Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「Confidence」 第一話 『 揺れる想いと秋の空 』


  「え?」

10月の後半の日曜日、朝方に突然電話が掛かってきて、水野蓉子は呼び出された。
とても大切な話があると電話口で告げられ、どうしても今日話がしたいからお昼前に駅前で待って
いる。と、真剣な声で語るものだから、蓉子は約束の時間前に待ち合わせ場所に到着し、相手をそ
こで待っていた。
約束の時間から遅れること約10分。
彼女は普段と違ってへらへらした顔をして現れた。電話口での声の調子とは全く正反対とも思える
態度で。
その顔を見た瞬間に思わず疑問が声に出てしまった。だから「え?」。

「ごめんなさい、ちょっと兄が勘違いして邪魔をしたものだから」

恐らく、彼女がお付き合いしている相手とのデートと勘違いしたと言う事だろう。
それは構わない。今、問題なのは彼女。鳥居江利子のその似合わないへらへらした表情だ。

「とても大切な話があるような顔には見えないわね……」
「酷いこと」
「卒業してから暫く立った所為かしら。どうやら江利子の性格を忘れていたようだわ」

そうだった。江利子と言う人は普段は抑揚の無い表情をしているけど、何か興味を引く事があった
り自ら何かを実行する際はとても同じ人間とは思えないほど精力的にかつ自らの能力を惜しみなく
駆使して動き回るのだった。

「折角、蓉子のためを思って頑張っているのに……」
「私の為?江利子自身の為でしょう」

無意識に溜息が混じったような声になった。
江利子が自分から動く時、周りの人間は大抵ろくでもない事になる。だからこそ、リリアン在学中
も皆「触らぬ神に祟りなし」といった様子で本気の江利子に巻き込まれないようにしていたのに。
まさか卒業後の今、自分がその生贄になるとは。

「まあ、いいわ。立ち話する内容じゃないし、とりあえず場所を移しましょう」

言うが早いか、江利子は蓉子の手を取って足早に歩き始めた。
急に引っ張られたので、前に重心が移ってつんのめりそうになる。

「江利子、ちょっと」
「もたもたしないで行くわよ」

江利子が本気の時には何を言っても無駄だった事を思い出して、蓉子は言われるまま歩き出した。
今週はどうもついていない。
聖は突然音信普通になるし、江利子は久し振りのイケイケ状態で、その生贄に蓉子を選んでくれる
し。
今週の運勢は結構良かった筈なのに。
蓉子の口から再びため息が零れた。

「いらっしゃいませ」

駅から歩いて数分、幹線道路からすこし路を入ったところにある小洒落たベーカリー・カフェに入っ
た江利子と蓉子は、随分と可愛い声の店員の女性に案内されて、日曜日の午後だというのに結構空い
ている店内の窓際の席に案内されるまま腰を下ろした。

「お昼まだでしょう?」
「ええ」
「ここのサンドウィッチ、とても美味しいの。令がべた褒めするくらい」

江利子が嬉々として彼女の妹である支倉令がどれだけこのお店の褒めて居たかを語った。すぅっと
店内に視線を巡らし「ベーカーリーがしているお店だからかしらね」なんて嬉しそうに言う。
確かに、店内には焼きたてのパンの香ばしい香りが満ちていて、空腹を感じはじめている身体が敏
感にその匂いを感じ取っていた。

「ご注文は宜しいですか?」

先ほどの女性がガラスのコップになみなみと注がれたお水を二人の前に置いてから注文を聞いてき
た。

「サンドウィッチセット、飲み物はアップルティー」
「同じ物で飲み物はオレンジペコでお願いします」

ゆっくりメニューを見る間もなく、江利子がすいすい注文してしまうので蓉子は内容を吟味するこ
とも出来ずに江利子と同じ物を注文した。

「同じ物でよかったの?」
「あのね、ゆっくりメニューを見るまもなく注文を済ませたのはあなたでしょう?」

注文する物の中身を知っている江利子と違って、初めて来た蓉子にはオーソドックスなもの以外は
中身も分からないし、お勧めを知っている彼女に従うのが無難と思われたので同じ物を注文したの
だけれど。

「べつに一緒に注文する必要ないじゃない。後からでも良かったのではなくって?」
「あ……」
「時々ぼけるわよね、蓉子って。でもそういう所が好きよ」

微笑みながら「好きよ」なんて言って来る江利子にまたも小さく溜息を零した。けれど、この件に
関してはまさしく江利子の言うとおりだった。別に一緒に注文せずとも、少し遅れて後から注文し
てもなんの問題もなかった。なんだか妙に慌てて、注文しないと。という思いに急かされてしまっ
たのはなぜだろう。江利子の雰囲気に流されてしまったからだろうか?
と、そこで今ここで江利子と少し遅めのランチを待っている本来の目的を思い出し、蓉子は気持ち
を改めて問いかけた。

「それで、大切な話というのは一体何なのかしら」
「あら、食べてからでも構わないじゃない」

しれっと言ってのける江利子を軽く睨み付ける。

「分かったわよ。怖い顔をしないで頂戴」

両手を小さく掲げ、呆れたようにワザとらしく降参のポーズを見せ、江利子は蓉子に向き直った。
向き直ったその視線に現れた今までと違った真剣さに呑まれるように、蓉子は無意識に姿勢を正し
た。先ほどまで見られた江利子のへらへらした雰囲気は掻き消え、まっすぐに蓉子と、まるでその
向こうにある何かを見つめるように。

「昨日あたりから聖と会うか、電話した?」
「いいえ、一昨日から聖とは音信不通よ」
「でしょうね」

蓉子にとっての大切な話、と告げられた時点で、恐らく聖の事だろうとは予想していたから江利子
が切り出した内容に驚く事は無かった。

「それで、その理由を知っているって言うのかしら」
「その通りよ」

恐らく知っているのだろう。でなければわざわざこうして蓉子を呼び出したりしないだろうから。

「聖は今、イタリアよ」
「は?」

なんとも間抜けな声が出てしまった。今、江利子はなんと言ったのだろうか。イタリア。そう聞こ
えた気がしたのだけれど。イタリア。日本から飛行機で約10時間、距離にして約1万Km。時差
は向こうの夏時間時期なら7時間、冬時間なら8時間。そういえば去年、祥子たちの修学旅行も行
き先が確かイタリアだったはず……じゃなくって。

「イタリア、って言ったのかしら」

努めて冷静に聞いたつもりだった。

「そうよ。イタリア」

江利子が余裕を見せつつ答える。

「なぜ……」
「旅行でしょう」
「それはそうでしょうけど……」
「ちなみに今、由乃ちゃん達も修学旅行でイタリアに行っているの」

まさか志摩子か祐巳ちゃんを追いかけて?

「祐巳ちゃんを追いかけた訳でも、志摩子についていった訳でもないわよ」

まるで蓉子の心を見透かしたように、江利子が先をついて思った事を口にした。もしかして顔に出
ていたのかしら。自然と手が顔に伸びる。

「ある女性、仮にKさんとしましょうか。その人と二人で行っているのよ」
「なんですって!!」

思わず椅子から立ち上がって叫んでしまった。
かなり大きい音を立ててしまったものだから、店の人と店内に散見できる他のお客さん達から驚い
たような、迷惑そうな視線を向けられて蓉子は慌てて椅子に座りなおした。
改めて江利子を見ると、なんとも小憎たらしい余裕の笑顔を浮かべている。まるで「どうだ」と言
わんばかりの。
それにしても聖が蓉子以外の女性と、それもイタリアなんていう簡単に行けるような場所でもない
所に、蓉子に黙って出かけると言うのは一体どう言う事なのか……。
二人で連れ立っていると言う事は、当然飛行機もホテルも同じ、言わば寝食を共にすると言う事で、
まるで邪魔者を排除するかのごとくなその意味は……まさか浮……。

「浮気かもね」

─ガタン!

再び大きな音を立てて椅子から立ち上がってしまった。

「蓉子……」

江利子の呆れたような声と視線に我に帰る。
二度も犯してしまった失態に顔が熱くなって来た。周囲の視線が痛い。
いそいそと椅子に座りなおし、俯いたまま江利子に問い掛ける。

「どうして浮気なんて言葉が出てくるのかしら」
「どうして?現実から目を背けては駄目よ。聖がKさんと旅行、それもイタリアなんて時間も費用
 もかかる所によ、蓉子に内緒で出かけたのよ。これだけ状況証拠が揃っていたら誰でもそう思っ
 てしかるべきでは無くって?」
「……」
「確かに聖が普通の恋愛感覚の持ち主ならただの友達との旅行になるでしょう。でも違う。そして
 貴女と聖の関係も鑑みれば。ね」

周囲に聞こえる事の無いよう、注意をしながら蓉子にだけ届けられた江利子の言葉は、客観的に事
実だけを並べているのにもかかわらず、蓉子にとって吸血鬼の心臓に打ち込まれた杭のような破壊
力を持っていた。

─浮気……聖が浮気……。

浮気と言う単語が蓉子の頭の中で延々と繰り返される。
聖に対する蓉子の想いは決して軽い物では無かったはずだ。そして、聖もそうであると信じていた。
ううん、今でも信じたい。信じたいのに江利子から突きつけられた現実がそれを否定してしまいそ
うになっていく。江利子の言葉を嘘だと切って捨ててしまいたいのだけれど、江利子はこういうこ
とで絶対に嘘は言わない。現実と願望がない混ぜになって、頭の中をぐるぐるぐるぐると巡ってい
く。

「ま、浮気かどうかはともかく。聖がKさんと海外旅行に行っているのは事実よ」
「江利子が……そこまで言うのなら本当なんでしょうけど、浮気と決まったわけでは……」

先ほどの流れから伏せたままになっていた顔をゆっくりと上げ、江利子を見る。

「決まったわけではないわ」
「そ、そうよね……」

彼女の答えに理由も無く安堵感が湧き上がってくる。

「でも、浮気ではないと決まったわけでも無くてよ」

微笑みながら発せられた江利子の言葉が再び刃のような鋭利さで蓉子の心に突き刺さった。どうし
江利子はこうまで自分の心を弄ぶのだろう。なにか彼女に対してここまでされることをしたのだろ
うか?。
聖の旅行の事から逃れるように、蓉子は江利子との間にあった出来事を思い返してみる。
江利子と出会ったのはリリアンの中等部で、いろいろとあったけれど、その間にこうまで意地悪さ
れるような事は無かったはず。却ってこちらが意地悪をしたくなるようなことは何度か有ったよう
な気もするけど。
そして高等部に進学。それ以降は共に薔薇の館に集まっていろいろと……。

「わたしはね、蓉子。あなたの為を思ってでしゃばっているのよ」

蓉子の思考を遮るように、江利子が再び口を開いた。
先ほどの思考を引きずったまま、蓉子はぼんやりとした瞳で江利子を見る。

「前にも言ったけれど、わたしはあなたが好き」

そういえばそんな事もあった。
卒業後に受けた突然の告白。あの時は本当にびっくりしたもの。そういえば、江利子が蓉子と聖の
関係を知っていると教えられたのもあの時だったはず。それにしても、こんな趣の無いところで改
めて告白されても感慨など感じるものではないのに。

「だからといって、あなたと聖の仲をどうこうしようなんて思っていないわ。聖に取って代わるつ
 もりなんて無いもの。あなたたちの関係がどれくらいかは知っているつもりだから」

江利子がそこまで口にしたとき、注文したサンドウィッチと飲み物がテーブルに運ばれてきた。
日替わりらしいメインのサンドウィッチは世間で言うところの「ミックスサンド」で卵やハム、レ
タスにトマトなど色々な具材が見た目にも綺麗に間に挟んであった。それにしても、これは少し多
いのではないだろうか。どうみてもコンビニなどで売っている三角サンド3個分位の量はあるよう
に思える。

「ついてるわね。令が言うにはミックスサンドが一番美味しいそうよ。具材のバランスがとても上
 手に取れているんですって」
「そう……」

令は剣道をしているスポーツ少女だから、これくらいの量は問題ないのだろう。江利子も見た目と
違って結構食べる方だからそれほど苦にはならないのかも知れない。けれど、蓉子にとってはある
意味殺人的な量にも思えてくる。

「うん、美味しい」

ニコニコとサンドウィッチをほうばる江利子を見て、蓉子も目の前のそれを手に取って口に運んだ。

「あら、本当」
「でしょう」

確かに料理や手芸などは職人的な腕を持っている令が絶賛するだけのことはあった。卵やハム、野
菜などがそれぞれ自己主張するような味を持っているにもかかわらず、決して他者の味を邪魔する
ことなく、調和された味をかもし出していた。パンに塗られているバターやマスタード、マヨネー
ズにいたるまでもしっかりと味を感じるのに具材を引き立てるように節度のある味を保っている。
なによりもそれほどのしっかりした味なのにまったくしつこさを感じない。これならこの量でも食
べきれるような気がしてきた。

「お茶の方は普通なのだけれどね」

江利子がくすっと苦笑いしながら呟いた。
先ほどまでの心曇る会話の内容を少しの間忘れて、江利子と二人美味しいサンドウィッチを口にし
ながら自分たちの近況などを話しながら、ランチタイムを過ごす事になった。

 −To Be Next−


今回のあとがきは、最終話に纏めて書きます。


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