私の「コンピュータ」履歴書 No.10

PC98との出会い


そんなこんなしているうちに、4年の後期の研究発表も終わり、無事大学は卒業、晴れて大学院に進学ということになりました。
大学院のM1(修士過程の1年目、修士過程は原則2年で、その最後に修士論文を提出すると「修士」になることが出来る)は、論文を書く必要も無いし、講義も無い(本当はあるんだけれど、私の行った大学院は、「集中講義」ってやつに最初だけ出て名前を書いてくると、通常の講義に一切出なくても必要単位が全部取れる仕組みだったので、講義に出たことが無い、もちろん試験を受けたこともない(^^;))ので、研究室では結構いろいろ遊べました。

ちょうどその頃発売になったPC9801を、研究室で買いました。後の通称「無印98」ってやつですね。CPUはIntelの8086 5MHz(だったかな?)、メモリは標準で128KB、フロッピーディスクはオプションで8インチ2D(←これが本体より高い)、漢字ROMオプション。そう言えば、若い人間に「漢字ROM」って言ったら「何、それ」というという顔をされてしまいました。昔は漢字フォントをROMで持っていたんですよねー。一頃、PC98の宣伝で、「一太郎」のスクロールスピードが、いわゆる「DOS/V機」より速いんだよー、とやっていたのを思い出しました。
当時はまだDOSが流行る前で、「パソコンを使う」=「BASICでプログラミングする」だったような気がします。私もこの無印98では、BASICでいろいろプログラミングして遊びました。あと、CP/M86というOSも買って、その上でFORTRANやPascalなどのコンパイラを動かして、測定機の制御をしようなどと、いろいろやったものです。ただ、メモリが少なかったので、あまりうまく行きませんでしたが。

その後、この無印98がモデルチェンジしたPC9801Fというのが出ましたが、これは測定機の制御用とか、メインフレームの端末用として、研究室に大量に導入されました。これはCPUのクロックが確か8MHzになって、5インチ2DDのフロッピーディスクドライブが2台内蔵されたやつです。
これは沢山入ったので、私も1台占有することが出来て、結構いろいろ遊びました ←いや、遊びのためにあったわけじゃなくて、私が担当していた測定機の制御・データ収集用であったわけですが、そこはそれ、お気楽なM1のこと、ろくに仕事しないで、遊んでばかりいました。
この98Fと一緒に、日本語ワープロも購入してあったので、こっちもいろいろ使い倒しました。私が日本語ワープロを触ったのはこれが初めてだったと思います、英文ワープロならWordStarってのを使ったことがありましたが。名前は、何だったかなあ、確か「JWord」とかいう製品名だったと思うのですが、もう忘却の彼方。
今と違って、ハードディスクなどというものはありませんでしたから、フロッピーにプログラムを入れておいて、そのフロッピーで立ち上げるという使い方です。確か、立ち上げフロッピーにはプロテクトが掛かっていたような。
当時はプリンタの方も貧弱で、確かに漢字も印字出来ることは出来るのですが、かなり印字品質が悪い。まだ論文をワープロで書くというのは夢のまた夢、という時代でした。私も、修士論文は原稿用紙に一所懸命手書きしました。そう言えば、あのときが「原稿用紙」なるものを使った最後だったような気が…それ以来、原稿用紙なる物体にお目にかかってもいないような気もします。

まあそんなこんなで研究室にPC98が沢山入ったわけですが、何と言っても一番よくやったのが、ゲーム。今では私など、PC上でゲームをやったり、ゲーム機を買ったりするようなことは全く無い、というか、そんな時間が無いのですが(あ、ソリティアとマインスイーパはときどきやるけど)、当時は、そういうのが珍しかったせいもあって、結構やりました……夜遅くまで。
しかし、ゲームに一番はまっていたのは、当時の教授(^^;)
ある日、昼頃に私がいつも使っていたPC98のところに行ったら、教授がゲームをやっている。仕方が無いので、夕方辺りに行ったらまだやっている。夜10時頃に「さて帰るか」と教授に「お先に失礼します」と挨拶に行こうかと思ったらまだゲームに熱中している。次の日の朝、研究室に来てみると、まだやっている。その日泊まった院生に聞いてみると、徹夜でやっていたらしい。
おいおいおいおい、いいのかそんなことで。

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