Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「Confidence」 第二話 『 異邦人 』


 「ん……」

 頭が朝であることを告げ、活動を活発化しようとしているにもかかわらず、身
体は起き上がることを拒んでいるような、そんなまどろみの中、加東景は突然、
まぶたを通して差し込んでくるまばゆい光に身をよじりながら、小さくうめいた。

 「カトーさん、そろそろ起きて欲しいんだけど」
 「もう少し……」

 まだ半分眠っているような状態の、景の耳に届いた声の主がいったい誰なのか
考えもせず、景はベッドの中で毛布に包まりながら答えた。

 「……ベッド?」

 普段の自分は布団で寝起きしているはず。それが何ゆえ布団とは明らかに違う
スプリングの利いたベッドで毛布に包まっている?
 景の頭の中で、ぼんやりと現在の状況が頭に浮かび始めたころ、眠さなど吹き
飛ぶような言葉が聞こえた。

 「お目覚めのキス、してあげましょうか」

 小憎たらしく、けれども心地のよい声の主がぱっと頭に浮かんだ瞬間、景は跳
ねるように上半身を起こした。

 「お、キスはいらなかったか。残念」
 「お、おはよう。佐藤さん」

 目の前で、ベッドに片手をついて微笑んでいる彼女に引きつりそうな笑みを浮
かべて、景は朝の挨拶を交わした。

 「おはよう、カトーさん。今日もいい天気よ」

 カーテンを全開にした窓の前に立ち、地中海の鮮やかな朝の太陽を浴びながら、
佐藤さんはさわやかに言った。すでにこのイタリア地へ来て一週間近く。その間
寝食を共にしてきたのに、朝、彼女を見るたびに新鮮な驚きを覚える。
 いそいそとベッドサイドにおいた眼鏡を掛けながら、景は「それはよかったわ」
なんて返事をしてみる。跳ね起きる寸前、一瞬だけ頭をよぎった想像を彼女、佐
藤聖に感づかれないように。

 「ん、どうかしたの?」
 「な、なんでも……ない」

 まるで自分の考えていたことが見透かされたような気がして、景はあわてて佐
藤さんから視線をそらした。ほんの少しだけ、彼女のキスという言葉に期待をし
てしまった自分の本心を見透かされた気がして。

 「ところで朝ごはん、どうする?」
 「そうね……」

 何気ないさまを装い、景は洗面に向かいながら答える。イタリアに来てから数
日、日本とは決定的に違う食事の量に驚かされ続けたことを思い出す。
 とても食べきれないと思われた量の食事だったが、佐藤さんは何食わぬ顔で景
の残そうとしたものまで平らげてしまう。それも毎食。それでいて体重は景より
も若干軽いというのだから一体どう言うからだの作りをしているのか純粋に興味
が出てきたものだ。
 そして、昨晩はその量から逃れるため、日本で言うところの小料理屋みたいな
小さなお店で一品だけで済ました。アニョロッティという餃子のような感じで具
をパスタで包んだ料理。中の具にはしっかりと味がついていたけれど、パスタそ
のものにはオリーブオイルとバターらしき味だけが添えられた、あまりしつこく
ない料理だった。味の濃さよりも量で打ちのめされ続けてきた景の胃にはぴった
りの量と味だった。
 もっとも、佐藤さんは物足りなさそうにしていたけど。

 「カフェで軽く。と行きたいのだけど」
 「OK。そうしましょう」

 顔を洗っている間、ボーっとした頭で機能の夕食などを思い出しながら考えた
答えを顔を拭きながら景が提案すると、ベッドの脇で着替えているらしい佐藤さ
んは軽やかに即答してくる。
 もっしかすると昨晩の夕食では足りなくって、朝からパスタやピッツァを所望
だったりするかも。とやや構えていた景は、その即答に安心した。

 「ドゥオモ広場まではすぐなのに、随分と急いで出るのね」
 「うん、ちょっとね」

 朝の7時半。
 今日はピサの斜塔があるドゥオモ広場を周り、ピサの街をぶらっとしてからバ
スでフィレンツェに向かうだけなのでそんなに慌てて出ることもないだろうと思
うのだが、佐藤さんははっきりしないまま、忙しく景を連れ出した。
 ホテルで聞いたバールに入り、注文を告げる。
 スタンド形式のお店のようで、椅子やテーブルはなかった。

 「佐藤さんは何にしたの?」
 「カフェ・マキアートとコルナット。カトーさんは?」
 「カフェラッテとビスコッティ」

 今回のイタリア旅行も残すところあと今日を入れてあと二日。
 明日にはフィレンツェから帰途に着く。フィレンツェからローマ、ローマから
日本へ。来た時はガイドブック片手に右往左往するかと思っていたけど、佐藤さ
が意外にもやたらイタリアの慣習みたいなことに詳しかったり、書き出して来た
イタリア語の発音やガイドブックにも載っていないような言葉を使ったりするお
かげで、特に移動や買い物で困るようなことはなかった。
 食事の量は聞いてはいたけど、あんなにも大量に出てくるとは見るまではわか
らなかったけど。

 「ビスケットはカフェラッテに浸してから食べるらしいよ」
 「そうなの?」
 「うん、そう聞いた」

 言われるまま、ビスコッティをカフェラッテに浸す。
 すると、ポロポロと浸したところが崩れてカフェラッテの中に流れていく。

 「あっ」

 慌てて引き上げるけど、すでにカフェラッテの中に崩れたビスコッティの欠片
ぷかぷかと漂っていた。

 「ちょっと、佐藤さん」
 「さっと潜らせるのがいいみたいよ。こっちの人はそうなってもスプーンで掬っ
て食べちゃうそうだけど」

 佐藤さんは景と、景が持ったビスケットを見てくすくす笑っていた。

 「こうなると判って言ったんでしょう」
 「まさか」
 「その割にはそうなった後のことまで随分詳しいけど?」
 「そうなることが多いって話を聞いただけ」

 まったく悪びれもせず、彼女はカフェ・マキアートと呼ばれるミルクを垂らせ
たらしいエスプレッソのカップを口に運ぶ。

 「誰に聞いたのかは詮索しないで置くわ」
 「あはは」

 聞いた。という言葉に、一人の女性が一瞬頭をよぎった。
 名前しか知らない人。
 その人がこの事を佐藤さんに話したのかどうかは判らなかったけれど、何とな
く浮かんできてしまった。
 水野蓉子さん。佐藤さんが見せてくれた高校の卒業式で撮ったらしい写真に、
その人は彼女と並んで三人が写っていた。反対側には「黄薔薇さま」と呼ばれる
鳥居江利子さん。鳥居さんとは旅行の直前、ほんの一瞬だけど会った。リリアン
の構内で。
 そして、未だに写真でしか知らない水野蓉子さんと、佐藤さんは恐らく色々な
意味で深い仲であるらしい。佐藤さんに聞いたことも、佐藤さんが話してくれた
こともなかったけれど、何となく解ってしまった。
 そして、そのことが景の心に小さな小さな痛みを加えていることも、認めたく
はない事実だった。

 「そろそろ行きましょうか」

 結局、彼女に言われるまま、カフェラッテの中に流れてしまったビスコッティ
の屑をスプーンで掬って食べ終わったころ、佐藤さんはゆっくりと出口に視線を
向けて言った。

 「そうね」

 何か引っかかるものを感じつつも、景は頷いた。確かに、スタンド形式のこの
バールではのんびりと食後の一息などと言うわけにもいかない。
 しかし、彼女はなにか景に隠し事をしている。それは間違いではないだろう。
 ホテルを出るときの忙しさ。
 そして、今の出口を指す仕草。
 この先のドゥオモ広場、ピサの斜塔になにかあるのだろうか。景に隠さなけれ
ばならないようなことが。
 バールを出てからのほんの短い間の思考。

 「というわけだから」
 「え?」

 ドゥオモ広場に向かう一分にも満たない間の事だったけれど、その間に佐藤さ
んが話しかけた言葉はまったく聞き取れていなかった。

 「今、なんて言ったの?佐藤さん」
 「ん、だからちょっと人に会ってくるから一時間ほど待ってて。カトーさん」

 人に、会う。
 それが普通の買い物の日とかだったらそんな信じられない事でもなかったのだ
ろうけど、今はその普通の買い物とかでは全然無い。
 そもそも、こんなところで会うような人がいる事さえも信じられない事だった
から。こんな日本からはまるきり地球の反対側にあるイタリアで一体誰と会うと
いうのか。もちろん、本当ならば彼女のことをよく知りもしないのだから、もし
かしたらイタリアに知り合いの一人や二人いたとしてもおかしなことではないの
だけれど、朝食の際に脳裏を掠めた紅薔薇さまと呼ばれた人のことや、なにか隠
し事があるという妙な確信からか、景は彼女の言うことを素直には聞き入れられ
なかった。

 「じゃ、そういうことで。また後で」
 「ちょっと、佐藤さん?」

 良いも悪いも、了解もしていないのに、佐藤さんは後ろ手に手を振りながら、
公園のような広場の道を駆け出していった。

 「いったいなんなのよ……」

 怒る気も起こらず、呆れたまま、景は去ってゆく佐藤さんの後姿を見送る。
 彼女が小指の先くらいの大きさにまでなったところで、慌てて景も駆け出した。

 「ま、待ちなさい!」

 地理も何も不案内なこんなところで一人にさせられてしまって、一時間もはい
そうですかと時間などつぶせるわけも無い。しかも、取り残されたような気分に
なって急に心細さもこみ上げてくる。
 佐藤さんはまるで昔からのなじみの場所のように、たったかと走っていく。
 彼女は目指す場所に引き寄せられるように、他の人や景色には目もくれず、
 真っ直ぐに走っていく。
 しばらく走ったところで、佐藤さんは走るのを止め、ゆっくりとした速度で歩
 き始めた。
 そして、軽く手を上げた彼女の前に立っていたのは、遠めにもそうとわかる漆
黒の髪をした美少女だった。
 映画や、ドラマのような抱擁などは無かった。ただ、小さく頷き合って見つめ
合う。それだけだったのだけれど、そこには他者が干渉すべきではない、二人だ
けの聖域のような世界があった。

 「何、なの……」

 胸の奥に走る、鈍い痛みにも似た感覚。
 いままでに感じた事無い感覚に、景は戸惑いを覚えると共に、その原因を冷静
に分析し始めていた。

 (これって、まさか、嫉妬……?)

 そして、その原因に思い至ったとき、景は自分の出した解答に衝撃を受けた。

 −To Be Next−


今回のあとがきは、最終話に纏めて書きます。
などといっておきながら、あまりにも間が空いてしまったのでちょっとだけ。
2004年の秋頃からまったくどうしようなく時間がなくなってしまって、まともにSS書く時間も取れませんでした。
今回はどうにか年末の休みにだーっと書き上げましたが、まだまだいろいろ時間がなさそうなので、次回もか
なり間が空きそうな気がします。お越しくださっている方々には大変申し訳ありませんが、よろしくご理解のほど
お願いいたします。
2005年もどうぞよろしくお願いいたします。


Back | NovelTop | Next