実篤と新聞小説


 新聞週間だったので(10月15日〜21日)、実篤と新聞小説について一寸書いてみる。
 中川孝氏によると、実篤が新聞に小説を発表したのは数少なく、主なものを挙げても5作にとどまる。年譜を1行1行チェックする時間を惜しんで中川氏の整理したところに拠ると、

  1. 「死」 朝日新聞 大正3(1914)年
  2. 「友情」 大阪毎日新聞 大正8(1919)年
  3. 「母と子」 朝日新聞 昭和2(1927)年
  4. 「井原西鶴」 時事新報 昭和6(1931)年
  5. 「若き日の思ひ出」 陸輸新報 昭和20(1945)年

となる(中川孝『母と子』河出文庫特装版解説、昭和30年9月1日。今回は単行本化された、中川孝『武者小路実篤 その人と作品の解説』皆美社、平成7年1月30日に拠った)。

 膨大な作品を書いた実篤にとって5作というのは極めて少ない数であり、「友情」という重要な作品はあるにしても新聞というのは彼の活躍の場ではなかったようだ。自分の作品を発表する媒体が欲しくて『白樺』という雑誌を作った実篤は、『中央公論』などの一般誌に作品を発表しても『不二』や『大調和』といった雑誌作りをやめることはなく、あくまでもそういう「同人誌」「個人誌」を軸足に活動をしていったように思う。(細かく見ると『白樺』以外の同人誌・個人誌は、実篤の「失業時代」と合わせてその位置づけを検討する必要はあると思うが。)
 毎朝新聞で実篤の小説が読めたらというのは、ファンの楽しい空想だが、今日も新たな発見を求めて全集を開くことにしよう。


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