<コンサート きいて、みて>
1998年9月

プロの演奏家、団体によるクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
目次へ→
エントランスへ→




*東京都交響楽団 第475回定期演奏会
  1998年9月28日(月) 19:00〜 東京芸術劇場
 朝比奈隆指揮の演奏会には、もう相当足を運んでいるつもりだったが、終演後にブーイングをきいたことがあっただろうか。 今まであまり意識していなかったせいもあるのかもしれないが、ちょっと記憶にない。 それでも、この日のブーイングは、私には納得できるものであった。 もっともそれは、朝比奈に対してのものではなかったのだけれど・・・。
 朝比奈の指揮するブルックナーの交響曲第8番、というだけで、開演前からホール内の雰囲気が特別である。 そのムードにのまれたのかどうかは分からないが、都響はこの日、冴えなかった。 弦楽器、木管楽器は確かに深々とした朝比奈サウンドをきかせてくれていた。 しかし、アンサンブルの精度がよくない。 これは多分、指揮者にも責任があることだろう。 そして、金管楽器も安定度を欠いていたが、特にホルン、そしてワーグナー・テューバが生彩を欠いていた。 この楽曲は、ホルン8本、ワーグナー・テューバ4本を要求しているので、この日にステージに上がっていた奏者の中には、恐らくエキストラの奏者もいたはずだ。 いずれにしても、このセクションの演奏は、音楽の感興を結果的にそいでしまったと言わざるを得ない。 これはあくまでも卑見によるものだが、彼ら(ホルン、ワーグナー・テューバ)に技術的なミスが目立っており、音色も平板で、デリカシーが感じ取りにくく、演奏に協調し切れていなかったからだ。 どうしてこんなことになったのか、私にはまったく見当がつかない。 終演後、指揮者は、拍手の中、彼らのセクションを立たせてしまった!(やらなければいいのに・・・)。 そしてその時に、かなりのブーイングである。 この日の都響は、全体としても低調であったように見受けられたが、ブルックナーの場合、ホルンやワーグナー・テューバのきかせ所が多いため、このセクションが目立ってしまったのは止むをえまい。
 朝比奈の解釈は、大筋でいつもと同じ。 ただ、最近の朝比奈は、弦楽器から神秘的とも思える艶やかな響きを引き出すようになり、元来、優秀な都響の弦からも、その響きはききとれた。 そして、テンポのメリハリがはっきりしていて、遅い所でもじっくりと旋律をうたわせるのだけれど、粘りはほとんど感じられない。 つまり、音楽の美しいところを、必要以上に強調することなく、ありのまま表出しようとする姿勢が一段と強くなってきている傾向が感じ取られ、その演奏は、いよいよ、「浄化された世界」へ近づいていこうとしているように思えたことが、とても興味深かった。 要するに、この日の演奏はやはり、「名演」になる可能性をはらんでいたのである。
 
同じ指揮者、同じオーケストラ、同じプログラムでの演奏会が、この日から3日後に行われる。 都響はこの日の問題点を解決して、3日後は少しでもいい演奏会にしてもらうことを願わずにいられない。 この日は本当に残念だった。
<おことわり> この感想文は、発表した当初のものを、筆者のまったく個人的な判断で改訂したものです。 これは、当初のものに、表現上の行き過ぎがあったことを筆者自身が認めたもので、文意や主旨を変えない範囲で、筆者が文章の一部を書き改めました。 この点に関する不手際をお詫び申し上げます。



*ミネソタ管弦楽団
  1998年9月24日(木) 19:00〜 サントリーホール
 大植英次、というと、どうしても今から8年ほど前、バーンスタインの最後の来日公演で、突如一曲だけ、代役で現れて(ネガティヴな意味で)大変な騒ぎになってしまったことを思い出してしまう。 この日の演奏会は、8年前のその時のプログラムに、とてもよく似た曲目で、今や音楽監督に就任している大植が、ミネソタ管弦楽団を指揮するものである。 しかし、8年前とは状況も違えば、大植も成長している。 演奏会が始まる前、8年前の出来事と重ねて、特別な感慨を持ってしまった自分が恥ずかしくなるような、しっかりとした演奏会になった。
 バーンスタインの「キャンディード」序曲からして、力んでいたこちらに肩透かしを食わせるような、細かい部分まで気が配られた丁寧な演奏。 大植は、このオーケストラをかなりのところまで掌握していることが伝わってくる。 同じく、大植の師、バーンスタインの「ウェスト・サイド・ストーリー」からのシンフォニック・ダンスは、正に8年前に、初めて大植をきいた時の曲だが、当時は粗削りでもフレッシュな勢いに満ちたその演奏を、とても楽しんだ記憶がある。 それと、ダンスを踊っているような大植の指揮姿。 しかし、この日はまったく違っていた。 8年の歳月はかくも重い。 その指揮姿に派手さはあまりなくなっており、拍をしっかりと刻み、音楽のフォルムを崩さないようにした、格調の高い「ウエスト・サイド」に仕上げていた。 きいたあとの余韻がとても心地良く、この曲の素晴らしさに初めて触れたような気分になった。
 そして、ベートーヴェンの交響曲第7番。 前半のバーンスタインでは、オーケストラの配置を、いわゆる普通のアメリカ式にしていたのを、ベートーヴェンではヴァイオリン両翼配置のコントラバス後列横一線という、最近のはやりの配置にしたが、それを見事に生かした演奏をきかせてくれた。 一言で言うと、よく流れるベートーヴェン、ということになろうが、その実、様々な工夫が凝らされており、一筋縄ではいかない、主張の強い演奏であったと思う。 特定の声部の浮き上がらせ方は、この曲の大きなポイントである、「リズム」と密接な繋がりを持ち、いちいち説得力がある。 第2楽章の終結部では、かつてカルロス・クライバーがやったように、弦楽器にピチカートを要求していたり、第4楽章も表面的な熱狂とは裏腹に、実は非常に安定したテンポをコーダまで崩さず、上品であったりと、演奏設計もしたたかだ。 更に音楽にヒューマンな温かさが感じられることも、大植とミネソタ管の信頼関係が、とても深いものであることをうかがわせており、きいていてとても気持ちがよい。 欲を言えば、更に大きなスケール感のようなものがあれば、とも思ったけれど、それはもう、「ないものねだり」というものであろう。
 アンコールに、ベートーヴェンと同じように分析的なワーグナーの歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲、楽しく、小粋にショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット」、そしてエルガーの「エニグマ変奏曲」からの「ニムロッド」を美しくうたい上げ、聴衆へのサービスも満点。
 大植は、実にいい仕事をしている。 このように、地道に、人間的に自分の音楽を追求していく人は、もっともっと評価されなければならない。 いや、彼はもう、「評価」などとは別の次元で音楽をやっているようにさえ見えるのだが・・・。



*新国立劇場=二期会公演 「アラベラ」
  1998年9月23日(水) 15:00〜 新国立劇場 オペラ劇場
 R.シュトラウスの歌劇は大好きだ。 だが残念なことに、私には実演に接した経験が多くない。 この日の演目である、歌劇「アラベラ」も実演初体験である。 これをきっかけに、日本でも、R.シュトラウスのオペラがたくさん演奏されるといいと思う。 外来のオペラ団体頼みでは、R.シュトラウスのオペラのファンとして、少しさびしい。
 この日の「アラベラ」公演は最終日で、Bキャストによるものであった。 結果は、飛びぬけて素晴らしい演奏、とまではいかなかったが、私にとっては、楽しく、まあ満足できたものであった。 出演した歌手たちの中で、大きな破綻をきたした人は見当たらず、むしろ各人なりに、高い水準での歌唱をきくことが出来た。 タイトル・ロールの大倉由紀枝は、のびのびとした明るい歌声で、貫禄たっぷりのアラベラを演じてくれたし、マンドリカの福島明也も、最後まで集中力を途切れさせることなく、安定した出来。 ズデンカの澤畑恵美も、この役での性格付けをもう少し明確にして欲しかったけれど、歌唱に関してはまずまず。 脇役陣もよくまとまっていたと思う。
 若杉弘指揮の東京都交響楽団も、状態は良く、演奏に危な気はなかった。 しかし、この「危な気なし」が曲者で、この曲の中で私が時々ききたくなる、強烈なアタックやシャープなリズム、メリハリのきいた管弦のバランスをききとることは困難であった。 ただし、このことは、「不満」というレベルまでには至っていない。 これが若杉の解釈であるのなら、手堅くまとめたこの演奏は、音楽作品としての「アラベラ」を、余計な(?)味付けを施さずに、ありのまま提示しようとする、彼の見識なのかもしれない。
 鈴木敬介の演出は、基本的には台本のト書きに沿った、これまた手堅いもの。 舞台装置も、共催とはいえ、最近の二期会の舞台の中では豪華であった。 この公演では、第2幕と第3幕の音楽に切れ目がなく、続けて演奏されたのだが、その際に、幕を下ろさずに場面転換をして見せたのは、この劇場の舞台機構(それも、聴衆が知る必要性の低い、からくりのようなもの)をデモンストレートするため、といった理由しか思い浮かばず、必然性を感じ取ることが出来なかった。
 ところで、こういう作品を上演する際、どこまでローカル色を出せるか、つまり「ウィーン風」であるかというところが、よく問題とされるが、この日の公演に接した限りでは、視覚的にも、聴覚的にも「ウィーン」の匂いはほとんどなかった。 舞台は確かに、ウィーンの舞踏会場になっていたが、演じる人々がどう見ても日本的なので、装置とそぐわなかったし、若杉の音楽が、前述したような手堅いもので、退廃の美などきこえてこなかった。 だけど、そのことをもって、この公演がつまらないものであったとは、私は決して思っていない。 これだけの水準で、R.シュトラウスの歌劇の実演に接することができたということだけで、実は今の私は満足なのだ。 ただしこの公演が、次は必ず、これ以上のものをきかせてくれるためのステップになってくれていれば、の話だが。



*アルバン・ベルク弦楽四重奏団
  1998年9月21日(月) 19:00〜 紀尾井ホール
 相変わらず素晴らしいクヮルテットだ。 アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、実にたびたび来日しているが、その演奏はたいがい高い水準を維持しているのだから、本当に敬服してしまう。 例えば音がもっときれいなクヮルテットは、世界中にいくつもあるだろう。 アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、音楽を「生き生きと」演奏するという、いい演奏には当たり前に必要不可欠な条件を、いつも鮮やかにクリアしているのだ。 特に近年は、この点を最重要視し、生気ある演奏のためなら、多少のリスクは厭わない(否、結果的に悪い方向に行ってしまった例を知らないので、リスクをおかしている、という言い方は適当ではない。 でも、最近の彼らの溌剌とした演奏をきいていると、計算づくかも知れないと思いつつ、こんなことを考えてしまうのである)傾向が強くなってきている気がして、またそれが成功しているように感じるのである。 この日の演奏会もそう。 プログラムはハイドン、ベートーヴェン、シューマンという、彼らの得意とするレパートリーが並んだ。 (いったい、彼らにとって、不得意な分野などあるのだろうか?)
 ハイドンの弦楽四重奏曲第75番の最初の音から、喜びに満ち溢れた音楽が展開される。 開放的なサウンドと、精緻なアンサンブル。 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番も、同傾向のアプローチであるが、一見明るい曲想のこの作品が語っているものが、どれだけ多いものかを実証してくれるような演奏となった。 形式構成への目配りも万全と言ってよく、第2楽章の各声部の対話や、第4楽章の形式的なバランスへの配慮など、まったく隙がない。
 しかし、この日の演奏会での、さらなる驚きは、曲順が変更されてラストに置かれた、シューマンのピアノ五重奏曲を耳にしてからであった。 私にとっての発見は、アンサンブルのまとめ役を務めた若きピアニスト、ティル・フェルナーの素晴らしいピアノと、アルバン・ベルク弦楽四重奏団が、ゲストを招いての五重奏になっても、まったく違和感のない演奏をしただけでなく、より一層フレキシブルな音楽を作り上げたことである。 フェルナーは26歳の若さで、アルバン・ベルク弦楽四重奏団を相手に、まったく対等に渡り合っていたのには大変に感心した。 演奏はスケールの大きなロマンティシズムに満ちたもので、重心の低い、落ち着いたテンポで終始進められた。 だが、第2楽章中間部やフィナーレでは、断固とした表情と迫力で、壮絶な雰囲気さえ漂わせる、力感溢れたものとなり、それが音楽全体の中でのバランスを失わないぎりぎりのところで踏みとどまっているのだから、きき手としてもワクワクしてしまう。 ピアニストとクヮルテットの「競奏」が行われていたわけでは、決してない。 音楽的には奏者全員、一致した方向を向いており、安定感は無類であったのだけれども、それでもこの演奏は、こちらの胸をときめかせる瞬間が多かった。 いつか、フェルナーのソロもきいてみたいものだ。 なお、アンコールにドヴォルザークのピアノ五重奏曲から、スケルツォ楽章が演奏されたが、これも素晴らしく音楽的感興に溢れた演奏であった。
 いい音楽を、本当にたくさんきいた演奏会だった。



*NHK交響楽団 第1360回定期演奏会
  1998年9月19日(土) 14:00〜 NHKホール
 9月のN響の定期演奏会は、このプログラムだけがマレク・ヤノフスキの指揮である。
 この日のヤノフスキは音楽を不必要に粘らせず、見通しのいいすっきりとした音楽作りをする指揮者であった。 言わば楷書体の演奏とでも言うべきか、余計な思い入れや、感情の移入をつとめて避けているようなふしさえうかがえる。 それは例えば、一曲目のJ.S.バッハ=ヴェーベルンの「6声のリチェルカーレ」のような作品を分析的にきかせて、演奏に説得力を持たせるという、いい方向にいく場合もあるだろうけれど、メインのブラームスの交響曲第2番のような曲に対しては、若干の違和感を持たせてしまうこともあるだろう。
 そのブラームスだが、決して悪い演奏であったわけではない。 だが、これはこれで個性的なものであり、きき手の好みは分かれてくるかもしれない。 ブラームスの交響曲の、構造的な部分に光を当てて、この曲が間違いなく古典主義的な系譜の上に成り立っていることを痛感させてくれるような演奏なのである。 それもかなり思い切りよくこの傾向を押し出してくるので、反面、この曲のロマンティックな要素はかなり後退することになる。 この点が、終演後の客席が、熱烈な拍手を送っていた聴衆と、戸惑いを見せていた聴衆とに分かれていた原因であろうと思う。 第1楽章から音楽を前へ前へ、どんどん進めようとするヤノフスキの意志が感じ取られ、同時に各声部のバランスに神経が行き届き、とても安定感のあるイン・テンポで、健康的な印象さえ持てる演奏であったが、音楽の節目(テンポの転換、転調などが起こるところ)での楽想の切り替えが、グラデーション的にならず、スパッと切り替えるので、時々オーケストラがついて行けずに乱れを見せていた。 第2楽章、第3楽章もあっさりと通り過ぎ、フィナーレは怒涛のテンポで、音楽を高揚させていった。 しかし、響きが大分薄くなってしまったところが残念。 オーケストラをドライヴしすぎという感もなきにしもあらずであったけれど、全曲を40分弱で演奏し切ったヤノフスキの解釈は、私には興味深かった。
 ところで、二曲目に演奏されたのは、名手ザビーネ・マイヤーがバセット・クラリネットを使ったモーツァルトのクラリネット協奏曲であったが、これはマイヤーの胸のすくようなテクニックがとても素晴らしかった。 この曲も速めのテンポで演奏されたが、マイヤーはどんなに細かい音符の動きも完璧に吹きこなし、バセット・クラリネットの広い音域も手伝って、表情豊かで、爽快感溢れる演奏を披露してくれた。 ソロがいかなる局面においても、微塵も崩れないので、オーケストラも演奏が進むにつれて熱くなってゆき、ソリストや指揮者との間にスリリングな緊張感が走って、協奏曲のひとつの醍醐味を堪能させてもらった。 結果的には、この演奏がこの日のききものであった。



*日本フィルハーモニー交響楽団 第503回定期演奏会
  1998年9月17日(木) 19:00〜 サントリーホール
 先日きいた、ロッシーニの「小荘厳ミサ曲(管弦楽版)」の演奏がとてもよかったので、ジャンルイジ・ジェルメッティの指揮によるブラームスのドイツ・レクイエムをききに出かけた。 そしてそれは、期待通りの中身の濃い、ききごたえ充分の演奏であった。
 ジェルメッティはロッシーニのとき以上に、ドイツ・レクイエムのテクストと音楽を構成する一音一音を、細部にわたって研究しているようで、その丁寧な音楽作りは、一瞬たりとも惰性で流れていってしまうことのない、集中力に満ちたものであった。 冒頭の最弱音から、管弦楽、合唱を掌中におさめ、音楽全体を徹底的にコントロールしようという意志がみなぎっており、その結果、個性の強い演奏になっていった。 音の切り方、伸ばし方、言葉のアクセントの扱い方など、ジェルメッティの主張が強烈に感じとれるのである。 それは深々とした響きと悠然としたテンポ、楽想を適確にとらえた上での細部の細かい表情づけ、音楽を「空間」に埋め尽くすスケールの大きさ、といったもので、これはきき手としても、そう簡単に接することのできない種類の演奏であると思う。 この日も椅子に座って指揮したジェルメッティの指揮ぶりを見るにつけ、やはりチェリビダッケの影響を考えずにいられなかった。 チェリビダッケの弟子、といわれている指揮者は、他にも素晴らしい人が何人かいるけれど、実際の演奏でチェリビダッケの影を感じさせる人としては、ジェルメッティが最右翼ではないだろうか。 勿論、良し悪しは別としての話であり、かつ、これは私の偏見に過ぎないことなのかもしれないが。
 バリトンの多田羅迪夫は、声に輝きが不足しており、不調だったように思えた。 ソプラノの菅英三子は、そつのない出来。
 東京音楽大学の合唱は、女声の最高音のピッチが不安定であったり、最弱音部や最強音部のハーモニーがやや雑にきこえたけれど、それよりも、男声、女声の人数のバランスが悪いのではないだろうか。 大雑把に言って、女声が全体の三分の二で、やはり男声部が弱くきこえた。 そうは言っても全体が、ジェルメッティの解釈に沿うようにうたおうと努めていた様子はうかがえた。
 それは日本フィルも同じこと。 指揮者の棒に何とかついていこうとする、積極的な姿勢は伝わってきた。 足りないものがあるとすれば、この強烈な解釈への「共感」のようなものだろう。 それがあれば、もっと凄い名演になっていたに違いない。 



*新日本フィルハーモニー交響楽団 第269回定期演奏会
  1998年9月9日(水) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
 シューマン作曲、ゲーテの「ファウスト」からの情景は、一度実演に接したかった曲のひとつだが、この9月から新シーズンを迎えた新日本フィルが定期演奏会でとりあげてくれた。 指揮はオペラ、声楽曲の演奏では定評のあるジョン・ネルソンである。
 ネルソンはしっかりとしたリズム感を基調にした、躍動感あふれる演奏をきかせた。 その確固としたリズム感の上に、シューマン独特の管弦楽の色彩を織り交ぜ、更に作品全体の起承転結にも目を行き届かせて、きかせどころのつぼを押さえた、隙のない音楽が構築されていて、とても見事であった。 例えば管楽器の扱い方にしても、夢のように儚い楽想の中で、唐突に、かつまろやかにその響きを突出させるところなど、シューマン・サウンドそのものだ、と言いたくなってしまう。 引き締まったリズムと、劇的な演奏設計で、全体で2時間近くかかるこの曲を、息もつかせず、あっという間に駆け抜けていった。 こういう演奏に出逢うと、この作品は正にシューマンの傑作なのだ、ということを痛感してしまう。 管弦のバランスも素晴らしく、新日本フィルはこの日、とても好調であったように思う。
 晋友会合唱団も大変に立派。 力強いダイナミズムとデリケートなピアニッシモの対比がとても心地良い。 一歩間違えれば、弛緩してしまいそうな部分の多いこの曲に対して、最後まで途切れることのなかった集中力は特筆すべきだ。 児童合唱のTOKYO FM少年合唱団は、複数の役回りを演じなければならないのに、どこか一本調子で、それが音楽の進行上、適切であった瞬間とそうでなかった瞬間があった。
 指揮、オーケストラ、合唱は文句無しだったのだけれど、それに比べると独唱陣は悪くはなかったが、比較的平凡にきこえた。 ファウスト、マリアを崇拝する博士のエクベルト・ユンクハンスはもう一つ、声に輝きが欲しい気がしたし、メフィストフェレス、苛責の霊、瞑想する教父のケネス・コックスは、特に後半が不調だったように思う。 独唱者は第一部、第二部はステージ上に、第三部はステージ上方のパイプオルガンの前に配置されたが、第三部でのステージ上のオーケストラ、及び合唱と、上方の独唱陣との間で、質感(ときには音程)がやや違ってしまっていたのは残念。
 あと、この種の作品を演奏する際、字幕スーパーを表示してくれれば、と個人的には思った。 まあ、これについては賛否が大きく分かれるところかもしれないけれど。
 ともあれ、「庭の情景」から「神秘の合唱」まで、大きな弧を描くようにまとめられたこの演奏は、珍しい作品をとりあげた演奏会であっただけに、その意義が何倍にもなっていたのであった。



*日本フィルハーモニー交響楽団 第237回名曲コンサート
  1998年9月6日(日) 14:00〜 サントリーホール
 ロッシーニの「小荘厳ミサ曲」の管弦楽版がきける、というのでこのコンサートに出かけた。 この版はしばらく前に、シャイーとボローニャの歌劇場のオーケストラの公演できいたのが実演で接した最初の演奏会であったが、それはあまり印象に残っていない。 私にとってはそのとき以来の実演で、指揮がジャンルイジ・ジェルメッティであることが、この演奏会への期待を高めてくれた。
 演奏は私の期待をはるかに上回る、とても素晴らしいものであった。 ジェルメッティはこの曲を構成している一音一音の意味を相当に吟味しており、それを実際に音にする手腕もまったく見事である。 音価を充分にとり、音楽を広々と響かせ、その割にリズムが甘くなることもなく、やたらにもったいぶった素振りもない、温かくて人間味溢れる演奏であった。 オーケストラの各セクション、及びコーラスが本当によく溶け合っていて、まるでどこかの教会できいているような錯覚におちいりそうになるほど、清廉な音楽をきくことができた。 作品の形式の把握も万全で、それは特に「クレド」の終結部などにきかれ、美しい響きで構築されたフーガは、音楽をきくときの大きな喜びのひとつであることを証明していたよう。 音楽のどこをとっても、こういった美しさに満ち溢れており、この作品はロッシーニの最高傑作ではないか、とさえ感じさせてくれる演奏になっていた。 椅子に座って指揮をしたジェルメッティは、その指揮ぶりや紡ぎ出す音楽が、どこか彼の師であるチェリビダッケを彷彿とさせるものがあって、なかなかおもしろかった。 彼の指揮で音楽をきいたのは久し振りであるが、もはやどこか円熟の域に達した感さえあり、これまでとは随分違った印象を受けた。
 この演奏会は日本フィルハーモニー協会合唱団の創立25周年記念も兼ねていた。 私にとって普段、あまりきく機会のない合唱団であるが、この日はこの演奏の方向性にぴったりと合ったコーラスをきかせてくれた。 特にハーモニーの美しさは特筆に値するものであった。 合唱指揮の井崎正浩にも拍手を送りたい。 独唱陣に対しても、特に不満はなかった。
 ジェルメッティの才能に改めて(いや初めてか?)感服した演奏会であった。 今回の来日では、このオーケストラの定期演奏会でブラームスの「ドイツ・レクイエム」を指揮するという。 今のところ、ききに行く予定はないのだけれど、この日の演奏会に接して、俄然、ききに行きたくなってしまった。



*東京都交響楽団 第474回定期演奏会
  1998年9月4日(金) 19:00〜 サントリーホール
 都響の夏休み明け最初の定期演奏会。 高関健の指揮で、少し変わったプログラムである。
 まずレーガーの「ヒラーの主題による変奏曲とフーガ」。 高関は、こういった曲を得意としているのだろう。 各変奏の特徴を過不足なくつかみきり、それを手慣れた調子で描き分ける手腕は見事なもの。 フーガでの主題の取り扱い方も、対位法の捌き方も、模範的ともいえる指揮ぶりである。 珍しいこの作品に、瑞々しい息吹を注ぎ込んだ秀演であったと思う。 しかし、この適確な高関の指揮できいても、この作品はいまひとつ面白味に欠けるという印象は拭えない。 部分部分では魅力的な箇所もあるのだけれど、音楽全体をとおすと、やはり散漫な曲である気がする。 音楽的な技巧に傾き過ぎているような感じなのだ。 この曲はCDで気楽にきいている分には結構楽しめるのだが、演奏会場で真剣に向き合うと、変奏曲として納得することはあっても、集中力を維持して全曲きき続けるのが少しきつい気がする。 レーガーはこのような「変奏曲とフーガ」を色々な趣向で何曲か書いているが、大体私にとってはどの曲もこういった印象である。
 メインは協奏曲。 重鎮、園田高弘のピアノで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。 押しも押されぬコンチェルトの名曲を、ベートーヴェンを演奏活動の柱にしてきた園田がひいたわけだが、思っていたより若々しく、爽快な演奏になっていた。 園田のピアノ、そして高関の指揮が目指したものは、古典主義の範疇における「皇帝」。 流れるような快適なテンポの上に、がっちりとした音楽を堅実に積み上げ、その構造に対しても充分に配慮した演奏であった。 ここには重厚さや表面的なロマンティシズムはなかったけれど、「皇帝」をきいたという、しっかりとした手応えと、大ベテランのソリストと中堅の指揮者の、同じ方向を向いた音楽作りが、素晴らしい感興をもたらしてくれていた。 曖昧さや齟齬は微塵もなく、貫禄充分で爽やかな、いい演奏だった。
 高関は最近、各地のオーケストラの指揮をする際に、楽器の配置をヴァイオリン両翼型にしているようだが、この日はそうせずに通常の都響の配置をほとんど変えていなかった。 オーケストラの状態そのものは非常に良く、夏休み前のこの6月にベルティーニが振った一連の演奏会のときとは比べ物にならない程、安定していた。



*NHK交響楽団 第1358回定期演奏会
  1998年9月3日(木) 19:00〜 NHKホール
 N響は9月から新シーズンである。 今シーズンからこのオーケストラは、音楽監督のポストを新設したり、定期公演の一部をサントリーホールへ移したりと、色々な変化があるが、シーズン初日のこの日の公演にも、チョン・ミュンフンのN響デビューをもってきて意気盛んである。
 この日の曲目はヴェルディのレクイエム。 数多のレクイエムの中で、ヴェルディのそれは極めて演奏効果が高く、死者のためのミサ曲であるにかかわらず、きき手を高揚させる力さえ持っている作品である。 オペラ経験が豊富で、気鋭の国際的新進指揮者の指揮ではさぞエネルギッシュな演奏になるだろう、と予想していたが、この予想も外してしまった。 冒頭「入祭文」の弱音から、これ以上弱くしたらきこえなくなってしまうと思われるほどのデリケートなピアニッシモをきかせて、しかもそれが見事にコントロールされて音楽としての意味を失わないものであったのを耳にしてから、この演奏の方向性を感じとれた。 どのような局面においても、表情は常に端整であり、それは「怒りの日」のような、オーケストラや合唱が爆発するときでさえそうである。 この作品に対して、ついつい期待してしまうオペラティックなどぎつさ(?)や、肥大したスケール感のようなものは一切払拭されており、ヴェルディのレクイエムも宗教曲であることを感じさせてくれる。 この曲の本質を、等身大に、鮮やかに表現した演奏であったと思う。
 室内楽的と言ってもいいような、チョンの丁寧な音楽作りは、長大なこの曲を弛緩させることなく、端整なフォルムで引き締めた新しいタイプの名演と言えるだろう。 これまでチョンの指揮を、イギリスやイタリアのオーケストラで何度か接してきたが、フレッシュな勢いに満ちたその時のチョンと、この日のチョンは別人の感すらある。 指揮ぶりはそれほど変わっていなかったけれど、出てくる音楽はチョンのこれまできいたどの実演よりも、丁寧にコントロールされていた。 N響というオーケストラが、このチョンの指揮を引き出したのだと思う。
 独唱、合唱とも、このチョンの音楽にふさわしい出来であった。 細部では色々と凸凹もあったが、全体的に声楽的な統一感があり、よくまとまっていた。
 N響へのデビューということで、チョンは手堅くまとめたという見方も出来ようが、この真摯な演奏には、私はとても好感が持てた。 終演後、カーテン・コールに応えるチョンの表情やしぐさから、彼がN響に対してとても満足したことがうかがえた。 今後の両者の共演に、さらなる期待をもたせてくれた演奏会であった。



*スカラ・フィルハーモニー管弦楽団
  1998年9月2日(水) 19:00〜 サントリーホール
 秋のコンサート・シーズンのスタート。 ミラノのスカラ・フィルハーモニーが、首席指揮者のリッカルド・ムーティと共に行なう今回の来日公演の初日である。 この日は交響曲の名曲を二曲という堂々たるプログラム。
 最初のシューマンの交響曲第4番は、大変にききごたえのある、充実した演奏であった。 ムーティはこの曲をすでにウィーン・フィルと録音していて、それもとてもいい演奏だったけれど、この日のスカラ・フィルとの演奏はそれとはまた違う側面を見せていた。 ひとことで言って、ムーティが彼の主張をより強烈に押し出していたのだ。 とても密度の濃いオーケストラの響きの上に、柔らかいアーティキュレーションで彩られる世界は、緊張とゆとり、安堵の中の不安が交錯するような、美しいシューマン像を現出しており、しばし心を奪われた。 思わせぶりな長めのパウゼや、旋律をうたわせるときのタメが、少し鼻についたところもあったけれど、シューマンはこのように程々にデフォルメしてもらった方が、きいていて納得できる。 ムーティはこのオーケストラを、細部までよく鍛えているのが分かったが、それはアンサンブルの縦の線を揃えるといった、技術的なことよりも、楽節のまとめ方や楽想の変わり目で音楽の色彩をどう変化させるか、といったことに腐心しているようであり、それが実を結んでいたように思う。 オーケストラが余裕を持って、ふくよかな響きを出しているのをきくと(短絡的かもしれないが)、さすがヨーロッパの一流オーケストラだと思ってしまった。 そう、スカラ・フィルはもう、一流のコンサート・オーケストラなのだ。
 もう一曲はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。 これは、辛口の「悲愴」というべきか。 ムーティはどちらかというと、「悲愴」というサブ・タイトルにあえて背を向けて、この曲の持っている、もっと音楽的な美点を呈示しようとしていたように思えた。 テンポの遅いところではメロディアスにルバートをかけるが、決して粘らない。 逆にテンポの速いところでは快調なイン・テンポで、比較的あっさりととおりすぎる。 指揮者の主張もしっかりあって、例えば第2楽章など、中間部でテンポを落として響きの密度を増やしたり、コーダでの弱音の中での細やかな旋律の動きを絶妙のバランスできかせたりしていて、たいそうおもしろかったが、第3楽章は割合と平凡で、第4楽章もまあ普通の演奏であった。 全体として違和感は残ったが、ムーティの主張は明確で筋がとおっていた。 この曲に対する既成の概念への挑戦であったのだろうか。
 アンコールでやはり、ヴェルディの歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲が演奏され、これは文句なしといったところだろう。
 ムーティはスカラ・フィルに対して、もっとも直截に自らの主張を伝えているように見える。 その主張はかなり強いもので、これほど長いつきあいの間柄なのにオーケストラにとまどいが見受けられていたことが、そのことを裏付けているように思う。 それ故、きいていておもしろいところもあったのだが、違うオーケストラに対しては、必ずしも常にここまでは出来ないだろう。 ではどのあたりで、どのように折り合うのか。 来春のウィーン・フィルとの来日公演の楽しみが出来た。



目次へ→
エントランスへ→