実篤作品とモデル


 私は文芸作品とそのモデルという問題には関心がない。構造論のように作品を分解して読んでいくこともしないが、一個の作品は作品として独立したものとして扱われるべきだと思う。実篤作品には作者の考えが強く出ているが、登場人物や舞台は実篤と関連づけなくてもじゅうぶん読むことができる。むしろ「人間万歳」のように荒唐無稽な舞台のものも多く、外見よりもその精神をこそ鑑賞するのが楽しい。

 そういう実篤作品にもモデルと密接な関係をもつものはいくつかある。中編小説「世間知らず」(1912年)は、実篤と房子前夫人(作品中ではC子)との恋愛・結婚を下敷きにしている。「しかしこゝに書かれたことが外面的事実と寸分もちがわないと思ふ人があれば、それは作者の手腕を買ひかぶってゐる人である。 」(『世間知らず』自序)とあるように、事実そのままを書いたものでは当然ないが、「事実ばなれ」が多い彼の作品の中では、より事実に近いものである。ただし「世間知らず」を単なる「告白」と読むのはもったいない。自伝小説「或る男」は主人公を「私」ではなく「彼」としていて、そこに虚構性を認めることができるが(*1)「世間知らず」にも虚構の臭いを嗅ぎつけ、何か新しい側面を読み取ることができるかもしれないのだ。

 実篤の(あるいは白樺派に共通の)基本的な創作態度・信条として「自らの実感にぴったりこないことは書かない」というものがある。その意味で彼の作品の部分部分は、彼の実感に合ったもの=彼自身をモデルにしたものと呼ぶことができるだろう。特定の「モデル」が作品外のどこかにあるのではなく、むしろ逆に作品のここかしこにモデルが遍在しているため、そういう詮索は意味を持たなくなっている。作品の背景をあれやこれやと想像して読むことはそれなりに楽しいが、そこから本質的な「読み」は引き出されないのではないだろうか。作品にまっすぐ向き合い、素直に読むところから始めてみるべきだと思う。

*1 渡辺聰「『或る男』−自伝に見る武者小路の転換−」(「国文学解釈と鑑賞」1999-2 特集 武者小路実篤の世界

(2000年3月26日:記)


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