砂田佳弘
2000年11月5日は、旧石器研究者のみならず、考古学の縁に関与してきた多くの輩に失望と憤怒、そしてある種の合点を察知させた。俯くその姿に何ら感情は読みとれないし、ビデオで証拠とされた2000年度二遺跡以外は真実だとするその声には、もはや聞く耳をもつことは不可能である。その後の、東北旧石器文化を語る会の石器検討会や発掘された日本列島2000の展示を観察するにつけ、その石材・器種・鉄分附着・加熱処理などの奇妙な一致は、モノ言わぬ石器が雄弁にその真実を語ろうとしているのである。
しかし、四半世紀にもわたって捏造を野放した点には、石器研究者として理由の如何を問わずに矜持を正して真摯にお詫びしなければならない。捏造癖は、考古学における氏の登場から始まった。それですべての疑問が氷解する。再調査の要不要を論ずるならば、考古学としての説明責任が、発掘調査なのだろうが、調査に投ずる莫大な税金はこれまた国民への説明が必要である。昨年末まで投入した億単位の費用は、町興し・村興しに一時の夢を与えたが、その実態は空虚な絵空事でしかなかった。司直の手を拝借してでもの徹底的な真実の追求が必要ではなかろうか。
今世紀の石器研究は始まったばかりだが、一朝一夕には到達点を見極めることは困難である。
ただし、今時スキャンダルがもたらした一点の光明と言えば、従来アットホームな土壌にあった石器研究に、一つでも多くの徹底的な議論が芽生える可能性を生じさせたことである。次の世紀への大いなる糧となるべく、今回のシンポジウムがひとつの手がかりとなることを望むのである。