そんな時代もあったです
その頃の日本は、アメリカが介入した戦争で潤っていた。
後にアメリカが辛酸を舐めたヴェトナム戦争だ。
私の職場も、この戦争で潤っていたと思う。
飛行機の修理を行う会社にいた私は、戦闘機の修理や、その見積もりをやっていた。
職場を離れるその日までに、F4Bまで面倒を見ていたものだ。
この機体はE型やF型、偵察用RF型と今なお現役で空を飛んでいるのは、ちょっと詳しい方ならご存知のとおりだ。
主な仕事は修理の見積もりで、実際空母に乗り込み、故障した機体を観察し、交換を要する部品や費用、作業人数などを割り出して厚木の司令官に提出することであった。
この空母も、横須賀の港がまだ浅かった為、大型のものは停泊できなかったが、その大きさたるや、甲板でアメフトぐらいできるのではないかと思う。
(確か艦名はキティホークだったはずだ)
空母に行く度に、艦名の彫られたZippoを貰ったり、酒を貰ったり、7UPを貰ったりしたものだ。
見積もりを終え、修理となった機体は、国外の民間会社に修理を依頼する為、各種装備が取り外されていた。
先ず機密として重要だったのが、IFF(敵味方識別装置)である。
周波数その他は一切秘密だったはずだから、これは取り払われる。
続いて武装。
これについては、まぁ当然だな。
最後に射出式脱出シートだ。
これも不思議だったが、取り払われてやってきた。
つまり、戦闘機としては実際には役に立たない状態で、私の職場まで運ばれていた訳だ。
作業は厚木飛行場内の一角で、修理をしている間にパイロット達が、
「俺の飛行機は直ったか?」
とか聞きに来たりしていた。
そして修理見積もりは当然英語で書かねばならなかったし、修理するときの図面は全て英語だ。
必要に迫られて、日常会話はともかく、片言の英語は上達したものだ。
未だに忘れてない辺り、随分身に染みているのだと思う。
基地の米兵を見ていて不安だったのが、車の運転だ。
基地の片隅でドラム缶を並べ、スラロームさせ、ひっからなければOKだったのだ。
車社会アメリカならではあるが、見ていて気分が良いものではなかった覚えがある。
話は少々変わるが、軍人は給与が二週に一回やってきた。
そして給料日がやってくると私達と面識のあった軍曹は、我々をレストランに招待し、ステーキを奢ってくれた。
下っ端の苦労がわかっていたのだろう。
特に独身の私や他の友人も誘われて、食事に連れて行ってくれたが、まず驚いたのがその肉の厚さである。
ビールを2、3杯飲んで、数センチはあろう分厚いステーキを二枚も食えば、腹はパンパンである。
自分が小学校時代はまだ戦時中であり、食い物に事欠く生活を送っていたことを考えれば、なるほど、これほどの肉を食って戦ってる連中には勝てないな、と思ったものである。
修理の見積もりを書くのは何も戦闘機ばかりではなかった。
ヴェトナムの田んぼに落ちたヘリも修理の対象だったのだ。
大量の泥を含んだヘリを、現地で2分割し、私達の工場で修理し、再び戦場に送り出すのである。
こういった修理は、職人達に不評だった。
何せ泥と一緒に、蛇が入ってくるのだ。
妙に彩りが綺麗な蛇なども入っていて、作業の手が何度も止まった。
日本で見慣れたアオダイショウやヤマカカシ、マムシ等とは比べようの無い未知の蛇なのだ。
毒蛇なのかそれともただの蛇なのかわからない以上、即ひっ捕まえて放り出すなんて芸当ができる訳が無い。
しかも登場は常に突然であり、気を抜いたところで出てくるのだから始末におえない。
そんな職場で、日々私は働いていたのである。
けして楽ばかりでもなかったが、さりとて辛いばかりでもなく、この頃の人生は非常に充実していたのではないかと今になって思う。
息子は既に二人とも成人した。
長男は既に結婚もし、孫も出来た。
次男は何をする人ぞ、今日も母親に叩き起こされ、悪態をつきながら出勤していく。
私は既に定年を迎え、今は気楽な年金生活者だ。
家も母屋を建て替え、墓も先祖の墓を含めて整備した。
仕事に汗水垂らしていた頃は、いつかこんな生活ができるのだろうか?とか考えていたものだが、実際なってみると結構退屈だ。
今日も早めに帰ってきた次男が台所で夕飯を食っているが、その見ているTVで飛行機の話題をやっている。
TVを見ながら次男にそんな話をしていると、あの時代が懐かしく思い出された。


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