吹奏楽団の歩み

〜第20回定期演奏会プログラムより〜

更新日時: 2003年 06月 30日 01:26:35

(文中敬称略)


20年のあゆみ

昭和29年度・昭和30年度
吹奏楽コンクール県大会優勝

編成が20数名から40数名(OB も加えて)になり、フィンランディアとかベートーベンの交響曲第5番を編曲して、 定演レパートリーに加えたことを思い出します。 また、毎年夏休みには“巡業”と称して、県下各地方にくまなく巡回演奏をしました。 当番制の自炊飯、板の間に毛布で教授とともに寝た夜、大八車での楽器運び…… いろいろ体験しました。

昭和30年度卒 川澄和夫

昭和32年度
第一回定期演奏会

あの頃としてはめずらしくシンフォニック・ バンドをめざして吹奏楽部の大改革をしようと動いていたのが、 今日の全国アマ・オケの実質的な創立者である森下元康氏*1です。
森下氏を中心とする幹部はクラシック・バンドとしての演奏会を思いたちました。 これには現役だけでは無理なので、OB との合同でおこなうため先輩の説得に走りまわっていたようです。 当然反対の空気が強く、まだ時期尚早の声も多くありましたが、 何とか説得してその年の夏(昭和32年)第一回の演奏会へとこぎつけました。

指揮者 林和泉

最大の想い出は、夏の蒲郡の合宿である。その練習は我々の仲間で「アサター」 「ヒルター」「ナイター」という言葉が使われた程で、 朝起きるやすぐにラッパの音出しをするし、 夜は9時頃まで練習するという毎日であった。

昭和32年度卒 鈴木忠臣

ある演奏会の話。午後6時開演。ステージに着きいよいよ本番。聴衆がいない。 10分、15分、始めよう。あっ!現れた。おばあさん一人。前奏曲……一部、終了。 正座のおばあさん、手を合せ、 “ありがとうございました。私のために……今日は町の巡回映画会がありまして……” おばあさんの熱っぽい話に意を強くし、第二部を始める。3〜4人の若者が入場。 フィナーレ。一生懸命演奏をした。出演者50名。聴衆者5名。

昭和35年度卒 味岡亘*2

昭和37年度
第5回(夏) 岡崎勤労会館・豊橋市公会堂 (新世界)
第6回(春) 名古屋市中区役所ホール

1年生冬の合宿の時、4年生がブラスに狂いすぎたため (オトキチと呼んでいました)ほとんどの人が卒業延期となり、最終日の夜は、 激励会のようになったことを思い出します。

昭和37年度卒 荒川信郎

昭和39年度
第8回(春) 名古屋ナショナル・ホール  (チャイコフスキー 1812年大序曲)
全日本吹奏楽コンクール全国大会第4位

昭和37年度の秋には、中部日本吹奏楽コンクール出場にまでこぎつけましたが、 前日の台風のため、流れてしまいました。 春には皆で音楽を探究しようとする気運が高まり、 各団員がレポーターとなり発表会を行いました。 昭和39年度は、コンクール出場のため、合宿に次ぐ合宿にあけくれ、 4月から10月までに、何と7回合宿を行い、我々4年生は、 卒業のことを心配したものです。

昭和39年度卒 柴田亮

昭和41年度
(大学名) 愛知学芸大学 → 愛知教育大学
(クラブ名) 吹奏楽部 → 吹奏楽団
全日本コンクール第4位
第10回 岡崎勤労会館・名古屋中電ホール (新世界)

当時は、大学が岡崎と名古屋に分かれていたため、 ふだんは別々に練習していましたが、コンクール、 演奏会のたびに合宿して顔を合わせるのが楽しみでした。 音楽科以外の学生も数が多く卒業して教職についてからも、クラブ活動等で、 学生時代の経験を生かしているものが多数います。

昭和41年度卒 大嶋和美

昭和42,43,44年度
名古屋中電ホール・岡崎勤労会館
昭和45年度
刈谷市民会館

当時の思い出は、何と言っても夏の合宿、質素倹約を旨とした自炊であるから、 3度の食事はすばらしいこと。 ある日のメニューは“ナスの煮付け”で、ブラス始まって以来の豪華版。 例によってヘタから皮から、果ては木の葉までぶちこまれたもので、 先生がどのような顔で食べられたかは御想像におまかせしよう。

昭和45年度卒 鈴木徹

昭和46年度
名古屋中小企業センター
昭和47,48,49年度
名古屋市民会館中ホール
昭和50年度
愛知文化講堂

20回に寄せて

山本誘

愛教大吹奏楽団が20回の定演を開くについて何か一言書けとの通知を頂いて、 私はおめでとうと言うより、なつかしさで胸一杯になり、 心の奥に人間の温かさを覚えました。 音楽はよいものだとつくづく思います。団員の皆さんありがとう。 心から御礼申し上げます。

愛教大吹奏楽団の歴史は古く豊川市に高等師範学校があり*3、 戦後廃校になった為、高師にあった管楽器が愛教大に移管され、 それ等の楽器を中心にして吹奏楽団が生れたのがそもそもの始まりで、 昭和20年代には同好者の集まりで20人ぐらいの編成だったと思います。 演奏会は開かず夏休みなど小・中学校の巡回演奏をやっていました。 昭和30年代に入り部員も増えて30名ぐらいの編成になりコンクールにも出て演奏活動も活発で大変立派でした。 私は39年より講師として週一回愛教大へ行くようになり、 吹奏楽団の手伝いもしましたが、 何より困ったのは名古屋と岡崎に校舎が別れていて週一回の合奏練習も集まりが悪く、 それが私にとって何よりも苦痛でした。 それでもコンクールに出場する時は1週間か10日位全員合宿して猛練習をし曲を仕上げるのですが、 その馬力に私は心をうたれたものでした。 その部員の吹奏楽に対する熱意が今日の吹奏楽団を支えてきた大きな力だと思っています。 私達にとって大切なことは音楽を愛する事です。 音楽を大切にして愛すれば、互いに心が通じあいそれが歴史を作ってゆくと思います。 私は愛教大吹奏楽団の今後の発展を心に祈り、20回定演をお祝い申し上げます。


小松孝文*4

愛知教育大学吹奏楽団、第20回定期演奏会おめでとうございます。

樹木の年輪は、厳しい自然に耐えしのんだ証しであると言われます。 それ故にその一つ一つに「重み」があり「価値」がある。

愛知教育大学吹奏楽団の(本日までの)20年の歴史は、 まさにこの年輪に値すると言っても過言ではないでしょう。

音楽に対する、ひたむきな情熱とたゆまぬ努力を一貫して来た貴重な産物である。

この産物を(心の)支えとしてこれからの一層の飛躍をされんことを祈ります。

私も長いおつき合いの中で教えられた事の方が多かったことを感謝して、 これからは、少しでもその恩返しをさせていただこうと思っている次第です。


注記

*1 森下元康
豊橋交響楽団 音楽監督、(社)日本アマチュアオーケストラ連盟理事長
*2 味岡亘
名古屋芸術大学、(社)全日本吹奏楽連盟東海支部 東海吹奏楽連盟常任理事
*3 豊川市に高等師範学校があり…
名古屋大学教育学部の前身である岡崎高等師範学校のことか? (豊川市にあったらしい)
*4 小松孝文
クラリネット奏者、ナゴヤディレクターズバンド代表、等
第12回定期演奏会から愛知教育大学吹奏楽団音楽総監督兼常任指揮者

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