Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


『近きに遠けり』


 7月の暑い午後。
 この間、やっと梅雨明け宣言が出た初夏の空は快晴といっていい上機嫌な
 空だった。

 佐藤聖は大学の敷地をでてマリア様の前を高校の校舎の方へ向けて歩いて
 いた。

 今年の梅雨はいろいろ有った。
 祐巳ちゃんがまたも祥子とすれ違いをして落ち込んでしまったり、名前だ
 けしか覚えていなかった加東景とお近づきになったり。

 祐巳ちゃんのほうは結局おいしいところを蓉子に持っていかれてしまった
 けれども、それはしょうがなかった。
 自分がしなければならなかったの祐巳ちゃんを救い上げてあげる事だった
 し、それ以上は自分がでしゃばる事ではなかったから。

 「祥子までは面倒見切れないしなぁ」

 苦笑しながら呟く。

 そして、もう一つ。大事な事。これは自分が全く関与しない所で起こった
 事だったけれど、志摩子に『妹』が出来た。

 事件のあと、祐巳ちゃんを捕まえて白状させたところによると随分と派手
 なイベントだったようだ。タッチの差でそのイベントを見る事には成功し
 なかったけれど。

 まあ、そのあと直ぐにロザリオを渡さなかった所が志摩子らしい。
 きっとまたいろいろ考えて自分自身を縛り付けていたんだろう。

 「志摩子に妹…か」

 そっと呟く。

 志摩子は強い。それ故にとても脆い。
 強い意志を持っている為に、結局自分自身を縛り付けて自分から崩れてし
 まう。誰かが見守って、壊れないようにしてやらなければいけない。
 志摩子がその脆さに気づいて乗り越えるまでは。
 そして、それはそう遠くはないだろう。                     くびき
 志摩子の妹、二条乃梨子という少女が志摩子を「志摩子自身」と言う頚木
 から解き放ってくれるだろうと確信していた。
 あの志摩子に最初の一歩を踏み出させたのだから。

 そうしているうちにいつのまにか薔薇の館の側までやってきていた。
 そう遠くない所に良く知っている後姿を見つけた。

 「祐巳ちゃん!」
 「ぎゃう」

 怪獣の子供のような悲鳴。
 そうそう。この反応、この声。
 そして抱き心地。久しぶりだった。

 「せ、聖さま!」
 「あったりー」
 「どどどど」
 「どうしてここにいるのか?」

 あいかわらず「道路工事」をする祐巳ちゃんに答えるとぶんぶんと頷く。

 「愛しい祐巳ちゃんに逢いにきたにきまってるでしょう」
 「どうしてわたしなんですか」
 「え〜寂しい事いわないでぇ」

 そう言いながらさらに祐巳ちゃんを抱きしめる。

 「そうじゃなくって、わたしより逢わなければならない人がいらっしゃる
  でしょう」
 「誰?」
 「聖さま!」

 あら、珍しく祐巳ちゃんが怒ってる。

 「志摩子さん」
 「志摩子?」
 「そうです。聖さま卒業されてから志摩子さんに逢ってらっしゃらないで
  しょう!」

 そうだったかな?
 確かに、祐巳ちゃんが言う「マリア祭の宗教裁判」の時には逢えなかった
 けど。

 「志摩子だって乃梨子ちゃんがいるんだし、いいんじゃないの」
 「良くないです!」
 「そうかなぁ」
 「聖さまはわたしがピンチの時にはいつも側にいてくださってとても感謝
  しています。でも、志摩子さんには距離を置きすぎです!」
 「距離を置き過ぎ…」
 「志摩子さんと聖さまのご関係には口をはさむ気はないですけど、もう少
  し志摩子さんに近寄ってあげても良いと思います」

 そうなんだろうか。
 確かに、志摩子とは常に近づき過ぎないようにしてきた。
 でもそれは志摩子を守るため。

 「それが志摩子さんの為だって言うのなら、それは聖さまの思い上がりで
  す」

 今日は随分祐巳ちゃんがきつい事を言う。
 自分の知っている祐巳ちゃんじゃないみたいだ。

 「聖さま。わたしだって少しは成長しているんです」

 まるで、自分の心を見透かされたように祐巳ちゃんが言葉を繰り出す。

 「聖さまは、ご自分をお守りになるために志摩子さんと距離を置いていら
  っしゃるんです」

 −自分を守るため?

 「ここにはもう、志摩子さんのお姉さまはいらっしゃらないんです」
 「いるじゃない」
 「そうじゃないんです。リリアンの高等部にはもう聖さまはいらっしゃら
  ないんです。志摩子さんはもう白薔薇さまですけど、本当はわたしと同
  じ2年生なんです」

 そうだ。志摩子はまだ2年生。本来ならまだつぼみであって薔薇ではない
 はずなのだった。
 自分が志摩子まで妹を作らなかったから。

 「確かに、乃梨子ちゃんは志摩子さんを支えてくれます。時には志摩子さ
  んを包み込んでさえくれています。」

 そこまで言って祐巳ちゃんはひとつ深呼吸のように大きく息をした。

 「でも、志摩子さんが辛いときには足りないんです。乃梨子ちゃんだって
  まだ1年生なんです。リリアンに入ってまだ3ケ月だし、わたしや由乃
  さんはお姉さまたちと何かあると志摩子さんを包みきれないんです」

 祐巳ちゃんが寂しそうに言った。
 その声は泣き声のようにも聞こえた。

 「聖さまがお渡しになったロザリオも、もう志摩子さんの右手にはないん
  です」

 祐巳ちゃん…
 そのとき聖は気づいた。

 自分は自分を、今ここにいる佐藤聖を壊したくないから卒業しても志摩子
 との距離を縮める事ができなかった事に。
 自分には大学で新しい友人も出来た。
 加東景のような側にいるだけで安心できる人も。
 もちろん、志摩子の代わりではない。
 自分の居場所に別の形で必要な拠り所となる人を見つけた。

 でも志摩子には?

 妹の乃梨子ちゃんは、まだ若芽だ。いくら頑張っても志摩子と乃梨子ちゃ
 ん自身を包み込める大きな花を咲かせるには時間が少なすぎた。
 そして、自分は……。

 栞という小さないばらを解けないままだった。

 −大切な人が出来たら一歩お引きなさい。

 お姉さま…聖は一歩どころか、いつのまにか二歩も三歩も引いてしまって
 いたのかも知れません。

 「あ、あの!ごめんなさい聖さま。なんだかわたし、言いすぎだったかも
  知れません。ごめんなさい!」

 祐巳ちゃんが両手を握り締め、頭を下げている。
 本当に素敵な後輩に恵まれたものだ。
 聖は微笑みながら祐巳ちゃんを再度抱きしめた。

 「ありがと、祐巳ちゃん」
 「聖さま…」
 「わたしも、もう少し志摩子を包み込めるよう努力するよ。だから祐巳ちゃ
  んも志摩子のことお願い。わたしがいないときだけでいいから」
 「聖さまがいてもいなくても、きっと祐巳は志摩子さんを助けます」

 にこっと微笑みながら祐巳ちゃんは言った。「役に立つかどうかはわかんな
 いですけど」そう付け加えて。

 ぱっと祐巳ちゃんを離して振り向いた。

 「今日はここらで失礼するよ祐巳ちゃん。ごきげんよう」
 「ごきげんよう、聖さま」

 顔だけ祐巳ちゃんに向けて手を振る。
 祐巳ちゃんも手を振っていた。

 聖は校門まで走って、ちょうど着いたばかりのバスに飛び乗った。
 目的地はすぐに頭に浮かんだ。

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