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■意味を手放した日■


大学時代の一番苦しかった日々をなんとか通過して、少しずついろんな活動を始めていたころだったかもしれません。大学の図書館に新聞の閲覧室があって、毎日1回はそこに出かけて、いくつかの新聞に目を通すのが習慣になっていた時期がありました。

ある日、いつものように新聞を読んでいると、不思議な感覚がやってきました。この感覚はうまく言葉にできるかどうか、少し自信がありません。いくつかの表現で、その感覚を表してみます。

まず最初に起こったのは、新聞の紙の上に乗っている一つ一つの文字が、意味を持った文字ではなく、ただのインクのしみのように感じる感覚でした。それまでは、新聞の紙面に目をやるだけで、無意識のうちにそこに書かれている言葉の意味を受け取っていたのに、そのときは、その意味が全部消えてしまって、ただ、インクがいろんな形で紙の上に乗っているだけのような気がしたのです。

もちろん、何が書いてあるのかわからなくなって不安になったりしたわけではありません。頭を使って考えれば、いつもと同じように新聞を読むことはできました。でもそれと同時に、「意味」がまだ付けられていない文字の「素(もと)」みたいなものを認識していたような感覚でしょうか。

その当時は、「なんだかおもしろいなぁ」というくらいにしか考えていなかったようです。でも、あとになってこの体験を思い返してみると、意識の変化のプロセスの中では、とても大きな意味を持っていたような気がしてきました。

つまり、言葉というものは、もともと意味を持っているわけではなくて、わたしたちの意識がそこに意味を与えている、ということに気づいたような気がするのです。

それは言葉に限らず、自分が見るもの、感じるもの、つまり、外の世界で起こる出来事も、自分の心の中に起こる出来事(思考や感情)も、それ自体に意味があるわけではなく、自分がそれに意味を与えている、という気づきにもつながっています。

言葉に関していえば、ある特定の言葉にはほとんどの人が同じような意味を与えているでしょう。そうでなければ、言葉の役割がはたせなくなってしまします。(もっとも、「自由」とか「愛」といったような抽象的な概念をあらわす言葉の場合は、必ずしもそうではないですが)

一方、出来事に与える意味は人によってまったく違います。自分が、ある特定の出来事にどんな意味を与えているのか、ということに気づくことは、どんなふうに自分で自分を制限しているのかに気づくことにつながっていくでしょう。

瞑想などで「思考のすき間を見る」とか「思考の浮かんでいる空間を見る」といったような言い方がありますが、そういった感覚と似ている体験だったかもしれません。

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Written by Shinsaku Nakano <shinsaku@mahoroba.ne.jp>
Last Update: 2005/12/06