疑念への回答: 00.3.12…00.3.15

電子版だと、コンピュータと電気が無いと見られない...

●必要にして充分なコンピュータの価格が、高品位な17インチディスプレイ込みで10万円を切っている現在、日本人の所得水準からみてコンピュータ導入が過重な負担とは思えない。停電は、あるとしても一時的なものである。出先での配付資料は、紙でよい(将来は出先でも携帯マシンでカバーできるとは思うが...)。

 コンピュータも電気も、長期的に供給されなくなる状況は、少なくとも先進国では考えにくい。そこまで心配する必要は無いと思うが、それでもCDは物理的に安定した媒体だし、全国に分散配付されていれば、どれかが遺存する可能性は高くなる。実際には、印刷物は必ずバックアップとして作られるだろう。電子メディアは、より大衆的なサービスを提供する。

●よく考えてみると(ほとんどの場合)電気が無いと、紙に印刷したものも読めない。つまり、本を読む時は、必ずといっていい程、人工照明を使っているではないか。

やっぱり、報告書のペーパーレス化は容認できない...

●そもそも、コンピュータの普及率とリテラシーが、ほぼ100%に達するまで、紙と電子版の平行作業が続くのは当然である。今は添付の時代である。

●今でも報告書は300部か、せいぜい500部しか発行していない。それを越えると、ペーパーレスどころか、末端の研究者にとっては情報レスになってしまう。その状況を改善するための、電子化であり、ネットワーク化である。

 全国各地で、どんな報告書が発行されており、どんな内容で、どんな遺物が掲載されているのか、従来型の印刷技術依存(パンフレット、雑誌、広告等含めて)では、情報流通の風通しが悪すぎる。Webの活用は、研究者にとってこそ有効である。

●報告書のペーパーレス問題は、今は論議の対象とすべき時ではない。報告書の電子化が常識となり、学協会・研究会の電子ジャーナル化が普及し、各機関の公式サイトが充分に整備されてから、ようやく落着いた議論ができるようになる。学習の時間が必要である。

PDFやHTMLも長い目で見ればフォーマットとして一時的なものではないのか。そうしたものに文化の継承を託してよいものだろうか

●HTML、SGML、XMLは、いずれも電子文書として素性のよいフォーマットである。そもそも、環境や時代を越えて利用されうる電子文書の規格を求めて、国際的にオープンに相談して決められている規格である。

 PDFもアドビという企業が作っているものとはいえ、規格は公開されており、ロイヤルティは発生しない。既に確立したスタンダードであるポストスクリプトをベースとしており、この種のポータブル電子文書規格として業界標準になっている。Webにおける公文書も、HTMLとPDFの両方が採用されている。ここまで世界中で認められている規格が、今後、放棄されるということは考えにくい。

●百歩譲っても、テキストやJPEGといった規格はどうなのだろう。ML系文書の中味は純粋なテキストである。テキストやJPEGが、将来使われ続けるかどうか、どこに疑問の余地があるだろうか。JPEGが次世代化する可能性はあるが、処理系の下位互換性は確保されるはずである。つまり電子化のための基礎的な規格は、既に確立している。それらは、文化を託するに足る存在である。

 メディアとしての利用が一旦始まったら、そこで利用されているフォーマットの変更は非常に困難なものになる。本当にスタンダードとなった規格は、常に下位互換性は保たれる。文字コードがいい例である。

CDすら長い目で見ればフォーマットとして一時的なものである。次世代のメディアが普及すれば、そちらに移行することになる。そのようなものに依存してよいものだろうか

●配付メディアとして、かつバックアップメディアとして、CDは優れた技術である。国会図書館での納本の対象にもなるし、CD-Rは公文書としても認められる。CDのフォーマットとしての寿命はかなり長いと予想される。DVDや、その次の短波長レーザー利用のディスクが登場しても、CDとの互換性は確保される。DVDの規格が、外形上はCDと同一であるのは、全世界に普及したCDの規格を今後とも守っていこうという意志の表れである。CDと互換性を保たないフォーマットは、採用されない。

 フラッシュメモリは、一時的なデータの貯蔵に使われるもので、コスト的にも技術的にも、配付や保存には向かない。ROMはゲームマシンで使われていたが、現実にはCDに移行しつつある。一般に記憶装置は3大別できる。

 いずれの技術も発展する可能性はあるが、大容量への発展性、コストパフォーマンス、大量生産性、及び安定性の点で、総合的に最も優れているのは光系の技術である。

●物理的な配付メディアは、実はそれほど問題ではない。その時点で最も優れたフォーマットを利用すればよい。大事なことは、発行機関の側でデータを保存しておくことである。音楽業界でいえば、マスターテープである。データは、喩えでいえば蒸気機関車のように動態保存すべきなのである。データを放置すべきではない。

実際のところ、メディアは急速にオンライン化する。2005年頃(遅くとも2010年頃)には、物理的な配付メディアは不要になるのではなかろうか。その場合、個人的な文献のコレクションという概念が消えてしまうことになる。コレクションは、発行機関のサーバに置かれたままでよく、個人は必要な時にオンラインで閲覧すればよい。

 本格的かつ全面的なWeb対応の着手と研究を、一刻も早く開始すべきである。

現時点では、やはり中性紙に印刷したものが最高の保存メディアとして認められる...

●紙と印刷技術に依存する方式が、色々な意味で限界に達しているというのが、電子化の出発点である。紙は、何より集積した時に、重いことに気付く。紙1枚や2枚では気付かないかもしれないが、文献を集めていくと、際限なく重くなっていく。体制を整えて紙に依存することは可能だが、デジタルと比較すれば、コストがかかり過ぎる。

 印刷の部数は有限である。しかし、ネットワーク(Web)をメディアにすれば発行部数は無限になる。

 限られた部数の報告書は、機関に配付するだけで手一杯であり、県レベルでも、遠い地方まで配付していない例が多い。どうやって任意の報告書閲覧の希望を満たすのだろう。地元の図書館すら報告書が置いてあるとは限らない。そもそも図書館は蔵書が多すぎて、利用度の低い書物を受け入れる余裕は無いとも聞く。個人レベルでも同様で、書庫の余裕は無い。

 そもそも、大量の情報を扱うからこそ、電子化なのである。何をするにしても、大量情報ということになると、紙依存ではコストがかかりすぎる。

●中性紙すら永遠ではない。文化の媒体は、必ず朽ちる。文化は、複製を作ることによってしか、継承されない。複製のコストは、デジタルが圧倒的に優れている。

●実際のところ、部数は減るにしても、印刷物は作られ続ける。それは大事に機関の書庫にしまっておけばよい。通常利用されるのは、電子媒体になるだろう。

埋蔵文化財では、保存が一番大事なことである。電子化では不安が残る

●実物の保存と、電子化の進行は、全く別の問題である。それはさておき、情報の保存を考えても、実はデジタル化以外の選択肢はないのである(無論、デジタル化したらアナログ媒体を廃棄してよいということはない)。一般的にいって、従来のアナログ媒体は、急速にデジタル化されつつある。音楽、映画、テレビは既にそうなっており、今後他の分野にもデジタル化の波は及んでいく。行政電子化も、国レベルから強力に推進されている。アーカイブのデジタル化は切迫した問題のはずである。

電子版ならではの面白いコンテンツが無いと、単に紙を電子版に置き換えただけではだめ...

●電子化するということは、単に紙を電子版に置き換えることではない。テキストがデータ化されることによって、検索性が飛躍的に高まる。インデックスやメタデータを、自動作成することも可能になる。ドキュメントが電子化によって高機能化する、それ自体が、電子版ならではの機能である。

 ハイパーテキストを、単独の文献内で実現することは、電子化のメリットの一部でしかない。大量の電子文献が、横断的に検索できてこそ、電子化のメリットが生きてくる。

 確かに、情報のリッチ化とワイド化は、電子版ならではの利点である。それは徐々に実現されていくだろう。しかし、それは電子化の動機の本筋ではない。デジタル情報技術は、情報の作成の技術革新であると同時に、情報の蓄積と流通の技術革新である。

テクノロジーを過信するのは危険だ...

●確かに登場したばかりの「技術」には、何らかの欠陥がつきものである。しかし徐々に改善が進み、やがて問題が殆ど生じなくなっていくものである。無論、できれば、なるべく安定した技術を利用したい。

 報告書の電子版は、登場したばかりの技術であり、データの作り方にも慣れていない場合が多い。そうすると 収録データに若干の不具合が含まれている可能性も高い。またコンテンツについても、なかなか充分な品揃えができないかもしれない。筆者は「PDFとテキスト主体のHTMLの両方が必須」と考える。そうした合意が形成されるまで、まだ時間がかかると予想される。だからこそ当分の間、電子版は添付の形態をとらざるをえない。

 もっとも、巨大化する情報量を、完璧に誤謬なく維持することは、非現実的である。瑕疵を発見次第、Webで修正情報を流せばよい。これはソフトウェアでは常識である。従来の紙媒体では、そうした細かい修正は不可能である。これは、デジタル化のデメリットではなく、メリットである。 

今のままでも困らない

●特定分野の研究者であれば、長年かかって人脈を築き、関係する報告書は送ってもらえたり、少なくとも情報は直接教えてもらえる循環を構築していると思われる。それだと、現状の「紙と印刷技術依存」でも困らないのは、当然かもしれない。でも、誰もが同じことをできるだろうか。今から研究を始めようとする学生も、同じことをしなければならないのか。効率が悪すぎる気がする。情報はできる限り公開して、後から来る者に便宜を図るべきではないのか。どんな分野であれ、新たな参入障壁を、できる限り低く保つことが、先学の努めではないのか。

部数は限られていても、如何にコストがかかろうと、とにかく紙の報告書が入手できれば、それに越したことはない。電子版もいいが、どちらかといわれれば、自分は紙で読みたい...

●研究の向上を考えても、電子化とネットワーク化にはメリットがある。そこを考えてほしい。紙では、限界がある。そこを突破するには、電子化・情報化を進める以外にないのではないか。

電子化のメリットや価値はよく分るが、技術があるということと、それを使うということは別だ...

●今すぐ電子化を開始すべき最大の理由は、後から電子化しようとすると、コストが飛躍的に嵩んでいくからである。今すぐ公開しなくてもよいから、きれいなデータ状態のPDFや、テキストは、保存しておいて欲しい。後でその気になってからでは、きちんとしたPDF化は不可能に近い。頁をスキャンするしかなくなる。

どこから、どう着手してよいか分らない

●聞いて下さい。どこへでもプレゼンに行きます。


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