仙台社会人一人旅
Survive in Sendai.

2002年3月

2002年2月

2002年3月1日 金曜日

今月もつかどうかが大きいような気がする3月。

もう入社して1年が経とうとしているわけだ。

月初はいつものように棚卸しのロス潰し作業。

これ以上無いってところまでロスを埋めたが、それでも先輩社員に電話すると「まだ行けるだろう」などと言う。

とりあえずやってみます、とは言いつつもコレ以上無いところまでやっていたので、何もせず。

9月からずっと1人でやって来たのである程度のメドがついてしまっているのだ。

コレ以上は無理だろうな…という。

月初作業と並行してアルバイトの面接もやったので、結構慌しかった。

 

2002年3月2日 土曜日

月次決算作業や月初書類作成作業で月の始めは潰れる。

デスクワークは特に嫌いではないので、事務作業はそれほどきつくない。

ただそれらを報告する為にエリアマネージャーや先輩社員に電話をするのが嫌だ。

何か店のことを報告しなきゃいけないし、その都度何か色々と言われる。

それが苦痛だな。

 

2002年3月3日 日曜日

鬱々とした駅前店勤務。

この日は青森や山形の方からも社員が来ていた。

駅前店は東北の拠点となる店舗で、エリアマネージャー自らが店長をしていることもあって、研修の意味も含めて他店からよく社員やスタッフが働きに来るのだ。

幸いこの日は青森や山形から来た社員が主流となったので、私はあまり目立たずに済んだ。

この日は車で駅前店に行っていて、帰りに仙台他店の店長(先輩社員)を家まで送って行った。

その仙台他店の店長は、先月東京の店から仙台に赴任してきたばかり。

帰りの車中で色々と話しをした。

するとその他店店長はこの日、エリアマネージャーと話をして辞意を伝えたのだと言う。

自分が会社にいる意味が判らない…と辞めたいことをエリアマネージャに言ったのだという。

それですぐに辞める、ということにはならなかったらしいが、私のすぐ近くに辞めたがっている社員がいるとは思わなかった。

何だかそれが私にとって心強かった。

数年やっている先輩社員、しかも店長、こんなに近くに辞めたいと思っている人がいたとは…。

だったら自分もそう思ったってイイじゃん、そんな気分だった。

 

2002年3月4日 月曜日

平日と言うこともあって比較的暇で穏やかな自店舗。

これまでずっと体調不良で休んでいたスタッフから話があると言われて話をした。

スタッフとして在籍はしていたが、先月からずっと体調が悪くて働きには来ていなかった人だ。

話を聞くと深刻な病気らしく、このままアルバイトとして在籍していても働くことが出来ないと言う。

残念だけれど他のスタッフにも迷惑をかけるし退職するとの意向だった。

私が店長になってはじめて採用した人の1人だったし、仕事も本当にしっかりやってくれていたので残念だ。

しかし理由が理由だしそれは仕方がない。

自分を信頼してくれているらしく、仲の良かったスタッフにも話していない病状をも教えてくれた。

結構深刻な病状を色々話してくれるくらい信頼されているのに、自分は果たしてそれほどの人間だろうかと考えてしまった。

どうしたら巧いこと辞められるだろうかばかり考えているような…。

何だか重たい1日になってしまった。

 

2002年3月5日 火曜日

朝は自店舗に出て、昼から駅前店。

一昨日の先輩社員の辞めたいという話、前日のスタッフの退職する話。

それらを聞いていると少し自分の辞めたい度が収まったような気がするから不思議だ。

勿論最盛期より収まったと言うだけでまだ圧倒的に辞めたい気持ちが勝っているけれど。

 

2002年3月6日 水曜日

休みを取っていたこの日、駅前店に行って遅くなった前夜に眠ったのは4時過ぎ。

起きたのはなんと17時30分、半日以上眠っていたわけだ。

車でこの日最初の食事である晩飯を食いに行きがてら出かけた。

休日は漠然と車を近郊に走らせて終わり、という感じだ。

休み明けの翌日はまた駅前店へ。

また気持ちがアレに傾きそうだ。

 

2002年3月7日 木曜日

駅前店勤務で、普段通りに働く。

そして1つのチョットした事件を聞いた。

仙台他店の店長が音信不通になったと言う。

数日前にエリアマネージャーに辞めたいと言ったあの仙台他店の先輩社員だ。

店にもいず、家にもいず、携帯電話も繋がらないのだと言う。

エリアマネージャーとその話をしていたらまた怒られた。

「オマエも悪いんだよ、アイツをしっかり見てやれなかった。東京から1人で仙台に出てきていきなり1人店舗(店に社員が1人=店長という意味)でやってんだから、フォローしてあげなくてどうすんだよ。オマエもいつまでも新入社員気分でいるんじゃねーよ。」

確かにそれはあるかもしれないけど、オマエも悪い…はねーだろ、まぁ"オマエが"じゃないだけマシだけど。

それでもそんな言い方しなくても良いのに。

向こうは数年勤めていてこっちはまだ11ヶ月だし…ってこれが新入社員気分なのか。

 

2002年3月8日 金曜日

この日は自店舗出勤。

前日に音信不通になった仙台他店の店長はこの日店に戻っていた。

何でも東京の前いた店の店長に会いに言って、色々と話をしてきたのだという。

それで結構吹っ切れたらしく、これから頑張るよみたいに張り切っていた。

何だか複雑な心境だった。

せっかく近くに同じマイナスの考えを持っている人が出来たと思ったのに…。

自分でそれを乗り越えて続けるという道を選んだんだ、感心するわ。

数年もこの仕事を続けられたならそういう道も選べるかもな。

翌日はまた駅前店勤務、ハァ…。

 

2002年3月9日 土曜日

朝、駅前店に行くと主要社員が来ていたので驚いた。

駅前店店長は東北エリアを統括するエリアマネージャーにしてゼネラルスーパーバイザーでもある。

その駅前店店長だけではなく、青森・秋田・仙台をまとめているエリアマネージャー。

山形・庄内をまとめているエリアマネージャーも来ていた。

さらに後から北海道エリアのゼネラルスーパーバイザーまで来ると言う。

何やら大きな話し合いでも設けられるのだろう。

…そう思っていて、普通に忙しい土曜日の駅前店で働いていた。

すると駅前店店長に事務所まで呼ばれた。

その席には駅前店店長だけ出なく、2人のエリアマネージャーも控えていた。

これはタダゴトではないな…。

東北エリアのトップ3が勢揃い、対するは私1人…。

一刻も早くその場を逃げ出したいような状況だ。

実際の所店はどうなのだ、やっていけるのか、やっていく自信があるのか…

それらのことを質問された。

別に怒られているとかではなくて、あくまでも穏やかに聞かれた。

店の売上が落ちていることは事実。

そのことについても言われた、ただそれはオマエだけのせいではない、と。

8月末に急に当時私の上にいた店長の異動が決まって放り出された形でいきなり店長になってしまった。

おりしも駅前店の開店も重なったので、仙台の他の社員が私のフォローをしきれなかった部分もある。

環境が正直あまり良くなかったのはこちらの責任もある、みたいに言われた。

そこでオマエは今後どうしたい?と聞かれた。

超本音を言うのならそれは辞めたい、ということだった。

でも東北エリアトップ3の前でそんなこと言えるわけがない。

何を言うべきか考えあぐねているとまた言われた。

「オマエが今のままで店をやっていけるというのならそれでイイよ。売上伸ばして利益も上げれば。」

この数ヶ月でそれがどれだけ難しいことかは判っていた、向こうもそれを承知で言っているはずだ。

現在の私1人の力でそれができるとは思えなかった。

どうも話の流れから、私は他の店へ行って誰かの下について勉強し直すという方向に行きそうだった。

「今のオマエはもう1回下について勉強し直した方がオマエのためにもなる。」と言われた。

そこで、オマエは実際にどう考えている?と聞かれた。

殆ど誘導尋問である、「僕もそう思います…」。

それらの話聞きながら、異動だろうな…ということは想像できた。

誰かの下について教わるということは教える人はそれなりの店長(先輩社員)だろう。

現在の仙台にそこまで出来そうな店長は見当たらない。

となると秋田か青森辺りに異動というのが選択肢なのだろうな…。

異動となると引越だ、そしてまた1からの生活が始まる、するとさらに辞めにくくなるなぁと考えていた。

さらにまたその異動先の店で人間関係を築いていけば更に辞められなくなる。

そしてエリアマネージャーに言われた。

「オマエの異動はない、ただその代わりオマエの上に店長がつく。」

その店長とは以前の仙台他店の店長。

1ヶ月前に自律神経失調症で休職していた店長だった。

意外な答えだった、私はてっきり他店に異動してそこの店長の下につくものだと思っていた。

店はそのままで私の上に店長がつくとは想像していなかった。

その店長は知らない仲ではなく、私が1人で店長だった時にも多大な世話になった人だった。

気持ちは微妙だった。

異動が無く、店を離れないで良いというのは嬉しかった、やはり自分の店は好きなのだ。

ただ私の上に店長がつくということは、私は副店長になる、降格だ。

他店に行く拍子で他店店長の下について副店長というのとはわけが違う。

ハッキリとした判り易い降格だ…ショックもあった。

しかしその話を聞いた後で「辞めます」というわけにはいかない、「判りました、やります」と言わざるを得なかった。

「もう1度オマエが1から勉強し直すチャンスだ、一緒に今の店を良くしていけ」と励まされた。

その日のそれ以降は仕事にならず、何があってもボーっとしていたように思う。

複雑な心境だ。

辞めたいと思う気持ちが1番強いことに変わりはない。

だけど環境が変わりつつある、どうなって行くのか…。

仕事を終えて家に帰ると自宅の電話の留守電マークが光っていた。

仙台の自宅の電話番号は実に限られた人しか知らない、留守電に入っているのは大抵親のメッセージだ。

留守電を聞くと弟からで、第1志望の大学に合格したと言う報告が入っていた。

それは素直に喜ばしいことだった。

複雑な感情が入り混じり、色々なことを考えた1日の中で素直に喜べた唯一のことだった。

 

2002年3月10日 日曜日

日曜日のこの日は自店舗。

前日にエリアマネージャーから聞かされたことを当然スタッフにも話さなければならない。

私が在籍したままとはいえ、店長が変わるのだからスタッフにとっても大事だ。

自分の口でこの店に新しく自分の上に店長が来ます…というのはやはり屈辱だった。

その店長がいつから来るのかと思ったら電話があって翌日にはこっちに来て翌々日には引越しだと言う。

かなり急だ、そんなの聞いてないぞ。

しかも私は翌日、運転免許証の更新の為に途中で店を抜けると言うのに。

何だかまた慌しくなっていきそうだ。

 

2002年3月11日 月曜日

誕生日前日、以前から免許更新の通知は来ていたが面倒で行っていなかった。

"免許の更新があるんで"…と言い訳すれば仕事を抜けられるのも魅力で敢えて先延ばしにしていた。

自店舗で午前中は少しだけ働いて、昼からは運転免許の更新に仙台の免許センターへ向かった。

平日だと言うのに免許センターは結構な混雑。

いくらかの手数料を払って受け付け・目の検査・写真撮影・講習。

何だか面倒な手順を色々踏まなければいけなかった。

そのどれをするにもいちいち並ばなければいけないのが面倒だ。

目の検査と写真撮影なんか一緒にやっちまえば良いのに。

そしたら免許証の写真は皆が目を見開いた状態になるのか。

幸いにして私は無事故無違反だったので、講習は最短時間のもので済んだ。

事故や違反があると講習が長くなるうえに、手数料も高くなる。

講習中は勿論貴重な睡眠時間に費やさせてもらった。

夕方頃に全てを終えて仙台の住所が記載された新たな免許証を貰って店に戻る。

既に私の上につく店長は来ていたが、この日から店に入るということではないようだ。

店長が仙台他店店長だった頃から、結構話をしていた人なので人柄その他はよく知っている。

この日はお互いに色々と話しをした。

店長はアパートは決めてあるが引越は翌日だと言う。

今夜泊まるところがないと言うので私のアパートに来ることになった。

エリア会議後にホテルに泊まったりすると、必ず夜は一部屋に集まって語るのがこの会社の通例。

店長がウチに来た時も同じになった。

まぁウチということもあって酒を飲みながら気楽にではあったけれど話す内容は全て仕事の話。

ある程度気心の知れた仲の人ではあったので、少しだけ自分の本音も覗かせた。

辞めたいと考えているということである。

特にそれについて咎められるようなことは無かったが、「一緒に店を作って行こうぜ」と言われた。

まぁそういう風に返されるんだろうなというのは想像が出来たが…。

 

2002年3月12日 火曜日

気がつくと23歳の誕生日。

店長はこの日が引越で、翌日から店で働くと言う。

誕生のこの日まで私は一応の店長だったと思っても良いのかな。

誕生日だからと言って何があるわけでもなく、実家から荷物と友人からのメールが来たくらいだ。

 

2002年3月13日 水曜日

この日から店長が店で働くことになった。

上に店長がいると自分の意志で帰れないのが辛い。

閉店後の時間無制限お話タイムがあるのだ。

エリアマネージャーには言えない自分の本音もある程度なら話せる。

辞める考えがあることは話せるけれど辞めたいとは言えないでいる。

店長は「俺はこの店に来たばっかりだし、オマエの協力無しでは店を良くしていけないから、一緒に頑張ろう」と言われる。

自店舗にいるだけ、それだけで良いのなら構わない。

ただこの会社の社員でいることが苦痛なのだが…。

翌日は店長と一緒に駅前店へ行くことになっていた。

 

2002年3月14日 木曜日

店長と一緒に駅前店へ行った。

仕事は普通にこなせた、そして閉店後にそれは起こった。

駅前店店長、先輩社員、店長、そして私の最初の育成担当者だった店長もこの日駅前店に来ていた。

閉店後にその4人と私で飯を食いにファミレスへ行った。

その席でまた衝撃的な話を聞かされた。

「これから1ヶ月ほど駅前店に入れ」と。

ハァ?!駅前店!!…ただでさえ行きたくない駅前店に1ヶ月も入るなんて絶対イヤだ。

数日前に私の上に店長がつくと言われた時に「一緒に店を良くしていけ」と言われた矢先だ。

そしてその店長からも「オマエの協力無しでは店を良くしていけない」と言われたばかりだった。

それなのにイキナリ駅前店に1ヶ月入れとはどういうことなのだ…。

釈然としない感情と、駅前店に1ヶ月も入るのがイヤだという気持ちが交錯した。

そしてその席上で私は初めて駅前店店長の前で「辞めたい」と言うことが出来た。

席には駅前店店長も、現在の私の上の店長も、最初の私の上の店長もいた、役者は揃っていた。

その席上で遂に本音が出せた。

会社の考え方についていけない部分があることも話すことが出来た。

かなり勢いの力も借りたが、これまで言えなかった辞意を伝えることが出来た。

その席上では怒られることも叱られることも説得されることも無かったが、皆が何らかの言葉を私にかけた。

しかし既に私の中では禁断の言葉を発した思いでいっぱいで何も頭に入っていなかった。

その場はそれで散会になった。

店長の車で来ていたので、乗って帰るように勧められたのを強引に断わって1人で歩いて帰った。

帰路、1人で歩きながらボーっと考えた。

とうとう言っちまった、言えた。

頭をよぎったのは自分の店のスタッフだった。

スタッフの事を考えるとやはり寂しかった。

こんな形で去ってしまうわけか…。

ウチに帰ってからも携帯電話が何度も鳴ったがその全てを無視した。

 

2002年3月15日 金曜日

店へ誰へも何も連絡せずにずっと眠っていた。

ウチのチャイムが何度も鳴った、ドアを叩く音、携帯電話も何度も鳴っていた。

判っていて全て無視していた、もう関係無い…そう言い聞かせてひたすら眠っていた。

目が覚めてもベッドから出ずに何も食べずにそのまま目を閉じてまた眠りにつくのを待っていた。

夕方過ぎ、そろそろ眠れなくなってきた頃にまた電話が鳴った。

店長からだった、どうしようか迷ったが出た。

穏やかな口調で、外へ飯でも食いに行こうということだった。

少し迷ったが、了解して飯を食いに行った。

「辞めたいって言ったからってスグに辞めさせられる訳じゃないから。」と店長は穏やかだった。

年齢も2つしか違わなかったし、プロレス・格闘技好きという趣味も一致していた、元々話し易い人ではあった。

前日はそれでも駅前店店長もいたので、最後の一線は越えずに発言していた部分が大いにあった。

それが今回は、店長だけだったので前日には言えなかった部分のこと、自分の本音もかなり話せた。

自店舗は好きだけれど会社の考えには到底付いていけないこと、労働時間への不満も話した。

本音を話すことによって多少は吹っ切れたような気がした。

それらに対する答えは出なかったが「とりあえず明日は店に来いよ。」と気楽に言われた。

「スタッフには今日は体調悪くてオマエが休みだって言ってあるから。このまま店をいなくなって良いの?」と。

それを言われると辛い、このまま自店舗をフェードアウトするのは嫌だった。

しかし駅前店店長・エリアマネージャー、私に直接関わりのある最も上の上司の前で辞めたいと言ったのだ。

そしてその辞めたいと言う気持ちに嘘は無い、しかし自店舗は…。

自分の本当の気持ちが判らない。

 

2002年3月16日 土曜日

朝、普通に自店舗に行く自分がいた。

いつも通りだった、店もスタッフも何もかも。

前日散々店にくることを勧めた店長が体調不良で休みだったので、店は数週間前と何ら変わらなかった。

ただ違ったのは私の心の中だった。

仕事中、店長や他店店長から電話がかかってきた。

何事も無かったかのような他店店長との電話での会話。

私が辞めたいと言ったことを知らないのだろうか。

平然とそれらの電話に応対している自分が判らなかった。

いつもの1日はやはりいつもと同じように過ぎていった。

 

2002年3月17日 日曜日

朝は辛い、それでも店に行っていた、それは責任感と呼べるものなのだろうか。

日曜日でしかも3月は繁忙月、かなり忙しかった。

夜には電話で駅前店店長とあの日以来の話をした。

自分がどうしたいのかよく判らないことを正直に話した。

ただ、店長に話せたような本音はまだ全て話せずにいた。

どうやら私のクビはまだ繋がっているようだった。

 

2002年3月18日 月曜日

翌日に駅前店で山形・庄内・仙台の社員が集まってのエリア会議がある。

それの資料を作るためと称して、店長と殆ど事務所にこもって会議の準備をしていた。

辞めたいと思っているのに、そうした会議で自店舗の発表をする。

何だか変な感じだ、当然それほど力も入らない。

どうにでもなれという感じだ。

 

2002年3月19日 火曜日

実に行きたくなかったエリア会議。

どうにも居心地が悪いし、気も乗らない。

会議の最初は各人の近況報告。

無難に済ませようかと思ったが、私の前に発表した仙台他店の店長、先日辞めたいと言って一時音信不通になった先輩社員がその時のことを正直に話していた。

それを見て私も先日辞めたいと言ったことをここで公にしようと思った。

自分の番が回って来た時に、今も居心地が悪くて、会社の雰囲気には付いていけないということを正直にぶちまけた。

案の定その場で他の社員や同期の連中から色々と言われた。

一緒にやって行こうよ、頑張ろうぜ、オマエだけじゃないんだよ、周りの人の気持ちも考えろ…

励ましやらお叱りやら色々、全てが私を責めているように聞こえた。

ココで席を立って出ていけば決定的だと思ったが、それは出来なかった。

それをやるのは単なる逃げに感じられた。

本当はただ逃げたいだけなのだが、皆の前でそれは出来ない変なプライド。

自店舗の実績や今後の展望の発表をどの様にしたのか、殆ど覚えていない。

会議の休憩時間や会議後にも先輩社員や店長らが色々話してくる。

そうやって自分を引きとめようとしてくれる度に、それが重荷になるのだ。

でもそれを口に出して言うことは出来なかった。

何だかなかなか辞められなそうだな…

 

2002年3月20日 水曜日

この日は店長がOFFだったので1人で自店舗。

いつもと何ら変わらない自分がいる。

 

2002年3月21日 木曜日

仙台に引っ越してきてからちょうど1年という節目の日。

今月は社員が集まる予定も無いし、月末には夜通しでやる年に2回の決算棚卸しが控えている。

こりゃ今月辞めるってのはあり得ないんだろうな…。

 

2002年3月22日 金曜日

この日はOFF、だけど店長に4月の計画を考えておけと言われたので店に行った…OFFじゃないじゃん。

あくまでもこの日は休みだったので、適当な所で帰った。

自分が店長ならスタッフに気を使うだけで良かったが、上に店長がいるとそっちにも気を使うからやり辛い。

実家の弟が京都の大学に行く事になった。

京都の祖父母宅に下宿するのだ。

来月頭には引越をするという。

それまでに1度実家に顔を出しておきたいと思った。

これからは家族4人集まる機会がどんどん減っていくだろうから。

店長が変わっても、シフトを作っているのは私、休みはスタッフさえいれば取れる。

実家の予定に合わせて巧く休みが取れれば良いけどな。

 

2002年3月23日 土曜日

休み明けはいつもやる気が出ない。

ただでさえこっちは皆の前で辞めたいと言っているのに、何で続けているんだろう…という素朴な疑問。

相変わらず労働時間は長いし…。

でも今の店の状況を考えると、自店舗の事を考えると…いつもの堂々巡りに突入する。

 

2002年3月24日 日曜日

水曜日にOFFを取って実家に帰ることにした。

巧い具合にOFFが取れそうだったし。

しかしこの心境で実家に帰ったら仙台に戻りたく無くなりそうだ。

 

2002年3月25日 月曜日

この日、店長はOFFだった。

辞めたいと言ってから、駅前店に行けと言われなくなった。

それは1つの効果だな。

夜に店長から電話があって、駅前店店長と飯を食いに行くが一緒に行こうと言われた。

以前の私なら断わる術を知らなかった。

そうした誘いがあったら嫌でも行かなければならなかった。

だけどもうこっちは辞めたいと言ってある、「正直言って行きたく無いです。」ハッキリ言った。

店長は「オマエを槍玉にあげてどうこうと言うのじゃなくてただ飯を食うだけだよ…」とのことだったが頑なに断わった。

辞めたい気満々の自分がどの面下げて駅前店店長と会話をするのか。

言ったら居心地が悪いのは目に見えていた。

行けば長くなるだろうし、さっさと帰りたいというのも頭にあった。

 

2002年3月26日 火曜日

自分が店長じゃなくなって、周囲にも辞めたいと洩らしてからはかなり楽にはなった。

単純に社員が2人になったので、社員の仕事は半分になった。

それに店長は結構数字に強い人だったので、売上目標とかもしっかり考えてくれる。

辞めたいと言ってからは駅前店に行くこともなくなり、自店舗にいることが多くなった。

このままだったら言うこと無しなのだが、惰性でいるだけだな…。

それは自分にとって良いことではない、それは分かっている。

翌日は弟の合格祝いに実家に帰る。

早朝の新幹線で帰って、終電の新幹線で戻ってくるつもりだ。

実家に帰るのは昨年10月以来、それは楽しみだがスケジュールはハードだな…。

 

2002年3月27日 水曜日

休みの日なのだが、仕事のある日よりも早く7時には起きる。

移動手段としては高速バスが1番安価なのだが、早さでは断然新幹線である。

新幹線に乗って東京を目指す。

その際に帰りの時刻表を調べてみた。

すると翌早朝の新幹線で帰っても朝礼に間に合うことが分かった。

それならば折角だから泊まっていくことにしよう。

昼前に実家の最寄駅に到着。

実家に帰るときに必ず寄る所、それは大学時代のアルバイト先だ。

私が辞めてから1年チョット、店のレイアウトも店員の顔ぶれもだいぶ変わっていた。

それでも仲の良かった後輩や、お世話になった人たちは健在で嬉しかった。

仲の良かった後輩と話していると、なんとたまたまこの夜にアルバイトの小さな送別会があるという。

元アルバイト先の店の閉店時間が20時30分なので、飲み会は21時過ぎからだろう。

それならば実家で家族と過ごす時間も取れる。

参加するアルバイトは皆知った仲だったし、折角誘ってくれたのでそっちへも行くことにした。

実家に帰る前、弟に祝いの品を何かあげようと思っていた。

大学合格祝い、高校卒業祝い、大学入学祝い、それら全てをひっくるめて何かを。

ゲーム機本体でも買ってやろうかと思ったが、これから大学生として(建前では)勉強しようとする人にゲームをあげるのも何か違う。

下宿とはいえ1人暮しをするので生活用品かなと思ったがこれは何か味気ない。

それなら電化製品でTVは持っていたけれどビデオは持っていなかったはずだからビデオデッキにしようかと思った。

しかしビデオデッキというのは何か変な想像もしてしまいそうだ(?)

…というわけで色々と考えた末にMDプレイヤーにした。

弟が使っているコンポにMDはついていなかった。

しかしそのコンポにMDを繋ぐための光デジタル端子はついていた(弟の使っているコンポは私のお古)。

祝いの品としてMDコンポをあげることにして、家電屋でそれらしいのを物色した。

すると大学合格・高校卒業・大学入学、3つを合わせたくらいの手頃な値段なのがあってそれにした。

ところが地元の家電屋でそれはもう在庫がないと言う。

急いで取り寄せれば明日にはお渡しできますが…と言われるが今日でなければ意味がない。

明日私は仙台にいるのだ、祝いの品はやはり直接渡したい。

その家電屋の他の店舗に在庫状況を確認してもらうと、新宿の店舗に在庫があるという。

新宿店のそれを取り置きしてもらって、その足で新宿へ行って購入した、我ながらよくやる…。

実家に帰ると共働きの両親は不在だったが、春休みの弟はいた。

今くらいの歳になると兄弟間でそれほど饒舌な会話はなされない。

何だかお互いチョットぎこちなかったような…。

母が帰り、先に飲み始め、父が帰ってきて正式に晩餐の始まり。

ただ酒飲んで話すだけだが、一家4人でそれをやるのは実に久しぶりだ。

弟への祝いの品と共に渡した手紙には「近々会社を辞めるだろう」ということも書いておいた。

家族での晩餐も名残惜しかったが、昔の仲間との飲み会も待っていた。

21時近くになると、弟にチャリを借りて元アルバイト先の飲み会の席へ行った。

皆が知った仲だったし、懐かしいメンツと懐かしい話しで盛り上った。

ココに来るまでに家でも結構飲んでいたが、話しも弾んでテンションも上がって飲みまくった。

気心の知れた人らと気分良く飲める酒は実に久しぶりだった。

翌朝5時過ぎには仙台へ戻らなければならなかったのに後半の記憶がない。

楽しかったはずなのに記憶がない、これはかなり勿体無い、折角の思い出が…。

 

2002年3月28日 木曜日

前夜の飲み会後に実家に帰った記憶がなく、居間でぶっ倒れていたところを母に起こされた。

この日のほぼ始発の新幹線で仙台に戻らなければならなかった。

起きた時間は5時、二日酔いでだるくて吐きそうだった。

7時前に東京を出る新幹線に乗って仙台に着いたのは8時30分。

MAXやまびこなる最速の新幹線に乗ると1時間半ほどで仙台、早いものだ。

一旦ウチに戻って歯磨きと髭剃りだけして店へ、朝礼(9時30分)に間に合った。

だるくて眠かったけれど吐き気はおさまっていたのが不幸中の幸い。

仕事は出来たけれど、眠くてだるくて作業効率が全くあがらなかった。

新規スタッフ採用の面接もやったのだが、その面接の最中にコッチが眠りそうになってしまった。

そんなこんなでどうにか1日を乗り切った。

朝は東京にいたっていうのが信じられない。

東京と仙台、結構近いんだな。

 

2002年3月29日 金曜日

朝と夜にそれぞれ1人ずつ新人のスタッフが入った。

やはり仕事を教える段階から始まる。

こうして1から仕事を教えてそのスタッフに対する愛着が湧くとまた辞めにくくなる。

 

2002年3月30日 土曜日

翌日は3月31日、年に2度の決算棚卸しの日だ。

閉店後にスタッフ総出で商品を数える一大イベント。

波瀾の3月だった。

副店長に降格、そして遂に辞意の表明、それなのに何故かまだ続けている自分…。

首の皮1枚繋がっているみたいな感じかな、別に切れてくれても良いのだが…。

4月はどうなるんだろ。

 

2002年3月31日 日曜日

決算棚卸し、辞めるだ何だと言っていられない状況だ。

これまでに2度決算棚卸をやってきた。

最初は入社直後、そして2度目は私が店長になって最初の月だった。

その2度とも朝から店に出て、棚卸しが終わるまでぶっ通しの作業だった(多少の休憩は挟んだが)。

それが今回は店長が「お互い一旦小休憩を取ろう」と言ってきた。

そんなわけで夕方過ぎに一旦ウチに帰ることが出来て、飯食って仮眠を取った。

棚卸しは閉店後にスタッフ総出で行なう。

皆でワイワイ、商品数えて計算して次の棚に移って…の繰り返し。

ちょくちょく他店から進行状況を報告する電話がかかってきたが、私が対応する必要がないのは楽で良い。

店内の棚卸しは3時に終わって、スタッフはそこで帰宅。

私と店長は倉庫内にある在庫の数を数える作業に移った。

結構甘く見ていた倉庫内在庫が相当な数で、6時過ぎになってようやく全てが終わった。

6時過ぎ…あと3時間後にはまた店にいなければいけない。

決算棚卸しの後ってのは大抵こんなもんだ…。

 

2002年3月 出勤日数27日 休日4日(含・短時間勤務、無断欠勤)

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