画をかく喜び 〜作品とモチーフ〜


 記念館、平成9年の最終日。仕事納めの翌日、ゆったりとした気持ちで出かける。
 通常の絵画展。もう少し実物と画との対比を期待していたが、ちょっと違う感じ。 メインは淡彩で、数点の油絵とスケッチ帳が展示されていた。美術について書いたものも展示されていて、実篤の画の描き方についてはよく伝わってきた。来年の干支にちなんで、張子の虎とその画も掛けられていた。
 野菜はとっておけないから(実篤が描いた南瓜とか残っているとすごいが)展示されているのは陶器等が中心。骨董の趣味がないので、壺や俑を見ても正直言ってその良さがわからない。

 展示目録を見直すと、実物との対比のコーナーに多くをさいている。それなのにその印象が薄く、あまりぴりっとこない展観だったと感じたのはなぜだろうか。
 初見のものが少なかったのも一因かもしれない。
 また今この文書を書きながら思うのだが、「モチーフ」ということばがイメージの食い違いの原因だったかもしれない。「モチーフ」とはよく「主題」と訳されるが、この展示の場合その訳語は適当ではないだろう。実篤の描いた画とそのモデル(「モデル」と言うとまた違った意味合いが出てきてしまうかもしれないが)の対比が、今回の展示の目玉だったはずだ。たとえば鯰の自在鉤とそれを描いた鯰の画をならべて、実篤がそれをどう見てどう画にしていったかを目のあたりにすることが展示の意図だったと思う。

 しかしそれが「モチーフ」ということばで表現されたため、私の中で混乱が起きたのかもしれない。「モチーフ」というと何か具体的な事物があって、それを作者の中で消化して、元となった事物を超えた作者なりの表現に持っていくという動的なものや、原義そのままに作者に作品を描かせた「動機」を連想するのだが、それと実篤の描く実物に即した画と素材の関係が、最後まで私の頭の中で結びつかなかったようだ。
 先の例でたとえるならば、実篤は鯰の自在鉤を描くことで、なにかそれ以上のことを訴えようとしていたのではなく、ただ鯰をできるだけそのまま紙の上に写そうとしていたのではないかと思うのである。たしかに馬鈴薯を描くことで自然の玄妙さを表現しようとしていた部分はあるかもしれない。しかし自然の玄妙さを訴えるために馬鈴薯を描いたわけではない。馬鈴薯の美しいと思うところを忠実に描こうとしていただけだ。実篤は馬鈴薯からはみ出したものを描こうとしていたとは思わない。だから実篤と「モチーフ」ということばは、私の中でつながらないのだと思う。

 下の池のほとりに出ると、すっかり葉が落ちたためか、やわらかなひざしでとても明るく感じた。寒気もゆるみ陽もさしてきて、散歩には良い日和だ。落葉樹の幹の柔らかな肌色と孟宗竹の青。菖蒲園の入り口にはセンリョウが赤い実をつけていた。
 旧邸のまわりのモミジもすっかり落ちてしまい、植え込みの間に淡いピンクの落ち葉が敷きつめられている。公園口に近い上の方は常緑樹が多く、鳥がたくさん来ている。新年に向けて園内は丁寧に掃き清められている。
 実に平和な冬の午後、良い年の暮れだ。

(1997年12月27日見学)




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