仙台社会人一人旅
Survive in Sendai.

2002年5月

2002年4月

2002年5月1日 水曜日

夢の中で携帯電話が鳴っていて目が覚めた。

すると携帯電話ではなく、ウチのチャイムが鳴っていた。

店長だった、時間は9時25分、遅刻だ。

この日は事務所にこもっての月次決算と書類作成作業。

これらの仕事の1番の難点は棚卸のロスを埋める作業である。

棚卸し結果と、コンピュータ上の数字の差異をどうするかということ。

入力ミスがないか、明らかにおかしな数字がないか、出荷した商品の登録をしたか…色々調べる。

私が1人で店長をやっていた頃はこの作業だけで相当な時間を費やされた。

しかし店長が上にきて、この仕事がかなり楽になった。

ミスを驚くほどアッサリといい加減に処理してしまうのだ。

数が少ないけど存在することにしよう、数が多いので不良在庫を捨てちゃおうなんてのは日常茶飯事。

数が合わなくてもう1度同じ箇所を棚卸しすることがあると、1番結果の良かったヤツを採用する。

小売店としてはかなり際どいことを平気でやってのけるのだ。

他店の話だが棚卸しをしていないのに適当な数字を入力してやったことにしちゃった、などというケースもある。

「そんなんで大丈夫なんですか?」と聞くと

「それで年に2回の決算棚卸しで監査が入っても問題ないから大丈夫なんだ。」と言われた。

3月と9月末に夜通しで行なわれる中間・期末決算棚卸しではランダムで選ばれた店に外部から監査会社が派遣され監査をしている。

幸いにして私の店はまだ監査が入ったことはないが、監査が入るといちいちチェックされて大変らしい。

しかし決算棚卸しで監査が入っても問題ないから大丈夫、という論理もどうなんだろう。

そもそも棚卸しの結果、店の在庫金額から店の資産が分かるが、その金額も怪しいものである。

店にある全ての商品の在庫金額だが、その全てに商品価値があるわけではない。

不良在庫と呼ばれる売り物にならない在庫も多数存在するのだ。

それらも全てまとめて在庫金額となっている、本当の数字など判らない。

そして私の周りだけでもこの曖昧棚卸しが既成事実になっている。

つまりは全国200店舗近い直営店全てで行なわれていると考えても良いだろう。

それら全ての店でチョットずつのロスがあっただけでも会社全体ではとんでもないロスになるだろう。

私が入社する数年前から近々東証一部に上場する、と社長は言っていた。

しかしそんないい加減な棚卸し決算や社員の異常な労働状況では当分無理だろうな。

…まぁ私個人レベルで言うと、棚卸しのロス潰しが早く終わって、責任は店長が持つわけだから楽である。

私1人だったら2日目にもつれこむ作業を1日で終わらせることが出来たし。

それでも帰宅は3時30分過ぎなんだけど。

 

2002年5月2日 木曜日

前夜に月次決算作業の面倒な部分は全て終わっていた。

この日は書類作成だけだったので、ずいぶん楽だった。

夜は早々に帰宅。

この日、東京ドームでプロレスの興行が行なわれていた。

そのTVが放送されたのをビデオに録ってあった。

私がプロレスを見始めた頃には考えもしなかった試合、三沢光晴vs蝶野正洋の1戦が行なわれたのだ。

共に全盛期はややすぎた感があるが、それでも特別な感情を抱かずには見られない試合だった。

それを楽しみに、ビデオを見ていたのだが、肝心のその試合の放送がなかった。

TV局の都合でこの日の放送がなかったのだが、かなり拍子抜けだった。

仙台に来てプロレスからもだいぶ遠ざかった。

何よりも通常のTV放送が1週間遅れ。

プロレス雑誌を立読みする時間もないし、ネットを覗く暇もそうそうない。

その時間は作ろうと思えば作れるのだが、そうまでして時間を作ろうとは思えないのだ。

プロレスに対する熱が冷めたのか、それどころじゃない生活を強いられているのか。

…後者だろうな。

 

2002年5月3日 金曜日

私が12月に採用したスタッフの退職が決まった。

もともと掛け持ちでアルバイトをしていて、もう1つの方が忙しくなってそっちの方に専念するというのだ。

条件も向こうの方が良かったらしいが、そういう形で辞めるのは何だか寂しい。

自分が採用したスタッフだったので、さらに辛いな。

1年くらい続けていたスタッフも翌週で退職が決まっている。

店長が代わって、店の雰囲気が変わってきたのも一因だろうと店長は分析していた。

これまでは私の下でノーノーとやっていられてのが、今の店長は結構ガンガンいく。

会社の考え方を要所にちりばめるので、それをうるさく思うスタッフもいるだろう。

表向きそうしたことを理由に辞める人はいないが、何かのキッカケで辞めるという感じだろう。

私も何かのキッカケ、それが必要だ。

 

2002年5月5日 日曜日

かなり迷っている。

1度3月に辞意を表明してから、その後はハッキリと何も決めずにダラダラとすごしてきた。

退職するスタッフが増え、新しく入るスタッフも増えてきた。

退職スタッフの抜けた穴は大きいので、それを埋める為に新人スタッフを採用する。

採用するのは私なのだから、気に入った人を採用することになる。

そしてまた人間関係を築いていく。

すると必然的にどんどん辞めづらくなっていく。

それなら続けろよ、ってトコだが超時間労働はキツイし、会議や他店では他の社員の意識とのズレを感じる。

1度辞意を表明しているだけに、それを撤回して"やります!"って言ったら今以上のものを求められるだろう。

自分にそこまでの意気込みはない。

いつまでこの惰性状況を続けるのだろうか。

 

2002年5月6日 月曜日

連休最後、スタッフの人数も少なくて相当忙しかった。

閉店してからも仕事が残って、結局帰宅は3時。

そして翌日は本部での店舗会議。

今回は新幹線で行くが、朝は早い。

ベッドで寝たら起きられないと判断してコタツで就寝。

 

2002年5月7日 火曜日

ゴールデンウィークの忙しさと、4月25日から休みの無さと、昨夜のコタツ就寝が災いしたか、起きると喉が痛い。

どうやら体調不良のようだ。

7時30分に仙台駅へ向かい、新幹線で本部を目指す。

車内は相変わらずずっと眠っていて、会議でも勿論たびたび落ちた。

やはり会議が辛い。

会社との意識のズレを公にしている私は、会議の場でも敢えて社交的に振舞う必要はなかった。

ただボーっとして、顔見知りがいると型通りの挨拶を交わすだけになっていた。

会議の壇上で、翌月に予定されているロサンゼルス研修の説明が行なわれた。

ハワイ・ニューヨークに続いてロスにも店舗をオープンさせたので、それの見学を兼ねての研修旅行だ。

この会社というのは何をやるにしても何らかの意味を持たせようとする。

ロス研修に参加する為の自己申告書を全員に書かせるのだ。

自分にロスへ行く資格があるか、これまでどういう努力をしてきたか…を書かせられる。

そして"こういう気持ちでロスへ行きます"、と決意表明も書かなければならない。

私の中でロスへ行くということはやる!ということだったので、ロスへ行く前に辞める気持ちが多いにあった。

単なる海外旅行なら行きたいが、社員旅行である。

向こうでは社員と行動を共にし、ホテルに泊まれば絶対に夜な夜な夜通し話すのだ。

会議に数時間いるだけでも拒絶反応を起こし始めているのに、それで旅行なんか行ける訳が無い。

その自己申告書には"私は店でやる気も無く働いていて、ロスへ行く資格はありません"と書いた。

辞意を表明したとは書かなかったが、決意表明とされる紙にここまで書くのは冒険だった。

別に私がロスへ行かないのは結構だが、納得いかないのは新入社員連中だな。

入社して2ヶ月チョイでいきなりロスへ行けるなんて。

我々の頃は静岡でうなぎ食っただけだったのに…。

会議中に体調がどんどん悪くなり、喉・頭・体の節々が痛くなり、かなり熱っぽくもあった。

ただでさえ参加する気の無い会議がそれで更にマイナス方向にいった。

幸いにして、泊まりは無くてその日中に帰宅する会議だった。

帰りの車中では店長や他店店長に"今後どうするのだ、ロスへ行くのか否か"みたいなことを散々問われた。

こっちは身体中だるかったのでもううんざりしていた。

"ロスへは行くつもりも資格もない"とハッキリ言った。

別にロスへ行く資格なんか自分で決めるものでは無い、この後頑張るんだって気持ちで行けば良い、みたいに言われたが、その頑張る気持ちがもう無いんだな。

帰宅して相当熱っぽい、身体の痛みが尋常では無い。

翌日は元々休みの予定だったが、こりゃ必然的に眠っているだけの休みになりそうだ。

 

2002年5月8日 水曜日

起きたのは16時、相変わらずの体調不良。

身体が重たく、節々も痛む。

ずっと眠って居たかったが、家に食うものがなかったので車で出かけた。

動くと体調不良がハッキリと感じられる。

食べ物を購入して帰宅。

1日中体調不良だった。

 

2002年5月9日 木曜日

前日よりはマシだったが、やはり確実に体調不良。

確信犯的に今日は休む、と決めていたので店長に電話して休んだ。

前日は休みの日扱いだったから車で外出もしたけれど、この日は風邪で欠勤扱いなので、病人らしくずっと眠っていた。

夕方と夜の2回、コンビニへ買物をしに行った以外は1日殆ど眠っていた。

 

2002年5月10日 金曜日

終わる時は案外アッサリしたものだ。

昼の休憩の時に店長と2人で飯を食うことになって、いつもは休憩室で食っているのが、「外で食おう」と外出した。

向かった場所は3月に初めて辞意を表明した場所であるファミリーレストラン。

そこで店長から話があった。

「正直これまでコッチの気持ちを押しつけている部分があったり、お前も自店舗が気になっていたりしたけれど、そうしたしがらみ云々を全て抜きにして正直な気持ちはどうしたい?」

と聞かれた。

店長から外で飯を食おうと言われた時にある程度予測はしていた、これは最後通牒だろう。

月曜日に会議があって、私が出した"やる気無い、ロスへ行く資格が無い"決意表明。

この会社でやる気が無いことを表明することなど異例中の異例だ。

あれを見るのは本部の社員だろう、そこから店長に話が行ったというのは多いに考えられる。

そして店長から最後通牒が今つきつけられている。

これがキッカケだな、そう思った。

「辞めたいです。」
「そうか、辞めるか。」
「辞めます。」

勿論そこに行きつくまでの会話に紆余曲折はあったが、最後はアッサリしていた。

これまで何度も辞めたいと言ってきたが、いつも曖昧に流されていた。

そして私も強引に辞めようとまで思っていなかった。

それが今回はいともアッサリと辞意が受け入れられた。

先日の会議での決意表明文や、近々ロス研修旅行もあるのでそれまでにハッキリさせなければいけなかったのだろう。

恐らく本部から店長へ「アイツはどうなっとるんだ、辞めるのか続けるのか。ロス行きの人数が確定しないじゃないか。」みたいなことが言われたのではなかろうか。

あまりにもタイミングが良すぎた、まぁどうでもいいけど。

場所が最初に辞意を表明したのと同じファミレスというのも奇妙な因縁を感じるな。

店長はその足で駅前店に向かい、駅前店店長と私の退職について話をしに行った。

私は店に戻ったが、私の退職のことは店長からの指示でスタッフには黙っていた。

店で通常作業をしながらも体調不良もあって殆ど仕事が身に入らなかったし辞める実感も無かった。

夜に店長が店に戻ってきて大幅な人事の話を聞いた。

店長が秋田の店舗に異動、ウチの店には山形から新たに店長が来ると言う。

それ以外にも東北エリア内で相当大きな人事がある、もう関係無いけど…。

それで全てが分かったような気がした。

今日私が決断を迫られた裏には人事もあったのだ。

東北エリア内での大きな人事。

その中で私の扱いはどうすれば良いのか、そもそもアイツはやっていくのか…ということが上の人の間で話されたのだろう。

そして店長からの最後通牒…これで全ての辻褄が合う。

別に大きな人事移動があろうと無かろうと私の退職は決定事項。

ただ、この店にも新しい店長が来る。

その新しい店長は山形から引っ越してくる、引っ越してくるのは私のアパート。

私のアパートは会社が借りているものなのだ。

来週中には出ていかなければならないと言う。

辞めたらサッサと追い出すってわけか。

次に来る山形の店長は同じエリア内なので当然知っている人。

部屋を汚いままで引き渡すわけにはいかない、掃除が面倒だ。

何だか最後まで慌しいけれど、事態はもう動き出した。

これから形式上の退職届を書いて、部屋掃除や引越準備、実家に帰ることになるだろう。

 

2002年5月11日 土曜日

一夜明け、店に行く。

仕事をしていても辞めるという実感がない、それどころかダルいなとさえ思う。

そういえば大学時代のアルバイトでも仕事内容という点では、最後の方はかなり惰性的だった。

店長に私から退職ことはスタッフに話すなと言われた。

異動の事も含めて落ち着いたらその時にまとめて店長の口から話すのだそうだ。

私の中では自分の口から辞める理由を説明したいと思っていた。

しかし会社の考えに付いていけないこと、超時間労働のことなどをスタッフに話しても判らないし、店長だった人間が会社の考えに付いていけないと言わせる訳にはいかないみたいなことも言われた。

残るスタッフの気持ちを考えると、私は発言をしない方が良い、と言われた。

確かに説明しづらい部分ではあるし、やる気が無くなって辞めるなんて聞かされてもスタッフは困惑するだろう。

納得しかねる部分はあったけれど、どの面下げてスタッフに話すのだ、そうした気持ちも大きかったので私からは何も言わないことになった。

普通に通常作業の1日が終わる。

私の出勤は翌月曜まで、本当に急である。

 

2002年5月12日 日曜日

まずは朝、実家に電話をかけて退職することになった旨と実家に帰ることを伝える。

以前から退職は何度もほのめかしていたので、特に驚く様子も無かった。

日曜日なのだが、私は事務所内の掃除と整理をしていた。

そのあたりを不審に思ったスタッフもいたかもしれない。

多少の通常作業もしたが、私が行なう通常作業は恐らくそれが最後になるのだろう。

翌日が最後の出勤、掃除と整理に追われるだろう。

本当にアッサリしたもんだ。

 

2002年5月13日 月曜日

最終出勤日、前年3月28日の初出勤から約1年1ヶ月半。

入社してすぐに"長くは続かない"と思わせた職場。

あまりにも駆け足で過ぎ去った1年の月日だった。

「他の会社だと3年かかるところをウチだと1年でやる」

最初のエリアマネージャーがそう言っていた。

確かにそうかもしれない、これだけのことをこの1年で経験するとは思わなかった。

1年での退職は短いような気もするが、そう考えるとそれも短くないように思えた。

他の会社での3年分の経験は積めたかもしれないな。

 

店長はエリア会議に参加する為に不在。

私は本来なら朝礼から出勤するのだが、朝礼では毎朝皆の前で一言話さなければいけない。

もはやスタッフに語る言葉を持たない私は敢えて11時出勤にあらかじめしておいた。

店に出ても売場に出ることはせずに、事務所内をただ掃除と整理。

私が初めて配属されてきた時よりも綺麗にした。

たつ鳥跡を…ってヤツだな。

夜は売場に出て仕事をした。

この日の夜のメンバーは全員私が採用したスタッフだった。

自分が採用したスタッフは皆例外なく好きだ。

特別な気持ちで働いていたのは私だけだっただろう。

閉店後、いつものようにスタッフが帰るのを見届ける。

私が皆にお疲れ様ですを言うのはこの日で最後だ。

1年以上同じ店にいたので感慨が無い訳がない。

この店に限って言うと良い思い出が多い、それは幸せなことだ。

この日で最後のつもりだったのだが、店舗の鍵の引渡しなどが残っていたので翌日もチョットだけ店に顔を出すことになった。

翌日の朝礼で店長が、自身の異動と私の退職を併せて発表するはずだ。

 

2002年5月14日 火曜日

朝、朝礼に出ないために敢えてゆっくりと店に向かう。

店長からスタッフの皆に話しはいっている筈だったが、いつも通りに振舞って店に行った。

店舗キーや倉庫内在庫の引継ぎなど簡単な作業を済ませて少しだけ店内をうろついた。

といっても営業中なので何もせずにチンタラしているわけにもいかない。

かといって今更通常作業など出来ない。

スタッフ皆に努めて普段通りに「じゃ、お疲れ様です。」と言って店を出た。

時間にして1時間も居なかった、これが最後か…。

 

アパートに戻って早急に引越の準備。

電話帳に載っているフリーダイアルで繋がる引越業者に片っ端から電話。

仙台から東京まで、こっちに来る時は会社負担だったが、退職して帰るのでそうはいかない。

金額にして10万くらいかかるかと思ったが、片っ端から見積もりを取ってもらうとそこまではかからなさそう。

時期的に閑散期らしく、予想金額の半額くらいで行けるような気がしてきた。

大手2社は翌日にアパートまで見積もりに来ると言う。

正確な値段も分かるし、価格の決定権は見積もりに来る営業マンが握っているというのだ。

週末には引越すつもりなので事態は急だ。

水道・ガス・電気・電話会社へも電話、早々と手続きを済ませた。

翌日は区役所へ行って転出届を貰ってこなければ。

本当に最後まで慌しいな。

 

2002年5月15日 水曜日

私の車は店の駐車場に止めてある。

この日は車で区役所へ行って転出届を貰う。

朝、スタッフに会うと気まずいので誰が出勤するよりも早く店に行って車に乗った。

区役所へ行き、転出届を貰う。

郵便局では郵便物の転送届けを出す。

仙台駅前へ行って銀行で引越代や帰りの高速代などの必要諸費用分の金を卸す。

もう仙台の街へ来ることもそうはないだろうから牛タンを食ってった。

帰ると引越業者の営業マンが来る時間だった。

営業マンが来て室内を見回して、「ご予算は…」みたいな話になった。

当初の見積もりでは6,7万円くらいだと言われていた。

前日に片っ端から電話をかけた業者の中で最安値をつけたのは45,000円だった。

それを営業マンに伝え、45,000円以下で…と言った。

45,000円、それは相当安いらしくて営業マンは慌てていた。

その場で上司に電話をして確認を取っていた。

そして申し訳ないが、同じ価格・45,000円で勘弁してくれないか、と言われた。

最初に電話をした45,000円でやると言った業者は、トラック1台と作業員1人だった。

そして今回の業者は作業員3人だと言う。

それならば同じ値段で作業員3人の今回の方が良いだろう。

さらに好都合だったのは、直接荷物を運ぶのではなくて、一旦倉庫に預けて、東京方面へ送る他の荷物と一緒に後日送るとのことだった。

そうした方が業者としてはまとめて荷物を運べて効率が良いのだと言う。

私にしても東京では実家に行くので1人暮し用の荷物がすぐに必要になるわけではない。

お互いの利害が一致して、その場で即決した。

当初の見積もりでは6,7万円だったのだが、4万5千円まで下げさせた。

やはり他者を引き合いに出すというのは効くな。

営業マンによると、この時期は閑散期なので多少値引きをしても契約を取りたいのだと言う。

どうやら退職の時期は成功だったようだ。

荷物の運び出しは金曜日の午前中になった。

翌日丸1日が引越準備に充てられるのでなんとかなりそうだ。

夜、引越の荷造りをしていると私が入社した当時の店長・育成担当者がウチにきた。

最後の挨拶だ。

この人にはなかなか馴染めなかった。

度々ココにも書いているが話が長くて要領を得ないのだ。

正直あまり合わす顔も無かったのでチョット気まずかった。

もう会うことも無いのかな。

 

2002年5月16日 木曜日

ただひたすら1日引越準備。

昼過ぎに店に行って保険証の返却と社宅退去の手続きなどの書類を書いた。

そういえば保険証は1度も使うことが無かったな、勿体無い。

しかし退職した店だが、自分でも不思議なほど平然と行けた。

この日はそれほど思い入れのあるスタッフがいなかったというのも大きい。

思い入れのあるスタッフには会いたいけれど会えないというのが本音だ。

だいたい引越準備が整って、晩飯。

仙台での最後の晩餐になるので、いつも利用していたスーパーで寿司と酒を購入。

いつもなら、TVがついている晩飯時。

しかしTVもビデオもコンポも配線を片付けた後だったので、実に寂しい晩餐になった。

仙台に着いた当日も何だか寂しい夜を迎えていたような気がする。

後々全てが良い思い出に変わるのかな…。

 

2002年5月17日 金曜日

仙台で向かえる最後の朝になるか。

8時30分には引越屋のトラックが来ることになっていたので早起き。

起きて最後にベッドを解体すれば引越準備作業は完成だ。

ベッドを解体するためにベッドの布団を取ったら布団の裏にはカビが生えて湿っていた。

これはかなりショッキングだった。

1年以上も1日も布団を干していなかった。

月に1度くらい乾燥機をかけるだけだった。

それにしてもあの布団の裏でずっと眠っていたかと思うと…。

時間通り、8時30分に引越屋のトラックが来る。

3人体制なので実にてきぱきと作業をこなして、私の出番は全く無し。

実に素早く作業を終えて、私が車で直接運ぶ荷物を残して去って行った。

ガランとして何も無くなった部屋。

最後に雑巾がけをして掃除も終了。

ガスの元栓を締めるには立ち会いが必要だったので、ガス業者が来るまで待った。

ガスの元栓締めも終わるともう後はこの部屋に用は無くなった。

自分の車にパソコンや着替えなどの最低限の荷物を積み込んで本当に引越作業が完了。

1年1ヶ月強、殆ど眠る為だけにあったこの部屋ともお別れだ。

最後に店に行って、店長にアパートの鍵を預ける。

店長から次に来る店長に渡してもらうのだ。

店長とは店の前で会ったので、店には入らなかった。

店に入ってそこで挨拶をすればそれこそが本当に最後の挨拶になってしまう。

時間的に思い入れのあるスタッフが居る時間ではなかったのもあってそのまま店を離れた。

円満でない退職者に言葉は無し、ただ去り行くのみ…。

次にこの店に来ることがあるとすれば、それはお客としてだろう。

そしてその時に私の知っているスタッフはいるだろうか。

ここで出会った人達といつかどこかで偶然にでも出会える確率はどれくらいだろう。

いつか、どこでも…一緒の時間を過ごしたスタッフと偶然でも一瞬でもしがらみ無しで会いたいな。

仙台を出るのは昼になっていた。

仙台での飯の原点と言っても良い、24時間営業の大衆定食屋。

そこで最後の昼飯を食って、仙台南インターから高速に乗った。

1年1ヶ月強の仙台への一人旅、それが終わりを告げようとしていた。

1台の車とほんの少しの貯金、そして実に多くの経験を得て…。

 

2002年5月(13日まで) 出勤日数11日 休日2日(含・病欠)

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