捏造問題は非常に複雑で多岐にわたっており、膨大な事実関係や、学史を踏まえないと、理解が難しいところがあります。少なくとも、本稿は本フォルダ内のオリジナルコンテンツと合わせて、お読み下さい。なお検証活動が進められた結果、2003年5月以降、日本考古学協会の対応は新局面を迎えたようです。[03.5.27補記]

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前期旧石器QandA

Q1.なぜ、このように大規模な捏造が、可能だったのでしょう?
A1.物理的に可能であったことは、今回の発覚で証明されてしまいました。ただ、埋めた本人が掘り出すか、学生/作業員に掘り出させる、といった手順だったのが、上手くいった要因だったようです。かつて、60カ所以上にのぼる表採/断面採取の実績を踏まえて、本格的な発掘調査に移行していますので、何より、捏造者を囲む空気が、捏造者にとって、あらかじめ有利だったと見るべきです。(人の出入りを含めて)調査のイニシアティブがプロフェッショナルな主任調査員に握られている、普通の現場では、考えにくいことです。
また、捏造の背景を考えて下さい。前期旧石器問題は賛否両論、根が深いのです。宮城県江合川流域を本拠地とする「新たな前期旧石器」推進派も、当初から批判にさらされていました。しかしながら、批判と論争は、生産的なものとはならなかったのです。捏造は、客観的にみれば、「推進派」の立場を有利にする効果がありました。少なくとも、彼はそれを知っていました。

Q2.捏造を防止する対策はあるのでしょうか?
A2.確信犯の行ないを、善意の研究者が確実に防止する手段はありません。マジック(手品)に、普通の人間がかなうはずはありません。いかに技術的手段を講じようとも、実際の効果はほとんど無く、ひたすら手間(=費用)が嵩み、しかも発掘現場が荒廃していくだけでしょう。ただ、一般に出土状況の確認は、調査の最重要事項です。土の状態が観察しにくい状態で(例えば雨の時)に、微妙な発掘は行なわないといったことは、必要な常識かもしれません。撹乱があるかどうか、土が生きているかどうか(後世の撹乱があるかどうかですが)を見分けるのは、調査のイロハです。貴重な遺物/遺構が出土した時に、いきなり掘り上げるという事も、普通はありえないことです(出土状況を確認した後で、盗難を怖れて、その日の内に上げることはしますが)。現場に関する限り、これまでも常識であったような調査手順を、これからも遵守していくだけです。
普通は捏造自体が技術的に難しいですし、(別の遺跡で表面採集してくるにしても)準備にも手間がかかります。また、型式編年が確立していれば、うかつな捏造はすぐ見破られてしまいます。「前期旧石器」に関する限り、そういう前提は無かったわけですが(明らかにおかしい石器も含まれていたのですが...)。今となっては、「新たな前期旧石器」推進派が、外部からの批判や警告に耳を傾けず、自らの足下を振り返らなかったことが悔やまれます。あるいは、不当な手段を行使することを、思いとどまらせることができなかった環境こそ、問題なのかもしれません。結局、ちゃんとした研究態度こそ、捏造の防止策なのです。

Q3.全てが捏造だったのでしょうか?
A3.手品のネタが全て判明していない以上、何ともいえません。今の段階では、関係した全ての遺跡が怪しいとしかいいようがありません。当事者が認めない限り、客観的な証明は非常に困難でしょう。ただ、これまでの出土の様子に関する当人の発言や状況的な情報を総合すると、何というか、一貫性があるようです。層序の矛盾などを超越して出土状況に現れた、ある種の一貫性を、あぶりだすことが出来れば、あるいは何かの証明になるのかもしれません。
出土した「石器」資料を詳しく観察し、技術的に分析することは理論的には可能ですが、見解には個人差が大きいと予想されます。記述は可能ですが、確定的な言及は難しいのです(出来ないという意味ではありません)。ただ実際には、表採資料特有の特徴が見られる資料が、かなり存在するようですので、それで大半の決着はつくと予想されます。とりあえず、状況証拠的に出土状況が不透明になってしまった全ての資料は、「前期旧石器」研究に関する有効な資料として使えなくなってしまったことを認めるべきです。

Q4.なぜ不確かな学説が教科書に載ってしまったのでしょう。
A4.一部の執筆者は、上高森遺跡の掲載を(話題であるにもにも関わらず、慎重にも)見送っていたそうです。正式の報告書も出ていないような遺跡の資料が、大胆な学説が、学界で広く検証されることなく教科書に載ってしまったのは、まさに不可解です。教科書執筆者が、繰り返される報道を見て、掲載するに値すると考えたのでしょうが、それを咎めなかった検定にも疑問があります。世間的常識(と思われるもの)が、教科書執筆者と検定者の双方にとって、基準になっていたことが証明されてしまったわけです。それにしても、大量の報道や雑誌特集に加え、文化庁主催の展覧会でも展示されていたのです。それ以上、事情を深読みする必要はないと思われます。一番問題があったとすれば、それは責任上、検定過程ではないでしょうか。
学説を、学問的論争ではなく、世論を味方につけることで何となく認めさせるという「新たな前期旧石器」推進派の戦略は、実に恐るべきものでした。その戦略が可能であったこと自体が、問題の根本かもしれません。

Q5.考古学会(≠考古学界)は、なぜ検証を怠っていたのですか?
A5.この場合は、日本考古学協会が責任を問われているようですが、それは酷というものです(そもそも民主的社会において、いかなる学協会であれ、ひとつの学問を仕切っている団体などありえないのですが)。研究者や学説は、本来独立しており、自由なはずです。考古学協会のシンポジウム等で、これまで「新たな前期旧石器」推進派による発表が何度もあったのは事実ですが、発表は自由です。批判的質問があったにしても、質議応答の範囲のことです。そもそも、異論が存在すること自体、近代社会では健全なことです。仮に故意の不正な手段があったとしたら、それは当然糾弾されるべきでしょうが、それも「発覚」するまでは、民主的プロセスの中で丁重に扱われるものです。そして実際、資料出土の報告は、絶大な効果がありました。
確かに一部の旧石器研究者にとっては、問題は深刻でしょう。学説が定着していたかどうかはともかく、過去20年以上どういう先入観でいたかは、問われるところです。いずれにせよ、(一般論ですが)検証のプロセスがあるとしても、正式な報告書が出版され、学術雑誌で批判と応答が繰り返されることによって、徐々に学説の検証は進むものでしょう。劇的な展開は、例外的なことと思われます。学問的時間と、ジャーナリズムの時間は異なるのです。
[03.6.8追記]考古学協会は捏造発覚後、検証のための特別委員会を設置して取組んだわけですが、前期旧石器問題に関する特別委員会は1980年代中頃に設置されるべきでした。では、なぜ当時それが出来なかったのか、別稿で論じます。

Q6.批判があったにせよ、なぜ活かされなかったか?
A6.昔から考古の世界は論争に事欠かないものです。否定論の多い説が流布されている例は、多々あります。また定説と化していることでも、密かに疑問が呈されていることは、多々あるものです。
そもそも批判があった場合、原則として、批判された側からのきちんとした反論を以て、初めて議論が進むのではないでしょうか。単に議論が噛み合っていないことを確認し、矛盾点について先送りするだけでは、だめなのです。いわんや「新たな前期旧石器」推進派は、時間稼ぎが巧妙でした。明らかに批判派の動きを牽制するために(今となっては疑惑となってしまった多くの)「新発見」を行ない、しかも正式の報告は先送りされていました。その間に「新発見」が宣伝され、受容され、一人歩きする環境が整っていきました。
また、遺物が技術(文化)に属するという考え方と、層位に属するという考え方の、微妙な違いもあります。本質的には、遺物は文化に属しているはずですが、評価が定まっていない資料に関して後者が適用されることがあります。後者は、あくまで暫定的な適用である限りにおいて有効なはずですが、資料に関する正面からの論争を回避するための方便に陥る危険性があります。
今回あらわになった事態は、ある種の「学問の病理現象」だったというべきでしょう。この際、いわゆる疑似科学、病理的な科学、あるいは研究上の過誤と欺瞞に関する科学史と研究者倫理を、勉強し直すべきではないでしょうか。

Q7.考古学は、確実な資料だけに依拠して研究するべきではないのか?
A7.一次資料の資料性を保証するのは、観察者という人間と報告書です(フィールドワークに依拠する学問の全てがそうであるように)。写真などの記録は、資料の確実性という意味では、本来補助資料としての有効性しか持ち合わせておりません。
(一般論ですが)考古学では、個々の「資料」だけとらえても(はじめの内は)なかなか結論を出しにくいものです。これが、同様の資料が揃ってくると、そこに一定の結論を見い出すことができるようになります。「資料群」(資料のネットワーク)をして語らしめるわけです。自然科学的な意味でいえば、個々の資料には不確定性があり、確率論の領域のようです。推論と仮説を繰り返し、合理的な解釈を見い出していく以外に、考古学の存立はありえないのです。その意味で、考古学では「仮説確証バイアス」がかかりやすくなる傾向がある、といえるかもしれません。
確かに、歴史的あるいは自然的な文脈(コンテキスト)を考えず、視野の狭い考察が、踏み外した結論を示唆する例は、考古学の世界では多いかもしれません。先走った「解釈」は、考古学者にとって永遠の魅惑です。しかも、地道で営々とした研究態度ですら、必ずしも正しい道を歩いているとは限らないのです。だからこそ、日本の考古学者は、パラダイムの転換を要請されているのかもしれません。
ちなみに年代測定や各種の分析にも、それ自体で確定性を主張できる程の内実はないはずです。サンプル精度、試料の前処理、測定精度、比較資料の選択等、色々な要因が絡んできます。出てくるのは数値ですが、測定者のプロパーな立場でも結論は出しにくいものですし、まして考古の文脈(コンテキスト)で解釈しようとすれば、考古学プロパー同様の不確定性がつきまとうはずです。

Q8.報道における反省点があるのではないか?
A8.一般に、地上の建造物のような文化財なら目にすることができるのですが、埋蔵文化財では説得力が弱いものです。多くの文化財は歴然たる美的価値や史的価値で評価されるものでしょうが、埋蔵文化財の多くは考古学によってのみ立証可能な史的価値に依存しています。やはりマスコミをメディアとする以外に、埋蔵文化財の価値を知らせることは難しいでしょう。また、出土資料の説明にあたって、担当調査員の意見が反映されるのは、当然のことでしょうし、記事になる時に記者のバイアスがかかるのも、やむを得ないかもしれません。ただ日本では、ジャーナリズムの観点からいって、記者の側にも、発表者の側にも訓練が足りないようです。過去の記事に対して健忘症であったり、話題を揺する(=面白くする)方向に、筆致をもっていくのは、新聞などの悪い癖として知られています(ここでも確証バイアスに似た心理が働いています)。地味で正直な発言だけで適確な記事が構成されるようになれば、日本のジャーナリズムも大人になったということではないでしょうか。

Q9.日本の旧石器は全て否定されたのですか?
A9.後期旧石器時代は、厳然として存在しています。関東ローム層の最上部にあたる立川ローム層には、第X層から突然後期旧石器時代がブレイクするのです(それ以下には見当たらないのです)。始まりの年代(暦年代)は、概ね35,000〜40,000年前と思われます(年代測定の精度が、まだそれほど高くないのです)。それ以降の変遷は、縄文時代に到るまで細かく追うことができます。ちなみに野尻湖の立が鼻遺跡に関わる放射性炭素年代は約41,000〜46,000年前ですが、時期的には微妙なところです。
日本における前期旧石器(いわゆる中期旧石器も含む)の組成は、当然根底から再検討が行なわれるでしょう。「新たな前期旧石器」推進派と関わりのない所に、彼等の提出資料とは異質な石器群の存在が知られていますが、注意しておきたいのは、石器認定の論争が続いていたり(偽石器論)、包含層の状態が具合悪かったり(例えば、礫層ないし基盤岩の直上)、僅かながら縄文草創期や早期の遺物が混在する傾向があることです(混在を以て全否定はできないが、肯定も難しい)。今の段階でいえることは、(本来そうであったように)検討中の状態に戻るということではないでしょうか。日本列島において後期旧石器時代をさかのぼる時代は存在していなかった、という作業仮説(杉原荘介 1967)は、今でも有効だったのです。

Q10.前期旧石器時代とは、どんな時代なの?
A10.(日本列島においては)後期旧石器時代以前を一括して指す、作業仮説です。旧世界では古い地質用語の洪積世層の区分に由来する下部(=前期)、上部(=後期)という用語が使われています。「新たな前期旧石器」派の一部から、中期旧石器時代と前期旧石器時代に分ける考え方が提出されていましたが、その種の区分けは中国でも否定意見が出ています(参考資料)。世界的に見れば、下部(前期)旧石器時代は、原人(ホモ・エレクトス)と旧人(古代型ホモ・サピエンス…ネアンデルタールはヨーロッパ〜西アジアに分布した亜種)の時代です。逆にいうと、上部(後期)旧石器時代は新人(現代型ホモ・サピエンス)がブレイクした時代です。
[※以下は現在有力な説に準拠しています]
ちなみに、原人・旧人・新人は、ある時期、地球上に別の種(亜種)として共存していました。共通祖先から分れたヒト属の兄弟でしたが、原人も旧人も先に絶滅してしまいました。原人と旧人の関係は不明です(結論を出すには化石資料が不足しています)。
原人はヒト属ですが、強烈な筋力と咀嚼力を持ち、我々から見れば、直立歩行する類人猿に過ぎないかもしれません。狩猟や火の使用など、北京人(北京原人)に関する伝説の大半は否定されつつあります(洞窟内の灰層は、げっ歯類の糞の堆積の自然発火かもしれない)。小形動物と大形動物は別に考えるべきですが(小形動物の捕獲は狩猟ではなく採集に近い)、少なくとも組織的かつ大規模な狩猟は新人の十八番でしょう。旧人は見かけも我々に似ており、もう少しで人類になるところだったかもしれませんが、言語能力のポテンシャルが低かったため、革新のスピードを確保できず、新人に遅れをとったようです。重要なことは、原人も旧人も、長いこと適応してはいたけれど、停滞した文化しか持たなかったということです。その理由の大半は、言語や象徴作用の貧弱さにあると予測されます。いわゆる後期旧石器革命の本質は、言語革命だったのでしょう。その意味で、原人・旧人は「動物」の側に属しているといえます(旧人の言語能力は原人よりは進歩していたでしょうが)。
新人は皆、およそ15〜30万年前にアフリカ東部の人類共通の故地から拡散した部族の子孫です(推定時間幅が広いのは、年代推定の精度の問題です)。新人は、各地で旧人の文化と接触しつつ、旧人と血縁関係になることなく、地球上を席巻していきました。旧世界の各地で目立つようになるのは、4〜5万年前頃のようです(アフリカでは、10万年を遡って石刃…後期旧石器の特徴…を保有した文化が知られています)。

Q11.日本は、昔から文化が栄えたところだったのでしょうか?
A11.まず確認しておきたいのは、(広く認められている説に従えば、概ね)「日本」は7世紀末以降の国号だということです。「倭」も紀元前後からです(倭は、大陸からみた表現ですが)。それ以前の時代は、地理名称として「日本列島」、ないし「本州島」や「北海道島」のように表現した方がいいでしょう。無論、日本列島の文化の連続性はあります。東西の地域性は後期旧石器時代から存在しています。縄文文化は、成立当初はともかく、縄文前期以降になりますと、日本列島としての特色がはっきりしてきます。北海道島や沖縄島での様相もはっきりしています。外来の文化と、どのように混交したかも、はっきり分ります(オホーツク文化やトビニタイ文化など)。
日本列島は、(1)モンスーン地帯で雨量が多く、(2)火山が多いので、火山灰性土壌に含まれる養分が豊富、(3)中緯度地帯で気候が中庸、といった特徴があります。大陸の厳しい自然条件とは異なり、先史時代から生態的条件にめぐまれていました。後期旧石器時代の石器も出来がいいですし、列島内部での文化発展のポテンシャルは意外と高かったようです。後期旧石器時代初頭に多い局部磨製石斧(斧形石器)は、世界的に見ても質量共にすごいものです(参考資料)。

Q12.日本列島にヒトが来たのは、一体いつだったのでしょう?
A12.象(長鼻類)の化石の出土状況と、日本海深海底堆積物の研究から、トウヨウゾウの移入に関連して63万年前、ナウマンゾウの移入に関連して43万年前に、日本列島と大陸間に陸橋の形成があったという研究があります(それ以前の出来事はあまり関係ないでしょう)。無論、最終氷期の最寒冷期にも事実上陸橋(氷原を含め)が形成されていたことは確かです。陸橋の形成時期には各種哺乳類と共にヒト属も来ていた可能性があります。ただしこれは潜在的な条件であって、来たことの証明にはなりません。むしろ40,000〜35,000年前に見られる哺乳類移入のタイミングこそ、日本列島の後期旧石器時代の開始と時を同じくすることに、注目すべきでしょう。
最も重要なのはヒト化石ですが、今のところ確かなのは、沖縄県や静岡県に見られる新人相当の化石資料(概ね32,000〜15,000年、縄文人とはやや異なる一群の資料)だけです。
なお、海の存在が、必ずしもヒト属の移動を妨げるものではありません。原人でも海(海峡)を越えた可能性があるようですが、新人になると、何らかの渡航具すら作っていたことが確実です。例えば、サフルランド(オーストラリア大陸+ニューギニア島)への最初の移住はおよそ5万年前です。伊豆諸島の神津島は、後期旧石器時代から海の彼方でしたが、ヒトは頻繁に往来しています。海洋適応は、新人にとって重要なテーマです。

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