奏をしていたのが、とても印象に残った。 オーケストラ側も、マリナーに対してとても好感を持っていることがよく分かる。 この分なら、残りの演奏会も、多分いい音楽がきける。 それは、圧倒的な感動、とかいうものとは違うのだろうけれど。
 それにしても、都響の弦楽セクションの、何と素晴らしいこと!。



*NHK交響楽団 第1361回定期演奏会
  1998年10月3日(土) 14:00〜 NHKホール
 N響10月の指揮者は、名誉指揮者のヘルベルト・ブロムシュテット。
 まず、ヴァイオリンに堀米ゆず子、ヴィオラに今井信子、という名手ふたりをソリストに招き、モーツァルトの協奏交響曲。 これは音楽の喜びが率直に伝わってくるような、いい演奏だった。 堀米、今井の息もぴったりで、フレーズを伸びやかにうたわせ、ふたつの楽器の絡み方も、この曲がふたりのソリストを必要とする意味を、あらゆる点で納得させてくれるもの。 テクニックを競うのではなく、ただ、いい音楽を作ろうとしているだけに見えるふたりの演奏姿勢が、結果として心地良い爽快感を伴った演奏になっていった。 ブロムシュテットも指揮台を使わず、親密な室内楽的で、要所要所を適確に押さえた伴奏をつけ、ふたりのソリストに最大限の協力をしていた。
 そして、ブルックナーの交響曲第3番である。 あまり派手に宣伝されていなかったが、実はこれはノヴァーク版第1稿によるものである。 まさかブロムシュテットの指揮で、この稿を使っての演奏をきけるとは思いもよらなかったけれど、この日もそうだったのだが、ヴァイオリンを両翼配置にして、オーセンティックな方向に傾斜しつつあるブロムシュテットの演奏スタイルを考えれば、いかにもありそうなことのようにも思える。 演奏も、とてもきき応えがあった。 ブロムシュテットは、元来この曲に内在しているはずの、急進的な部分を、その演奏に初稿を用いることによって、鮮やかに光を当てたと言える。 響きも、曖昧さを極力避け、同時にダイナミックレンジも狭いのだけれど、慣用版で味わったものと別の魅力が浮き彫りになってくる。 このあたりの特徴は、すでにこの曲の初稿や、同じ作曲家の交響曲第8番を東京で演奏しているインバルの指揮についても言えたことである。 このやり方だと、第1楽章は、様々な音のエピソードが、「秩序のある無秩序」の如く現れては消える(そう、マーラーの第3交響曲の第1楽章でも、その音楽の形は大分違うが、似たような感覚がある)おもしろさがあるのだが、第2楽章では、慣用版と比較しての筆致の弱さが強調されて、やや冗長な感も否めない。 後半の2つの楽章も、きいていて戸惑ってしまう部分もあったが、色々と新鮮な発見がたくさんあり、ブルックナーの作曲家としての本質を考える上で、とても興味深かった。
 このような演奏をとらえて、「無機的」だとか、「外面的」だとか、「精神性の不足」だとかを感じる向きもあろうし、そういう風な考え方も分かる気がするけれど、私にとっては、この日のような演奏は、この稿を演奏するにはふさわしいアプローチであると思うし、とても魅力的である。



*都響スペシャル <朝比奈隆・ブルックナー交響曲第8番>
  1998年10月1日(木) 19:00〜 東京芸術劇場
 この演奏会は
都響の、9月末に行われた定期演奏会と同一の内容のものである。 しかし、それはあくまで名目上のことであり、この日の演奏会は、定期のときとは別物の如く、充実したものとなった。 指揮の朝比奈隆も、オーケストラも、渾身の力を出し切ったような演奏であり、ブルックナーの交響曲で数多の名演を生み出してきた朝比奈が、また新たな名演を成し遂げた。
 曲目は、ブルックナーの交響曲第8番。 これが、3日前の定期演奏会で演奏したオーケストラと、本当に同じオーケストラだろうか。 アンサンブルの精度は格段に向上しており、弦楽器の音色は、より一層重心の低い、芯のある深々としたものとなっている。 そして、木管は見事に表情豊かな演奏を繰り広げ、金管もミスはほとんど見られず、パワー満点である。 定期のときは、生彩を欠いていたホルン、ワーグナー・テューバは、曲頭から細心の注意を払ったピアニシモをきかせ、3日前の粗雑さはまったく影を潜めており、とても丁寧に、デリケートな音を響かせて、名誉挽回を果たした。 オーケストラの集中力は素晴らしく、作品や指揮者に対する共感も感じ取れ、トゥッティでオーケストラが爆発するときの威力など、単に「音圧」という言葉では表し切れない充実感に満ちていた。
 朝比奈も、完璧に自分のペースで指揮。 緩急の変化を明確につけ、いつもに増して、メリハリのある音楽を作っていた。 そして第2楽章のトリオや、第3楽章などの遅い所では、音楽をいつくしむかのような、寂寥感すら漂う「うた」をきかせてくれて、それがまったく作為的なものを感じさせず、音楽の自然な流れの中に取り込まれていた。 棒も、定期のときより細かく振ることはなく、どちらかと言えばオーケストラの自主性にまかせていた部分も多かったように思えたが、それでも定期のときと比べて、完成度の遥かに高い演奏を実現させてしまうあたり、朝比奈の経験の豊富さ、懐の深さを垣間見たような気がした。 普通、3日前に思い通りの演奏が出来なければ、当日はもっとオーケストラを締めつけてきそうなものなのに・・・。 演奏は曲がすすむにつれて熱を帯びてきて、尻上がりにどんどんよくなっていったのであった。 音楽が徐々に凝縮されてゆき、フィナーレで全開に開放されて、それは圧倒的な高揚感に聴衆を導いていった。
 こういう演奏をきくと、やはり朝比奈のブルックナーをきくということはスペシャルな体験なのだ、ということを再認識してしまう。 このオーケストラが本来、もっとも大切にすべき聴衆である定期会員に、この演奏をきかせることが出来なかったこと(両日ともききにきていた会員も少なからずいただろうが)は、定期会員にとっても、オーケストラ側にとっても、痛恨の出来事になってしまったが、やはり生演奏は水物である、ということであろうか。



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