1885 | 明治18 | 0才 | 5月12日、東京市麹町区元園町1ノ38(現在の千代田区一番町19−4)に生まれる。父は実世(さねよ)33才、母は秋子(なるこ)31才。家は華族で子爵。8人きょうだいの末子だが、明治12年生まれの伊嘉子(いかこ)、同15年生まれの公共(きんとも)のみが健在だった。 |
1887 | 明治20 | 2才 | 10月27日、父実世が肺結核で没(35才)。兄公共が家督と爵位を相続。 |
1891 | 明治24 | 6才 | 9月、学習院初等科入学。同級に木下利玄がいた。 |
1897 | 明治30 | 12才 | 9月、学習院中等科へ進学。 |
1899 | 明治32 | 14才 | 12月、姉伊嘉子が肺結核で没(20才)。 |
1900 | 明治33 | 15才 | 4月、「お貞さん」こと志茂テイ(12才)が姉とともに伯母を頼って上京。 |
1902 | 明治35 | 17才 | 中等科六年に進級、志賀直哉が二度目の落第で同学年となる。 |
1903 | 明治36 | 18才 | 3月、志茂テイが帰郷、失恋する。夏、三浦半島金田の叔父・勘解由小路資承の家でトルストイの『我宗教』『我懺悔』、聖書を読む。9月、学習院高等科に進学。志賀、木下、正親町公和(おおぎまちきんかず)と同級になる。 |
1906 | 明治39 | 21才 | 7月、高等科卒業。9月、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修に入学。 |
1907 | 明治40 | 22才 | 4月、志賀、木下、正親町と志賀宅に各自の創作を持って参集。「十四日会」と命名。8月、退学。 |
1908 | 明治41 | 23才 | 4月、創作感想集『荒野』を自費出版。7月、「十四日会」で回覧雑誌「暴矢」を創刊、のちに「望野」と改題。 |
1910 | 明治43 | 25才 | 4月、月刊誌「白樺」を創刊。創刊号に「『それから』に就て」を発表。11月、トルストイ没(82才)。 |
1911 | 明治44 | 26才 | 2月、創作集『お目出たき人』刊行。 |
1912 | 明治45 | 27才 | 11月、『世間知らず』刊行。 |
1913 | 大正2 | 28才 | 2月頃、竹尾房子(20才)と結婚。実篤の生家で同居。入籍は翌年。 |
1914 | 大正3 | 29才 | 1月、『中央公論』に戯曲「わしも知らない」を発表。商業誌への初めての発表。5月、麹町区下二番町に家を借り、初めて生家を出る。 |
1915 | 大正4 | 30才 | 6月、文芸座が「わしも知らない」を帝劇で上演。実篤の戯曲が上演された最初。 |
1916 | 大正5 | 31才 | 8月、肺結核と診断される(のち誤診と判明)。12月、漱石没(49才)。千葉県我孫子に転居。近くには志賀や柳が住んでいた。 |
1917 | 大正6 | 32才 | 11月、ロダン没(77才)。 |
1918 | 大正7 | 33才 | 7月、雑誌「新しき村」創刊。11月、宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村大字石河内字城に新しき村をつくり移住。妻の房子など15人。 |
1919 | 大正8 | 34才 | 5月、村に内紛が起こる。9月、『幸福者』刊行。10月、「友情」の連載開始。 |
1920 | 大正9 | 35才 | 4月、『友情』刊行。7月、第一詩集『雑三百六十五』刊行。 |
1922 | 大正11 | 37才 | 9月、戯曲「人間万歳」を発表。この年、飯河(いごう)安子(21才)と結婚(入籍は昭和4年)。 |
1923 | 大正12 | 38才 | 6月、芸術社から『武者小路実篤全集』全12巻の刊行開始(昭和3年完結)。有島武郎自殺(45才)。9月、関東大震災で生家焼失。『白樺』廃刊。11月、自伝小説『或る男』刊行。12月、長女新子(しんこ)誕生。 |
1925 | 大正14 | 40才 | 2月、木下利玄没(39才)。次女妙子誕生。12月、新しき村を離れる。 |
1926 | 大正15 | 41才 | 1月、志賀がいた奈良市水門町に住む。 |
1927 | 昭和2 | 42才 | 2月、東京府南葛飾郡小岩村に転居。9月、カボチャの絵を描き、最初の油絵と記す。改造社の現代日本文学全集(円本)の一冊に入り多額の印税を得るが、半年で使いきる。 |
1928 | 昭和3 | 43才 | 11月、母秋子没(75才)。葬儀の日に三女辰子誕生。 |
1929 | 昭和4 | 44才 | 2月、初の個展を日本橋丸善で開く。12月、岸田劉生没(38才)。 |
1930 | 昭和5 | 45才 | 12月、『棘まで美し』刊行。 |
1931 | 昭和6 | 46才 | 二宮尊徳、大石内蔵助、井原西鶴などの評伝を書く。 |
1925 | 昭和10 | 50才 | 7月、『人類の意志に就て』刊行。8月、日射病に坐骨神経痛を併発し、1ヵ月病臥。一生のうち「一番の大病」という。 |
1936 | 昭和11 | 51才 | 4月、ヨーロッパ歴訪の旅に出発。ベルリンオリンピックを観戦。ピカソ、マチスに面会。アメリカ、ハワイを経て12月に帰国。 |
1937 | 昭和12 | 52才 | 6月、芸術院会員に推され就任。 |
1938 | 昭和13 | 53才 | 11月、『人生論』刊行。 |
1939 | 昭和14 | 54才 | 8月、ダム建設により宮崎の新しき村の耕地の多くが水没することになったため、埼玉県入間郡毛呂山町に東の新しき村をつくる。9月、『愛と死』刊行。 |
1940 | 昭和15 | 55才 | 3月、「愛と死」が菊池寛賞を受賞。9月、東京都三鷹市に転居。10月、『幸福な家族』刊行。 |
1941 | 昭和16 | 56才 | 4月、代表作を編集して『無車詩集』刊行。 |
1942 | 昭和17 | 57才 | 5月、『大東亜戦争私感』刊行。日本文学報国会劇文学部長に就任。 |
1945 | 昭和20 | 60才 | 8月、疎開先の秋田県雄勝郡秋ノ宮村稲住温泉で終戦を迎える。9月、帰京。 |
1946 | 昭和21 | 61才 | 3月、貴族院の勅選議員に就任。4月、『若き日の思い出』刊行。7月、公職追放のG項該当者に指定され、貴族院議員と芸術院委員を辞任。 |
1948 | 昭和23 | 63才 | 7月、白樺同人、漱石門下、芸術界学界の長老らと生成会を結成、機関誌『心』を創刊。山谷五兵衛もの第一作「彼の羨望」を発表。 |
1949 | 昭和24 | 64才 | 1月、「真理先生」の連載を『心』で開始。 |
1951 | 昭和26 | 66才 | 4月、『真理先生』刊行。8月、公職追放解除。11月、文化勲章受章。 |
1953 | 昭和28 | 68才 | 1月、『馬鹿一』刊行。11月、『空想先生』刊行。 |
1955 | 昭和30 | 70才 | 11月、新潮社から『武者小路実篤全集』全25巻の刊行開始(昭和32年3月完結)。12月、調布市入間町(現若葉町)に転居。 |
1962 | 昭和37 | 77才 | 4月、兄公共没(80才)。 |
1963 | 昭和38 | 78才 | 4月、NHKの連続テレビ小説として「あかつき」が放映された。 |
1967 | 昭和42 | 82才 | 1月、後半生の自伝として「一人の男」連載開始(〜1970年)。最も長い作品となる。 |
1971 | 昭和46 | 86才 | 10月、志賀直哉没(88才)。弔辞を読む。 |
1976 | 昭和51 | 1月、入院中の安子を見舞った翌日に脳卒中で倒れ、以後ことばの自由を失う。2月、安子没(75才)。実篤は知らされず。4月9日、東京慈恵会医大付属第三病院にて没。90才10ヵ月。葬儀は無宗教形式、戒名はない。 |
◎実篤記念館公式ホームページには、より詳細な年譜が掲載されているので、そちらも参照されたい。