原文は、Dirt and Japan's Early Palaeolithic Hoax(Web:2001.11.30)。Sophia International Review 24, 2002.に掲載。
●本稿は、「事件」発覚後初めて、最初から出版物掲載を予定して執筆されたキーリ氏の論考である。少なくとも事件をめぐる説明は、考古学に親しくない学生や同僚(紀要の本来の読者)を念頭においている。続けたセンテンスで同じ主語や修飾語が繰り返されて冗長に感じられる部分があるかもしれないが、これは英語的である以上に、自然科学系の論文で言明の明晰性を保つ手法と似ている(翻訳では冗長を避けた部分もある)。翻訳は読みやすさを重視した。
●(あえて概括すると)本稿は捏造事件の概要を振り返ると共に、具体的には、遺物の土中での上下移動(垂直変位)問題、地質学者達が一致していた火砕流説への反応、報告書記載の矛盾等を取り上げている。「土」に関する知識やセンスと共に、問題になっているのは、ごく普通の思考明晰性や論理である。
●ついでながら、拙稿「ローム層中の生活面」。これは、2001年1月21日の岡村氏の講演内容に驚いて書いた文章。
●ついでながら、火砕流の下にATがあったという話は、その後どうなったのだろう?

土と前期旧石器捏造
Dirt and Japan's Early Palaeolithic Hoax

Charles T. Keally
2001年11月30日

1.総論−The General Story of Dirt and the Hoax

 考古学者は、地面を掘り下げることで、人類の過去を理解するための基本的な情報を得ようとする。また、人文科学・社会科学・自然科学にわたる多くの理論から、考古学的調査研究に役立つ情報を得ようとする。しかし、考古学者にとって最も大事なのは、地面を掘ることといえる。

 考古学者は「土」を理解すべきである、とは自明のことであろう。しかし今や日本は、史上最大の考古学的捏造の舞台として、世界中で認知されようとしている。これは、日本の指導的な考古学者達が「土」を理解していなかったからなのだ。彼らは、土を理解している(とるに足りない)考古学者や(指導的な)地質学者の主張に耳を傾けなかった。

土−Dirt:

 「土」とは、過去の人類と文化(行動、社会、信仰、思念)の残滓を保持している地質学的堆積層であり、土壌である。様々な様式、様々な環境で土が(地表面に)積もったものが堆積層(deposits)である。地面の下で、堆積層に影響する様々な作用で発達するものが土壌(soil)である。堆積層も土壌も、常に多くの自然の作用にさらされている−霜、モグラ、ミミズ、植物の根、地震、浸食、地滑り、等々である。「土」については後程詳しく述べることにして、次に「捏造(でっちあげ)」について述べたい。

捏造(でっちあげ)−The Hoax:

 およそ3万ないし3万5千年前より以前に、日本列島に人類が存在していたかどうか、即ち前期旧石器時代(前期・中期旧石器でも同じこと)の問題は、1980年に至るまで常に論議の的だった(注1)。これこそ前期旧石器との主張が、広く受け入れられたものは皆無だった。殆どの資料は、一人か二人といったごく少数の研究者が容認しただけだった。しかし1980年以来、宮城県の若い研究者達が、確実に3万5千年前より前の地層に包含される、確実に人工的な遺物を発見したと主張し始めた(岡村・鎌田 1980)。数年の内に、それらの資料と年代観は、日本列島前期旧石器時代の、疑問の余地の無い、最初の発見と広く認められるようになった(注2)

 異議の声は少数だった(小田 1985、小田・キーリ 1986、また小田 2001の頁13、1983年の「日本原人」の小田氏のコメント)。そうした声は、日本考古学を率いる研究者達によって、たちまち鎮圧されてしまった。そして、その後は無視の対象となった。1990年代初頭に至り、日本列島の前期旧石器時代は、国家的「事実」として受容された。新発見は、毎年数回はビッグニュースとなり(注3)、前期旧石器は日本の最良の国立・県立博物館に展示されるようになった。1998年までに、いくつかの関連遺跡は、文部省に認められた教科書に載るようになった(岡村 2001 頁47)。

 新発見の遺跡は、毎年登場するようになった。それらの遺跡はどんどん古くなっていった…50万年、60万年、最後には70万年という具合である。小屋ないしシェルターの証拠が、30〜50万年前のものとして報告された。着柄痕のある石器は40万年前、石器埋納遺構は60万年前と報告された。これらの新発見「前期旧石器時代資料」は、人類の技術及び認知能力が、日本列島において、世界の他のどの地域よりも数十万年早く発達したことを意味していた。日本の考古学者は、人類進化理論を実質的に書き換えようとしていた。

 これらの発見は、人類の起源と進化を研究している国際的な研究者コミュニティにとって、極めて重大なものだったはずだが、彼らは実際にはあまり注目していなかったようだ。アフリカ、ヨーロッパ、南西アジア、東南アジア、及び中国における、数十年にわたる研究の蓄積が、完全に覆されようとしていた。

 しかしながら、日本での騒ぎをよそに、異論は一つも聞こえてこなかった。何より、それらの「遺物」が人工的な製品であることに疑いはなかった(確かに)。そして「遺物」が発見された堆積層に与えられた年代観は、正確だった(確かに)。しかし、非常に深刻な欠点が見逃されていた。日本の指導的な考古学者達が「土」を理解していなかったが故に。

 1981年以来、ある若く(どちらかというと)無名の旧石器研究者が、学術的な会合及び新聞でのコメントを通じて、「土」をめぐる重大な疑問を呈するようになった(参照:小田 2001、頁13)。(無論)それは無視された。1985年、彼はその疑問を、有名な(大衆)科学雑誌のインタビューの形で活字に載せた(小田 1985、頁28)。そして1986年、彼と私は、この疑問を日本で最良の査読学術雑誌の一つに投稿した(小田・キーリ 1986、頁342-345)。この論考は大騒ぎとなったが、束の間だった。指導的な考古学者達は、面前で我々を批判した。我々の考え方は「間違って」おり、そのように強烈な批判文を活字にすべきではないというのである。しかし誰も決して、我々の批判に対する詳細な反論を公にすることはなかった。そして我々の主張は、殆ど忘却されてしまった。

 14年後の2000年11月5日、毎日新聞は藤村が2ヶ所の「前期旧石器遺跡」で遺物を埋め込んでいたことを暴露した(旧石器 2000)。その時以来、日本列島の全ての前期旧石器の枠組(1980年以来築かれてきたもの)は崩壊した。

再び「土」について−Dirt Again:

 再び「土」の問題に戻る。小田と私の問題提起のポイントは「土」だった。なぜ件(くだん)の「前期旧石器」は土の中で全く上下移動していなかったのだろう? なぜそれらは、単層の境界面に水平に出土するのだろう? この疑問は、考古学者が見逃してはいけないはずのものだった。

 地質学的堆積層は、数十年あるいは数百年以上かけて、mm単位ないしcm単位で、徐々に堆積していく。その間、堆積層と(全ての包含される)遺物は、モグラ、霜、草の根、樹根、穴を掘る習性のある動物、ミミズ類、蟻、倒木、その他諸々の自然の作用を受ける。単一の(地質学的)イベントが、これらの撹乱作用を全く受けない程に遺物を覆いつくすことは、非常に稀である。ポンペイの遺跡とは、話が違うのだ。

 誰でも、花壇の砂利が霜柱の中に沈んでいるのを見たことがあるはずだ。木の根が歩道の舗装を歪めたり動かしてしまうこともある。公園の芝生の上に土がもっこりしていたら、モグラの仕業だ。彼らは「遺物」をあちこちに動かしてしまう。台風による倒木も珍しいことではない。小石や何らかの「人工物」が、根っこで土中から押し出されているのを見たことはないだろうか。

 日本の考古学者なら誰でも、根が遺物の周りに絡み合い、遺物をそちこちへ押しやっている遺跡を経験したことがあるはずだ。モグラが、まるで現代人が発掘したように、遺物を動かした痕跡を見たこともあるだろう。筆者は、考古学を学び始めて、まだarchaeologyの綴りを覚える前に、如何にミミズが巨石の下に穴を掘り進み、数十年の内に沈ませてしまうかを知っていた。ちょうど霜柱の長年の作用で、庭の砂利が土に埋もれてしまうように。

 では何ゆえに、モグラ、根、霜、その他の撹乱作用を受けた形跡を欠く「前期旧石器遺跡」が、どこかおかしいと、多くの考古学者が思わなかったのだろうか。

 一つの可能性として、全く科学的とはいえない説明で自分自身を納得させていたのかもしれない。ある研究者(複数)曰く「(だって実際に)そうなっているんだから...」。それ以上、自らの見たものを「問う」ことはなかった。またある者(複数)は、遺物は単一の地質学的イベントの堆積層でシール(密閉)されたのだと解釈した。しかし、報告書を読む限り、そのような事象は記録されていなかった。またある研究者は、モグラも樹木も、その時代その地域には存在しなかったのだと説明していた。(例えば)65万年もの間、大いなる気候変動が幾度もあったはずなのに。いわんや、彼は自説の証拠となるべきものを全く持ち合わせていなかった。事実、彼の発掘した遺跡には、彼の主張と矛盾する証拠なら、あったのである。またある者(複数)は、多少の上下移動(5〜10cm程度)なら存在していると指摘した。しかし、それでは予測される値より少なすぎる。少なくとも後期旧石器や縄文時代の遺跡と比較する限り。

 彼らは「上下移動現象のない前期旧石器遺跡」という存在に、何も悩んでいなかったようである。あるいは、ひょっとしたら、後期旧石器時代以降の全ての遺跡で、遺物の上下移動現象が(様々な程度に)見られることを、知らなかったのかもしれない。彼らが、その知識を欠いていた可能性はある。多くの考古学者は「土」のことをあまり理解していないようだし、遺物が土中で移動することを知らない可能性もある。  日本の考古学者が、なぜ、発掘調査の基本条件となる「土」をめぐる知識が乏しいのか、私にはよく分らない。考古学者達が掘り出す迄に、地下の遺物に何が起こっていたか、多くの者は理解していない節がある。そうした知識の欠如のゆえに、20世紀最大の考古学的でっちあげ事件が日本で起こった可能性は、大であると言わざるをえない。

 そこで一つ真剣に問われることがある。(前期旧石器を除く)日本の考古学的「事実」と解釈の多くが、20年にもわたる大規模な前期旧石器遺跡捏造を許したという「現実」に負けてしまうのではないかと。そうではないことを祈りたいが、実際のところ、日本の過去に関する膨大な「ナンセンス」が、学術雑誌において、妥当な科学的事実ないし解釈として発表されている。それらの「ナンセンス」は、しばしばニュースで取り上げられるし、多くの教科書にも載っている。

 考古学で捏造問題が発生するかもしれないとしたら、この同じ国の、他の学術分野の仕事のクオリティについて、どう考えるべきだろうか。

 日本で起こった前期旧石器捏造は、日本の学術分野の中で、孤立した分野の、ほんの一角で生じた事件ではない。前期旧石器研究は、日本の学術研究全体の中で(社会全体の中でも)、しかるべき脈絡と位置を占めていた。捏造問題は、日本の考古学のクオリティを、世界の他の国がどう見るかという、深刻な問題につながるかもしれない。同様に、日本の学術研究全体のクオリティに対しても、冷ややかな目が注がれるかもしれない。また、日本の教育と社会に関する洞察を与えてくれるかもしれない。

2.土と捏造−More Detailed Stories of Dirt and the Hoax

座散乱木遺跡−The Zazaragi Site:

 宮城県北部の座散乱木遺跡は、3万〜3万5千年前以前に日本列島に人類がいたかどうかという論争を終わらせたことで一般に知られている(注1)。縄文及び後期旧石器の文化層は、1976年及び1979年に調査された(石器文化談話会 1978、1981)。

 1980年、遺跡脇の道路切り通しで「遺物」が採取された。3万5千年前以前と考えられていた層準である(岡村・鎌田 1980、頁4)。1981年9月28日〜10月16日に行われた第3次調査は、それらの古い層準が調査対象となった(石器文化談話会 1983)。「遺物」は、13層及び15層の表面で発見された。4万1千〜4万3千年前と考えられた層準である(市川 1983、頁96。小清水 1983 頁99)。

 遺跡の地質学的レポート(庄司・山田・高橋 1983)(注4)は、調査区の堆積層の記述なのか、遺跡の近くの切り通しの記述なのか、よく分らない。ただ、その主張によれば、前期旧石器相当層(12〜15層、安沢テフラ下層)は風化パミス、つまり風で流されて堆積した火山灰である。それゆえ、これらの層は人類の居住に適した環境であったと主張している(庄司・山田・高橋 1983 頁91〜92)。このレポートはさらに、前期旧石器相当層の風化は、これらの堆積層が比較的温暖な時期の所産であるとしている(庄司・山田・高橋 1983 頁85、93)。

 しかし、1980年代初頭に、文部省科研費を受けて、同じ堆積層に対して行われた調査プロジェクトの予備的報告(1983)によれば、12〜15層は単一の火砕流の堆積物である。それは、白く熱い火山噴出物であり、遺物を包含するような層ではない(報告書は今手元で確認できないが)。この結論は、1984年の最終報告書で明示されている(町田編 1984, 906頁)。

 1984年までに、上記プロジェクトの調査チームの一人だった小田静夫は、学術的な大会や新聞を通して、座散乱木遺跡の下層は火砕流であり、遺物を包含するはずがない、と発言するようになった(参照:小田 2001 頁13)。1985年、彼は雑誌インタビューで、この見解を繰り返し述べた(小田 1985 頁28)。1986年、小田と私は、ピアレビュー(査読)されている学術雑誌に、同様の主旨の投稿を行った。即ち「13層は、いわば撹乱されていない火砕流(安沢下層)である。...地質学的データは、座散乱木15層が火砕流の一部分であることを示唆している。」(小田・キーリ 1986 頁333)。この1986レポートは、当初は大変な騒ぎを巻き起こしたが、効果は持続しなかった。

 1988年、第四紀学会は年次大会を仙台で開催した。8月19日、地質学者と考古学者の巡検ツアーが座散乱木遺跡を訪れた。私も参加していたのだが、地質学者の早田勉氏は、なぜ、座散乱木12層から15層が、単一イベントの火砕流と判断できるかを説明してくれた。高名な地質学者達は、早田氏の説明に完全に同意していた。しかし、座散乱木遺跡の発掘者達は、地質学者の見解には同意できないと(ぶっきらぼうに)述べていた。

 私は高名な地質学者の一人に、地質学者はこの事実をもっと強調すべきだと言ってみた。座散乱木の前期旧石器相当層は単一の火砕流であり、遺物を包含しえないと。彼は、これは考古学上の問題だと答えた。地質学上の問題ではないというのである。

 仙台で二日間にわたった第四紀学会の大会で、8月21日、早田氏は彼の見解…座散乱木の下層は単一の火砕流である…を繰り返していた(早田 1988)。関係の考古学者達はそこに居たし、聴いていた。しかし誰も、彼らの(ちなみに全て男性である)座散乱木の前期旧石器に関する考えを改めなかった。早田氏は、彼の解釈を第四紀学会の会報でも活字にした(早田 1989、頁269、頁279〜280、『第四紀研究』)。旧石器研究者なら、誰もが読んでいるべき学術雑誌である。しかしこのレポートもまた、考古学者達の思考に影響を与えることはなかった。捏造は、さらに12年続くこととなった。

 1997年7月28日、座散乱木遺跡は国指定史跡となった(文化庁談 2001年11月29日)。

中山谷遺跡における垂直変位− Vertical Displacement and the Nakazanya Site:

 ヒトが活動し、当時の地表面に遺物を残す。それ以来数百年、数千年の間に、土中で遺物の位置が上下にずれる現象を、垂直変位と呼ぶことができる。上述したように、様々な自然の作用で、時間の経過と共に(全てではないが)遺物は地面に埋もれていく。堆積の進行と共に、同じような自然の作用が、遺物を上昇させ、新しい堆積層の中に押し上げられることもある。(こうした作用は、遺物を水平方向にも移動させるはずだが、その点については十分に後付けることができない)

 遺跡地点に居た過去のヒト集団の生活を理解するためには、遺物の垂直変位を研究する必要がある。遺跡の占地が複数回に及んでいる場合(それが普通だが)、垂直変位は、異なるヒト集団の遺物を混ぜこぜにしてしまう。つまり、垂直変位を理解しない限り、混ざってしまった遺物を仕分けしない限り、ありもしない集団を研究することになってしまう。混ざってしまった遺物を元に語る先史(歴史)は、科学的事実(もどき)である以前に、サイエンスフィクションになってしまう。

 垂直変位は、事実上日本列島全ての後期旧石器時代遺跡(縄文時代以降も)で見ることができる(五十嵐 2001)。この情報は、1970年代末には、当たり前のように報告書に記述されるようになっていた。だから旧石器研究者にとっては常識だったはずだ。

 1970年代末、日本列島の後期旧石器に関する情報の殆どは、埼玉・東京の武蔵野台地、神奈川の相模野台地の大規模調査から供給されるようになった(小田・キーリ 1978)。これらの報告書と発掘調査は、以後の旧石器研究を進める上で、無視できない存在となった。殆どの報告書に、発掘で明らかになった遺物の垂直変位が明白に記録されていた。垂直変位そのものを研究したレポートもいくつか存在する。

 そうした研究報告の一つが、中山谷遺跡(東京小金井市)の報告書に載っている(キダ−・小田 1975、付図1)。

 27個のメノウ片が接合し、原石が復元された。これらの27剥片は地層中で1m10cm上下して出土した。しかも、他の2文化層にまたがり、地質学的層序では5層にまたがっていた。しかし、地質学的層序に全く乱れは無かった。他の接合資料での垂直変位は、20cmから60cm、地質学的層序では2層〜4層といったところだった。

 多くの後期旧石器遺跡で同様の遺物垂直変位の調査研究が行われた。特に武蔵野台地・相模野台地での研究例は、1970年代末には多く出版され、よく知られるようになった。当時、真っ当な旧石器研究者なら誰でも、後期旧石器遺跡に見られる遺物垂直変位は、ごく一般的な現象であることを知っていたはずだ。従って、1980年代初頭に宮城県内の「(新たな)前期旧石器」を調査・報告していた研究者達は、それらの遺跡で垂直変位が見られないことを警戒すべきだった。新発見資料を受容する前に、十分に科学的に有効な説明の必要性に気づくべきだった。しかしながら彼らは、宮城県で発見された前期旧石器を、垂直変位の欠如を疑うことなく、受容していった。垂直変位の問題を真っ向から指摘した小田(1985)、小田・キーリ(1986)の強烈な批判があったにも関わらず。

再び座散乱木遺跡− The Zazaragi Site Again:

 座散乱木遺跡の縄文・後期旧石器層は、1976年及び1979年に調査された(石器文化談話会 1978、1981)。こうした初期の報告書にも、その後20年以上の「捏造」を可能にした、土に関する理解の欠如を見てとることができる。

1986年の批判(小田・キーリ 1986、頁342):

包含層記述の信頼性(矛盾):遺物の出土位置に関する情報には深刻な問題があった。「遺物」はプライマリーな状況で出土したと報告されていた。先史時代のヒトが残していったまま、木の根やモグラなどの自然の作用も受けなかったと。1986年、岡村氏と鎌田氏は、私との私的会話で、遺物垂直変位の痕跡は存在しないと断言していた。しかしながら、地質学的データ、遺物データ、年代測定データの全てが、そこにかなりの垂直変位が起こっていたことを物語っていた。

(1)全ての報告書の断面図が、木の根、くぼみ、小動物の掘った穴、その他最近の撹乱が、5層から8層分も貫いて存在することを示していた。それらは、遺物の状況(context)に十分に影響を与えうるものである。事実、報告書には、古い木の根っこの中の、乱れた層相から遺物が出土したことや(例えば、石器文化談話会 1978 頁10〜13、佐藤・斎野 1982 頁29〜30)、一群の遺物が数層にまたがって分散出土したことが記載されている(例えば、石器文化談話会 1978 頁16)。

続けて次のように指摘した(小田・キーリ 1896 頁345):

(4)原位置をはずれて出土した中でも最も深刻な例としては、座散乱木8層(石器文化談話会 1981 頁17)から出土したドリル(石錐)、座散乱木6c層(石器文化談話会 1981 頁56〜61)から出土した縄文が施文された土器、同じく座散乱木6層(石器文化談話会 1978 頁16)から出土した動物形土製品である。

(a)座散乱木8層のドリルは、明らかに縄文時代のものである(注5)…おそらく縄文中期以降と思われる。座散乱木の研究者達は「旧石器時代にしては、まったく妙な遺物だ」と確かに述べていたし(石器文化談話会 1981 頁17)、縄文時代の石錐に似ていることも認めていた(石器文化談話会 1981 頁40)。しかし、彼らはその遺物を8層からはずそうとはしなかった上、堆積層に混交がある可能性を認めてすらいた。

(b)座散乱木の研究者達は、座散乱木6c層出土の土器片を、縄文時代早期の後半と同じものだと考えていた。早期後半なら座散乱木1層〜3層では豊富に見られる(石器文化談話会 1981 頁58)。しかし、縄文時代晩期のものだとは考えていなかった(石器文化談話会 1981 頁58、61)。さらに彼らの(現時点まで変わらない)主張では、隆起線文土器より古い時期だというのである(石器文化談話会 1981 頁61、鎌田 1984 頁74)。それだと、日本列島最古の土器より古いことになる。

(c)座散乱木の「動物形土製品(馬型土偶)」(実際は、ただの塊にしか見えない)は8層の浅い土坑から出土したという。しかし6層に所属するものとされている。土坑の覆土が上層のものに似ていたということだ(石器文化談話会 1976 頁16)。この土坑は、自然の撹乱のように思われる。しかし座散乱木の研究者達は、その物体を「世界で2番目に古い動物形土製品」だと、積極的に評価していた(石器文化談話会 1976 頁16)。

 座散乱木を発掘し、報告した研究者達は、最初から、「土」を理解していなかったのは明らかである。以上の3点の遺物(石錐、土器片、「動物形土製品」)は、型式学的には縄文時代のものであり、後期旧石器時代の層に属することはあり得ない。そこにそれらが存在したのなら、研究者達は「土」を疑うべきだった。考古学者なら誰でも持っているべき「土」の基本的理解に従えば、それらの遺物は自然の作用で垂直に移動した様を呈していたことになる。それは、遺跡では普通にあることだ。しかし、後期旧石器時代の層から、それらの縄文時代遺物は発見された。それがどうして、縄文時代遺物が、後期旧石器時代に存在したことになるのだろう。

 彼らは(縄文や後期旧石器層に見られる)遺物の垂直変位を認識していなかった。だからこそ、前期旧石器層での垂直変位の欠如を、何もおかしいとは思わなかったのである。しかし、彼らだけのことではない。1985年の小田の批判、1986年の小田と私の批判は、当時は広く知られていた。しかし何人かの指導的な考古学者は、これらの批判を前にしても、それらの遺物を受容することに、何の疑いも抱いていなかった(例えば、小林達雄 1986、1988)。1988年、小林氏は「ある人達が(名をあげていないし、引用もない)が、それらの発見物は遺物ではないと批判している(小林 1988 頁23)」と書いている。しかし、その指摘は、我々の批判のマイナーな部分でしかないし、批判としては一番弱いものだったろう(小田・キーリ 1986)。小林達雄氏は日本の最も指導的な考古学者数人の内の一人である。ちなみに、日本にはおよそ6000人の研究者がいるとされる。

3.結語−Conclusion:

 ここで指摘した「土」と前期旧石器捏造の問題は、ほんの一部を示したにすぎない。捏造問題の全貌をめぐって、土の問題は既に矮小化されてしまったが、我々は話の終わりには全然近づいていない。更なる情報は、インターネットで(http://www.t-net.ne.jp/~keally/Hoax/hoax.html)。


注1: 常識的な情報なので引用省略。

注2:1984年から1987年の間、座散乱木と馬場壇Aは、日本の歴史の概説や事典に登場するようになった(岡村 2001 頁46)。1986年、日本の指導的考古学者の一人である小林達雄氏は、それらの資料を「確定した事実」と出版物の中で位置付けた。

注3:1983年から2000年の『月刊文化財発掘出土情報』を参照。例えば、1983年には以下のような記事が載っている:

注4:これらの著者は土壌学者である(地質学者ではない)。

注5:宮城県内の12ヶ所の遺跡報告書の図で示された石錐の編年に基づいている。

参考文献略(原文参照)


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