Cross of the EDEN
エデンの園の十字架


「紅い薔薇の花びら」 第一話 『 温室 』


 春も終わりを告げ出した頃。
 満開だった並木の桜も散り終えてから随分と日が経ったある日、何の気も無く立ち寄った学園内の
 小道。
 水野蓉子がリリアン女学園に入学してから5年、こんな静かな所が有るなんて初めて知った。
 随分と日が落ちるのが遅くなり、未だ衣替えが許されないこの時期、汗が制服に染み込む日が多く
 なってきて不快に感じる時間が増えてきていたが、爽やかな風が吹いていて今日は随分と過ごしや
 すい。
 そしてこの小道。
 時折聞こえてくる鳥の囀りが心地よい。
 普段なら耳につく運動部の掛け声や、無意味とも思える生徒達の下校時の会話も遠く、現実味を伴
 わない空想のように聞こえてくるだけだった。

 「あら……」

 ほんの短い時間、不意に訪れた幻想的な時間を楽しんでいた蓉子の目の前に、古びた小さな温室が
 目に入った。

 「こんな温室まであったのね……」

 現在、使用されている近代的で鋭角的な温室と違って、まるで御伽噺に出てきそうな円形の小さな
 温室だった。
 骨組みも、ただ硝子を保持するだけの味気ないものではなく、それ自体が模様を描いていて見目に
 も十分配慮されている。
 硝子の所々に罅が入ったり欠けたりしてるけれど、温室としての機能は些かも損なわれてはいない
 様子だった。

 ─カチャ

 薔薇の館で会議の予定があったけれど、マリア祭以降は体育祭まで特に大きな行事も無く、学園祭
 の準備もまだ当分先の事なので集合を義務付けられた会議ではなかったから、蓉子は温室の中を覗
 いて見る事にした。

 「やはり中は少し暑いわね」

 まるで温室自体が蓉子を誘っているような印象があったけれど、涼しかった小道と違って温室内は、
 やや不快感を覚えるほど温度が高かった。
 小さな温室に見えたけれど、中は案外と広い。
 通路の両脇に植えられていたり、鉢の中に収められたりしている植物は、蓉子の見た限り殆どが薔
 薇のようだった。

 ─パキッ

 「誰!」

 落ちていた小枝を踏み折ってしまった刹那、自分の物とは違う声が前方から響いてきた。

 「ごめんなさい、驚かすつもりは無かったのよ」
 「紅薔薇のつぼみ……」

 咄嗟に謝意を口にした蓉子に向って、先程の誰何をあげた相手は蓉子の現在の立場を表す名前を発
 した。
 その相手は紛れも無くリリアンの生徒だったけれど、蓉子には面識が無かった。
 驚くような美少女で、深い緑色の艶やかなロングヘアが印象的だった。相手の目を見て話すのは蓉
 子の常だったけれど、その少女も蓉子に負けじと見つめ返してきた。

 「あなた、1年生?」
 「はい」
 「こんな温室があるの、知らなかったわ。貴女はご存知だったのかしら」
 「入学式の日に見つけました」

 端正な顔立ち。そして、どこか他人を寄せ付けない雰囲気をした深い瞳の色に蓉子は吸い込まれる
 ような錯覚を覚えた。先程向かい合ってから、彼女はひと時も蓉子から視線を外す事は無かった。

 「挨拶が遅れてしまったわね、2年の水野蓉子よ。紅薔薇のつぼみ、と言う事になっているわ。わ
  たしの事はご存知のようだったけど」
 「1年、小笠原祥子です」
 「あら、あなたが……」

 小笠原祥子。蓉子も噂だけは耳にしていた。
 今年入学して来た数多の一年生の中で、彼女ほど入学前から噂が上っていた新入生は居なかった。
 デパートに巨大総合商社、数え上げればきりが無いほどのグループ企業を傘下に抱える天下の小笠
 原グループ。その会長の孫娘であり、社長令嬢。代々男子は隣の花寺に、女子はこのリリアンに通
 い続ける生粋の上流階級。幼稚舎からリリアンに通い続ける純粋培養のお嬢様が今年、高等部に入
 学して来るというのは、3学期に入ってから随分と噂になっていた。
 あまりそういう噂に興味のない蓉子の耳にも、うんざりする位聞こえていた噂の主が、目の前の少
 女とは。

 「……」

 他意も無く口にした言葉だったのだけど、その言葉を聞いた瞬間に彼女はあからさまに表情を変え
 てしまった。まるで蓉子を蔑むような表情に。

 「失礼致しますわ、ごきげんよう紅薔薇のつぼみ」

 最後に一瞥をした後、彼女はくるりと蓉子に背を向けて歩き出そうとした。

 「お待ちなさい」

 そんな小笠原祥子に、蓉子は一声を持って呼び止めた。
 彼女の動きが止まる。 意図して凛とした声を発した甲斐はあったようだ。

 「まだ、何か」
 「今、貴女は『紅薔薇のつぼみもその程度だった』って思ったわね」
 「……」

 その言葉に祥子さんは驚いたような瞳の色を浮かべる。どうやら図星だったようだ。
 自慢ではないが、人の表情から心情の変化を類推するのは得意だった。
 意識して身に付けた訳では無い。何時の間にか自然とそう言う事が出来ようになっていた。

 「貴女の気に障ったのならば謝るわ。ごめんなさい」
 「……」
 「貴女が私を軽蔑するのは構わないけれど、決して他意があった訳では無いことだけは解ってほし
  いの。私はいままで、そんな風に噂や上辺だけで人を判断した事はないから。それに……」
 「それに?」
 「そんな物に興味ないから」

 自然と口元に笑みが浮かんでいた。
 祥子さんは「この人は何を言っているのだろう」という顔をしていたけれど。

 「それだけ。ごきげんよう、祥子さん」

 今度は蓉子が祥子さんに背を向け、もと来た小道を歩き出した。
 彼女が動いた気配は無い。背を向けているため表情は解らなかったけれど、自分を見続けているで
 あろう事だけは想像できた。

 それが小笠原祥子という、愛して止む事の無い大切な妹との出会いだった。

 −To Be Next−


今回のあとがきは、最終話に纏めて書きます。


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