「描くということ」〜白樺同人、絵画への軌跡〜


 白樺同人がどのようにして絵を描いていったかという点を中心にした春の特別展。なかでも学習院時代に彼らが描いた絵が今回のポイントである。今でいう「美術」の授業で、実篤や志賀が描いていた絵が出展されているのだ。

 鉛筆で描いた風景画の下のほうに「二乙武者小路」(中等科二年乙組の略)とあるのがリアルだ。出席簿や時間割なども出品されている。先生は松室重剛、日本最初の美術専門学校・工部藝術学校画学科で洋画を学び、その後学習院で「図画」を教えた。
 当時は現在のような授業内容ではなく、「お手本を写す」ということから始めていた。「絵を見ながら絵を描いていた」のである。学年が進んでから、石膏のデッサンや野外での写生を行ったらしい。また「西式」(洋画)と「和様」(日本画)の二種類があり、それぞれのお手本も展示されていた。ちょっとびっくりするが、明治時代であればこのようなやり方しかなかったのかもしれない

 実篤のほかにも志賀直哉、木下利玄、柳宗悦、園池公致、児島喜久雄らの絵があったが、みんなうまい。実篤がとりたてて下手というわけでもないが(たしかにちょっとかたちがとれていないところはあるが)、他の人がうますぎる。私じしん絵は得意でないだけに、皆上手なのには驚いた。実篤は「図画と作文が不得手」と学習院時代を振り返るが、まわりが達者すぎたのかもしれない。

 その後、ひとりずつ作品が展示されているが、画家の有島生馬が若い頃から上手なのは当然としても、正親町公和(後に実業家になった)のはがきに描いた水彩画はほんとにうまかった。びっくりして、「ほんーとにうまいね」と、うなってしまったぐらい。その隣の木下利玄も上手だったが、説明によると児島喜久雄(彼も玄人はだしの絵を描く)は水彩画家・三宅克己に、正親町は同じく木下藤次郎に、木下もいずれかの絵画教師に学んだとある。
 初期「白樺」の表紙や挿絵、木版製作の多くも同人たちが自ら行っていたそうだ。木版というのも驚きだが、柳宗悦や生馬、里見とん^らが彫ったことがあるとのこと。また、里見や児島はバーナード・リーチからエッチングを学んでおり、単に器用なだけでなく、美術に積極的に接していったのがわかる。

 そのほかでは志賀の油絵が良かった。他の人は若い頃の作品が多かったのに対して、志賀は戦時中60歳近くになって始めた油絵も飾られていた。時間をかけてものにできればと思うあたりも、実篤に似ていておもしろい。
 実篤の絵は今回のような上手に交じるとちょっとさびしいが、それでも40歳ごろの「自画像」(パンフレットの表紙にあり)はよく描けている。里見とん^と長与善郎は、今回はあまり良い作品は出ていない。長与などはもっと上手な文人画を、東京ステーションギャラリーの「白樺派展」で見たことがある。

 先週行われた「実篤に挑戦!」(来館者による絵画製作)の作品も展示されていた。実篤を紹介するマルチメディア端末は2台とも調整中。休憩室の紹介VTRは稼動しているが、ちょっと注意。
 閲覧室には展示に関連した書籍も紹介されている。志賀直哉と美術といえば『座右宝』という彼がプロデュースした写真集がある。それらを中心にした奈良県立美術館の昔の展示目録が見られたのは収穫だった。

 雨が降っていたが、公園では花しょうぶが黄色や紫の花をつけていた。もう少しで見ごろだろう。

(2002年5月17日見学)

(2002年5月18日:記)


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