阪神電車の種類そ の1(形式消滅車)

 

ここでは筆者にも馴染みのある「新性能車」以降の形式についてまとめていき ます。気が付くと多くの形式が消滅しており、その資料集のつもりでもありますが、あくまで筆者の撮影した写真を元にしております。その当時の雰囲気をお伝 えし、外観上の特徴に触れておきますが、詳しい形式の性能仕様については、参考文献や他の詳しいHPをご覧ください;)

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目次

3561-3061(元3011)形

3301形

3501形

5001形(初代)

5101形

5201形5201・5202

5201形5203-

7701-7601形 (元3701-3601)

5231形

7801-7901形 (1次車)

5151形

7861-7961形

3521形

5261形

5311形

7801-7901 形(2次車=旧ラインデリア車)

7801-7901 形(3次車)

7101-7001形

5261形(冷房増備車)

3901-3801形

3000系 (3001,3101,3201形)

8801-8901形


3561-3061(元3011)形

 

 

 

 

阪神最初の新性能車であり、積年の夢であった大型車3011形の改造形式。3011形は1954年新造。流線型、前面二枚窓、室内 はクロスシートの特急車であった。下半分は阪急ばりのマルーン(いや旧小型車塗色というべきか)。

当時配付されたPR絵はがきカバー

 

カバー表紙

 

カバー中(諸元表、図 面)(クリック)

 

カバー裏(”誇るべき特 徴”)(クリック)

 

 

 

その後急行系の車両と共用するため前面貫通化、ロングシート化され、塗装も赤胴になった。(1964年)1969年と1971年に 三扉化、ラインデリア搭載、1974、5年冷房化と立て続けに改造された。

筆者はクロスシート時代の記憶がないが、二扉ロングシートが端から端まで長かった記憶と重心の低い重厚な走りの記憶が残っている。

1984年から廃車が始まり、すぐに無くなる予定であったが、青木(おうぎ)駅でおきた通過風圧による幼児転倒事故の裁判証拠品と して存続し、1989年に最後の二両が廃車された。

 

 

当時配付されたPR絵はがき

 

1985.8.15 野田

 

1985.8.14 淀川


1985.8.1  甲子園

 

3301形

 

1958年新造、阪神急行系新性能車第一弾、3501形と同世代の阪神「赤胴車」である。

赤胴とは下半分のオレンジバーミリオンのことであるが、この昭和33年当時人気だった少年漫画「赤胴鈴之介」(知らない人も多いか な)にちなんでらしい。

3301形は新性能車としては珍しい両運転台で、主に武庫川線で単行として使用された。しかしたまには本線特急の先頭に立つことも あり、独特の高圧線の走る前面と、冷房化後も準「前パン(前側にパンタグラフがある車両)」が目を引いた。

なお、冷房装置は他の急行系の最後に改造搭載されたものの(1975年)、電動発電機の搭載ができず、単行では冷房装置は動かな かった。阪神電鉄の100%冷房化は1984年、武庫川線の武庫川団地前伸延により二両編成化されてからである。

武庫川線を初めて知ったのは1975年の「鉄道ファン」誌で、私鉄特集が組まれたとき、写真が出ていたからだが、本線の写真はな く、なんだかローカル線の扱いだった。かつての鉄道趣味誌での阪神の扱いは少なく、「鉄道ピクトリアル」の特集号などが数少ない参考書だった。

1986年消滅。

1979.3. 武庫川


1983.7.30 洲先

1982.3.26 魚崎

 

3501形


1983.7.

3301形と同年1958年に登場した赤胴車。こちらは片運転台であるが登場時は単独走行可能であった。

阪神の運行思想は小型車時代から全車M(電動車)で基本的に編成というのはどの車両を組み合わせても良かった。一方で急行系と普通 系は分けていたがこれは現在でも続く。

運転台が梅田側にあるものの車番一桁目は奇数、神戸側にあるものを偶数としているが、形式は同じである。

1965年架線電圧1500V昇圧以降も単車運転が可能であったが、1973-74年の冷房改造時に二両固定「おしどり」になった ので、上記思想は崩れたが、基本仕様の同じ各形式は混結可能というのは1984年8000系まで続いた。

1988年消滅。




1983.7

1983.7

 

5001形(初代)


1975.8? 魚崎

1958年新造の初代普通車「阪神ジェットカー」。登場時は前面非貫通二枚窓、クリームに緑の色分けであった。実際に見たことがな いのだが、白黒写真を見ても、阪神電車のイメージとはだいぶ異なる。結局同世代の3501形的なデザインが以降の阪神電車の顔になっていくのだが、そうい う意味だけではなくこの形式は先行試作の意味合いが強かった。

5001-5002の二両だけだがそれぞれが台車や車体構造が異なる。室内はセミクロスシートだった。

1961年に衝突事故から復旧し外観は量産「青胴」ジェットカーになり、1965年には室内もロングシート化され、外観上の違いは ドア間窓が二枚(他は三枚)であることくらいだった。

1977年廃車。

 

5101形


1979.3 淀川

1959-60年新造。量産版阪神ジェットカー「ジェットブルー」「青胴車」。両運転台。

5201形とともに以降の阪神ジェットカーの標準デザインとなった。前面貫通、両開きドア(1400mm幅は当時最大)、ドア間三 枚窓、18.9m車両長。下半分はマリンブルー。急行車が片開き扉、ドア間4枚窓、下半分がバーミリオンオレンジなのは良く知られているが、側面の横?雨 樋の位置が普通車は低く、急行車は高いことを追記する。7001、5261(2次車)以降は車体が同じになってしまった。

阪神ジェットカーについては5201形参照。

3301形と同じく前面の高圧線が特徴であるがこれは1965年1500V昇圧により追加された。

1970年頃までは、普通車は2両基本、日中3両編成、朝4両編成だったので、この5101形は重宝された。しかしその後日中4両 編成、夜間2両になって、単行車の意味はなくなった。5201形と同時期1977-79年に廃車された。

 

1980.4 魚崎

 

5201形 5201・5202


1975.8? 甲子園

1959-60年新造。量産版阪神ジェットカー片運転台。しかし単独走行可能(1500V昇圧後も)であった。
1970年頃までは夜になると3両から2両編成にするため1両、御影駅で切り離すのだが、それが5201形などであったりすると連結面を前に石屋川車庫へ 回送されたようだ。

5101形とともに以降の阪神ジェットカーの標準デザインとなった。しかし、形式番号でもある5201と5202のみ当時東急など で採用されたステンレス車で異彩を放った。筆者はこの車両が好きで、まさか二両しかないとも知らず、これを見ようと住吉川鉄橋で長時間粘って待った。「銀 車」と呼んでいたが、趣味誌では「ジェットシルバー」(対して青胴は「ジェットブルー」)というのが正式?となっている。

阪神ジェットカーとは、これら5000番台普通専用車の総称である。この最大の特徴は下位にあたる普通車に日本一の高加速性能を持 たせていることだ。全車Mで加速4.5キロ毎時毎秒、減速5キロ毎時毎秒。京急1000系でも加速3.5キロ毎時毎秒、減速4キロ毎時毎秒でしかない。加 速時のモータ音は当時の他社高加速車と比較してもすばらしかった。

ジェットカーという愛称が付いているが、当時は阪急オートカー、近鉄ラビットカーなどの愛称を会社で付けるのがはやっていたためだ ろう。でも子供は愛称でなく、赤い電車、青い電車と呼んでいたが。ジェットカーは地味ながらも充分個性的な技術屋好みの車両群である。この伝統は今も続 く。

 

ところで、5201形は後述の5231形よりも乗り心地が良かった。これは5201形の台車ばねが空気ばねであり、5231形が金 属ばねであるためである。なお急行形に空気ばねが採用されたのは1974年3801形以降である。

一方、加速、減速時のモーター音が他の形式よりも大きくうなるような感じだった。「フイイーーン」「フウウーーッ」という音が独特 で、今のVVVFに比べても、良い音だった。本当のことはわからないが、ジェットカーの日本最高加速性能に加えて、この音が同じ加速性能の5231などと 違う音なのはこの形式までは直角カルダンドライブ(車軸に直角にモータ軸が配置され、かさ歯車で回転が伝達される)であったからかもしれない。

ちなみに横浜の方では東急5000系、相鉄5000系が同時期に直角カルダンを採用している。みんな5000番台なのはなぜ?

 

5201形は台車、モータを更新、平行カルダンに変更改造されたものが一部あったが、新5001形に更新台車やモータを譲り、 1977-81にかけて廃車された。今にして思えば短い車齢だった。


1972? 魚崎
1972? 西宮

 

5201形 5203-

1979.3 野田
1977?魚崎

1980年4月3日 尼崎

 

7701- 7601形(元3701-3601)


 

1979.3 武庫川

1961-62年に製造された3601形-3701形は、2両固定編成のMc(電動制御車)-Tc(付随制御車)である。急行車 3501と同じボディながら大きく異なるのは、阪神電車初の付随車だったことだ。もともと路面電車の延長線にあった小型車のころからこの形式まで、全車電 動車であった。高出力モータの採用で1M1Tに踏み切ったのである。

また駆動方式が直角カルダンから中空軸平行カルダン(車軸に平行にモータを置き、平(あるいは、はすば)歯車で回転を伝達する)に なったのもこの形式からである。

1967年の600Vから1500Vへの昇圧時、これは山陽電鉄と神戸高速鉄道を介して相互乗り入れするため、1500Vだった山 陽に、阪神、阪急が揃えたのだが、その際3601-3701は4両固定になり、3701-3601-3601-3701になった。3601は中間車(運転 台撤去)となり、運転台上のパンタグラフ(前パン)が完全に無くなった。

冷房改造が1971-72年で行われたがその時、同時期に新造された7001形と同じ電機子チョッパ制御方式に改造され、7701 -7601形に改番された。3000番台は電気、空気ブレーキ併用なのに対し、7000番台は空気ブレーキのみという違いがあり、併結しないため、改番さ れたものであるが、同じボディの3501形とは併結できないという事態になった。はた目からは奇妙で、6両編成の4両と2両の車体が必ず異なる「凸凹編 成」であった。(併結できないというのは語弊があって、試運転などでは3000番台と7000番台が組んだ写真も確認している。しかし営業車では見たこと が無い。)

 

1989-91年廃車。

 

1979.3 甲子園

 

1985.3.10 魚崎

 

1986.11.23 淀川

 

5231形


 

1979.3 淀川

5201形の増備車として、1961-63年製造された。基本性能、車体は5201形とほぼ同じだが、先述の様に台車ばねが金属ば ねになったのと、3601と同じく中空軸平行カルダンになったことが異なる。また昇圧時には2両固定編成になった点も異なる。

子供のころは形式の区別などつかなかったが、車体で唯一5201形と異なるのが、日よけであった。現行形式も含め大半が巻き取り式 のカーテンなのに対し、アルミよろい戸だったのである。(3701-3601も)阪急みたいだったが、阪急のものより小さく半分しか覆えないものだった。

大型の前側パンタグラフに埋め込み幌、露出した雨どい、丸みのあるデザイン(特に裾の丸みは関東では見られない)、そして忘れては いけない、前側大型パンタグラフ(前パン)、これら阪神電車の標準デザイン要素が最後まで残った形式であった。

5201形が新5001形に代替えされてゆく中でこの電車は懐かしいものだったが、暑い夏には最後の非冷房車として不評であった。

神戸の夏は暑い。5231形に限らず、この頃の形式は側窓が上段・下段上昇式で、全開できた。そのため保護棒が必要になるくらいだ が、7801形やそれ以降が上段下降、下段も上昇範囲が10cm程度までとなってしまったので、全開窓はありがたかった。冷房が常識の今では固定窓すらあ りだが。

5231形は冷房改造も検討されたが、5131、5331形に台車、モータを譲って1981-1983年廃車された。

 

1982.4

1982.4.6 魚崎

左の写真は廃車された5250である。許可を得て尼崎西の留置線に放置されているところを撮影した。奥の本線上には代替えの 5131形が走っている。この車体は改造され京福電鉄福井線に譲渡された。廃線によってこの車両も無くなるのだろうか。

下は在りし日の5250。1972年。

1983.7.30 5250尼崎留置線

7801- 7901形(1次車)


 

1991年11月21日 淀川

1963年から新造が始まり、1966年までが同じ形状なのでこれを一次車と表記したが、正式には区別はない。この形態で68両、 全所帯90両の阪神最大の車両数を誇る形式だった。

Mc-T+T-Mcの4両基本編成で設計された初めての形式で、阪神初の中間付随車でもある。そもそも中間車というものが阪神には なかったのだが急行以上が4両編成になったので、経済面から運転台の無い車両とした。「経済車」「R車(ラッシュ用の意)」と呼ばれるその由来は、小型車 排除を急ぐための徹底的なコストダウンだ。車体形状は前面切り妻(国鉄103系、東急のような)、裾R無し(R車のくせに)、埋め込み幌が露出幌、屋根上 通風機がグローブ式(円い形の)に、客室関係では運転台後部は座席無し(落ち着いて運転台かぶりつきが出来なくなった)、蛍光灯カバー無し、網棚が(パイ プ棚ではなく)本当の網に、側窓(がわまど)が上段下降下段上昇(全開しない)、などなど。国鉄103系を手本としたような設計で、子供心に安っぽく感じ た。中間車7901形の台車は小型車851形の転用で乗り心地も悪かった。(すぐに新製台車交換)

折しも高度経済成長のまっただ中の粗製乱造製品を彷彿する作りだったが、1972年、冷房改造し、座席、棚、蛍光灯カバーが改善さ れた。デビュー時の印象が悪くていまだに好きになれないが、運転台かぶり付きでモータ車はこの形式の特徴で、武骨なデザインと相まって走りのイメージが濃 い。

ところで阪神初の7000番台を名乗っているが、これは電気ブレーキが無いためだけで、3701の次の形式ということで百の桁が 800番からになっている。3601、3701が7601、7701になり、番号が続いたのだが当初から計画されていたのだろうか。
また電動車を主形式(7801形)、付随車は100番足す(7801+100=7901)、という番号で踏襲されてゆくが、7801以外の4両、6両編成 では制御車は付随車(Tc)なので主形式番号が先頭に出てこない(中間車である)のが奇妙な感じである。

後述の3521形と組んで冷房化され、後1983-89年にわたって、界磁チョッパ制御、電気回生ブレーキ、抑速ブレーキ付きに改 造され、電気ブレーキなので3000系を名乗った。

7801形一次車は改造により減少、1995年阪神大震災で唯一残った4両が廃車となった。



1972? 魚崎
1977 魚崎-青木

1984年5月3日 魚崎

1991年12月21日 淀川

1977? 御影 「うずしお」号

「うずしお」号は、元町で関西汽船に連絡する特急に付けたヘッドマークで特別優等な列車というわけではなかった。

 

5151形


1984.5.4 魚崎-青木

1964年、初期ジェットカー最後の増備車として5151、5152の2両だけ製造された。単行できる形式が運用上不足したため で、600V時は一台に2基大型パンタグラフが付いていたが1500V昇圧時に運転台側だけになった。その後もパンタ撤去跡は通風機もなく、特異ながら地 味な存在だった。

1980年、5231形の冷房改造テスト用に、先行改造された。同時に電機子チョッパ、回生ブレーキが付いた阪神初の省エネカーと なって、結局5231形が廃車される中生き延びた唯一の初期ジェットカーになった。しかも小型の下方交差ながら「前パン」を維持し、筆者もいつかはきちん と撮影しようと思っていたが、1995年阪神大震災により破損、廃車。震災による唯一の形式消滅となってしまった。

1977? 魚崎-青木

 

7861- 7961形

まだ残っています。

1986.11.23 淀川

1966年-68年新造車。系列の新会社「武庫川車両工業」(2002年会社清算)が手掛けたのは7901形後期からだが、新設計 の車両はこの形式と、同時期の3521形からである。

7861(Mc)-7961(Tc)の2両固定編成で、多くの急行形が4両固定編成になっいて、編成の長大化に伴い6両編成を構成 するのに必要な形式である。

車体は7801形と全く同じだが、7864以降、前面の縦雨樋が内蔵された。また他形式に先駆け1971年冷房化され、7801形 で行う内装改良も先行して行われた。また左の写真の7871、73は1986年に7970、72を電装改造したもので、準「前パン」である特異な車両だっ たが1993年に廃車されている。

現在も5編成10両が主に西大阪線、武庫川線で活躍中であるので、ここに掲載するのは問題があるが、今後阪神電鉄が2両編成車を新 造するのかどうか興味あるところだ。2008年には1000系増備のため西大阪線充当の編成が廃止された。

 

3521形


 

1981.8 尼崎

7861形と同時期の1966-69年に新造された。この形式は番号が特殊で、本来電機ブレーキ付きの3000番台を名乗りなが ら、実は電制無しである。これは当時単行運転可能な赤胴車が5両編成構成時に不足しており、単行運転できる3301、3501に続く増備車扱いになったた めである。1973、74年冷房化の際、電源を7801-7901形から受けるため、3521形12両がそのまま、7801-7901の4両固定を解体し て、3両固定12編成になってしまった。したがって本来の目的である単行運転は出来なくなってしまった。この頃から急行系は6両編成が基本になったのでそ れで良かったわけだが。

この編成はすべて3000系に改造され(1983-89)形式消滅しているが、その後も現役を全うし、近々最後の一編成も廃車にな る。



1983.7

 

5261形


1972? 魚崎

1967,68年製造。ジェットカーの経済車版であり、側窓、側客室扉はジェットカー標準の扉間3枚窓、両開き1400mm扉であ るが、前面切り妻、露出幌、裾R無し、グローブ式通風機、そしてジェットカーで初めて前パンではない、というように筆者の嫌いなデザイン要素がそろってお り、これが来ると写真を撮らなかったりした。ちなみに客室内は急行系と違い標準仕様だった。

技術的には5270で抵抗制御でありながら無接点式が試用されて、チョッパ制御につながっている。

後述の後期車4両は車体も変わり、冷房装置を積んでいたが、本形式も1977、78年に冷房化された。

その後他のジェットカーが行き先表示幕取り付け、4両固定編成化されて行く中、行き先表示板を掲げて奮闘してきたが、1995年頃 廃車の噂があったそのとき、阪神大震災が起きた。早朝、各停のみの走行時間帯であったのでこのロートル5編成全てが運用中に被災した。大石付近の脱線が大 きく新聞に載ったが、魚崎横屋付近の脱線は筆者も目の当たりにしており、その最期と写真に撮ったがこの編成は復帰した。

その後車両不足から廃車は延期され、むち打って走ってきたが、1999年、盛大なさよなら運転が行われ廃車になった。早くに廃車に なった5201形に比べるとご苦労ではあったが幸せな車歴と言えよう。

1985.8.16 魚崎

1993年5月4日

 

5311形

(まだ残っています;)

 

1979.3 大物

1968-69年製造。武庫川車両の製造技術の向上なのか、前面雨樋が内蔵され(同時期の7861-7961、3521形増備車 も)、前パンがついたので、5261形よりはましだが、この形式も「経済車版ジェットカー」である。

5261形が2両ユニットで、本形式は単車走行可能であった。これにより先にも書いたように、2、3,4両の編成を自由に組むこと が出来たが、片運なので御影から石屋川車庫へ連結面を前に回送することもあった。

4両のみの地味な形式だったが、1980,81年に冷房化、2両ユニット化されその際、電機子チョッパ制御車になった。この主制御 装置は三菱製、前述の5151形は東芝製。その後の5131、5331形も100番台300番台で制御装置メーカーがわかると芸が細かい。

5151形亡き今、5311形は唯一の前パン車として注目されたが、5311-5312が1999年に廃車となり、5313- 5314が残るのみである。本線を走る行き先表示板もこれだけである。

 

1999.11.23 梅田

 

7801 -7901形(2次車=旧ラインデリア車)

 

 

1991.12.21 淀川

1996.7 大物

1969年に増備されたこのグループは、他社だったら全く別形式になるのではないかと思うくらい、一次車とは別物である。5編成と 中途半端で、4両編成を組むと一つ余る。本線で見た記憶があまりない。

車体は、側扉が1400mm両開き、ドア間窓が三枚、とジェットカー仕様である。さらに屋根は低く平たくなり、非冷房時の阪急、近 鉄のように、モニター屋根(新幹線0系のようなスリットが並ぶ、板状の装置が屋根に乗っている)で、裾にRが復活した。雨樋も内蔵され、7001形へ続く デザイン変更である。

室内は「ラインデリア」(近鉄-三菱電機共同開発の送風機)がついた。以降、冷房の補助送風機として採用が続く。

1976年に冷房化されたが、低い屋根が目立ち異彩を放つ。4両編成で西大阪線に入ることが多い。

1999年に一編成廃車になった。2008年7月には、1000系の増備が続く中、ついに全廃された。

7801 -7901形(3次車)


1977.8? 魚崎-青木

7801-7901を名乗っているが、阪神初の冷房車、7101-7001形の相棒として誕生し、全く別形式といってよい。運用保 守上は同一形式なのだろうが。1970年製造。この年は大阪万国博覧会の開催で関西が大いに賑わった。

車体がジェットカー仕様の側扉、窓配置で、裾R、雨樋内蔵と2次車と同じだが、最も大きな違いが屋根の高さである。前面が雨樋内蔵 ですっきりした分、おでこが大きく見えた。

冷房装置が最大の特徴だが、7001形の項に譲る。というのもこの形式が見た目7001形と区別できなかったから。製造当初は 7101(付随制御車)は梅田方のみで、神戸方がこの7801(電動制御車)で、5両編成を組んでいた。したがって阪神の車番通例により、3次車は偶数番 しか存在しなかった。

1990-92年に7001と共に2000系に改造されたため、中間車改造され消滅した。




1985年8月15日

1992年3月

 

7101- 7001形


1979.3  大物

日本万国博覧会は、1970年3月14(15から一般公開)日から9月13日まで大阪千里で行われた。「エキスポ」という言葉もこ の時初めて知ったが、万博と聞いて、ピンとくるのはもう古い世代になりかけている。

筆者は夏休みに神戸帰省の際、行ったのだが、阪神、御堂筋線が「えらい」混雑で、入場しても期待の「月の石」は大行列で見られな かった。日本中が興奮していた、そんな時代だった。

このときの関西私鉄はものすごいパワーだった。そろって万博のステッカーを車体に貼り、世界から集まった観光客を輸送する主役だっ た。それに合わせたかのように(合わせたのだろう)、各社、冷房車を新車投入した。

阪神の新車は上記7801形三次車と、後述5261形2次車、そしてこの7001形だった。
7000番台が7801から始まったので、一巡して7001に戻ったわけだが、車体は完全に「経済車」と決別したものである。だから「7000系」などと くくって語るのに筆者は大いに抵抗感がある。(「系」と呼ぶのは阪神では1985年以降の形式から)

特にこの7001形は、日本初の電機子チョッパ制御(当時はサイリスタ・チョッパと呼んでいた)であった。ただし電気制動での回生 ブレーキは持たず、力行専用であった。(省エネは意識しない時代だった)

走行用電動機の回転数制御は、従来、抵抗器の組み替えにより、電流制御で行っていた。抵抗で発熱させて回転数を落とすので、トンネ ル中の温度上昇が、地下鉄では問題になった。

営団地下鉄6000系が最初のサイリスタチョッパ車のように、鉄道雑誌で紹介されることがあったが、これは試作車だった(営業車は 1971年)のと、回生ブレーキ付きとして初、なのであって、日本初は阪神である。

外観上の大きな特徴は、大きなおでこと、冷房装置だ。通勤車の冷房車は名鉄、京阪が先行していたが、冷房機の外形(キセ)が国鉄 157系調の角張ったものであった。阪神の形は、車体デザインにマッチした角Rをとった優美な形で、国鉄153系、12系客車に採用されたものと同形であ る。これを採用した私鉄は阪神だけだ。

7101(Tc)-7001(M)-7001(M')に7901(T)-7801(Mc)を繋いだ5両編成であったが、1972、 73年に7101(Tc')を増備し4両基本編成になった。これと7801形三次車を組めば美しいのだが、阪神は運用上、区別せず、「経済車」と組んだり したから、「凸凹」編成になってしまった。

いつのまにか7801形三次車との固定編成になったと思ったら1990-2年に2000系に改造された。スカート装着や幌廃止など 不満があるが、新5001形、5131、5331形も含む不満点は、最前部に、角張った冷房機を増設してしまったことだ。写真に撮っても美しくない。如何 にオリジナルデザインが良かったかと再認識させられる。

1983.7  電鉄須磨?

1985.8.14  淀川

 

5261形(冷 房増備車)


1998.8.1 淀川

1970年に製造され、万博に間に合った冷房車は、7101-7001-7002-7940-7840の第一編成と、この5261 形2次車(5271-72、73-74)の2編成だけであった。(7001形第二編成は8月竣工だが組む相手が無かったはず・・)

同じ5261形に含んでしまうのが、職人気質の阪神らしいが、サイリスタでないものの無接点化された制御装置に冷房、「経済車」と 決別したデザインと、全く別形式にしても良いと思う。

車体は7101と同じだが、ドア間三枚側窓、客室両開き扉は、ジェットカー専用デザインだったので、どちらかというと、7101形 が急行形のくせに普通車になってしまったという感じだった。

1977年新5001形まで、普通車唯一の冷房車だったので、これが来ると嬉しかった。万博に行くときに偶然これに乗ったのが記憶 に残る。また写真写りも良かった。以降のジェットカーが4両固定化され、行き先表示幕を付ける中、オリジナルデザインを守ったが、2000年、あっけなく 廃車になった。筆者としては5261形一次車なんかより、よほどさよなら運転をして欲しかった。

1998.8. 大石

1985年8月15日

 

3901- 3801形


1982.4.6 魚崎

(1次車)1974年に4両固定編成の2編成が竣工。

7001形の増備、7601形の改造などがあったとはいえ、しばらく新形式が出なかった。そこに出てきた新車は、抵抗制御車であ り、一歩後退したように言われた。

西大阪線の延長時に見込まれる急勾配を想定して、出力増強と抑速ブレーキが付いた、という触れ込みだったが、「ほんまに出来ん の?」というまま、未だに西大阪線は難波にたどり着いていない。むしろ急行形で初めて空気ばね台車がついたということが乗り心地で大きな進歩だ。阪神は急 行形より普通形の方に上等な車両を使う庶民の味方だったが、ここへきてやっと急行形にも奢ったわけだ。

車体が7001形と同じ、などと当時雑誌に出たりしていたが、一見して全高が下がって、阪神電車のデザインの完成形となった。しか し以外にもこのデザインの急行形は3801形のみなのである。筆者は、「鉄道ファン」200号記念に載った電車の顔のなかで、3901形に特急板、行き先 表示板のついた写真は、数ある電車の中でももっとも整った絶妙なデザインだと思う。

行き先表示器は後で改造でついた。この第一編成(3901-3801-3802-3902)は原因不明の脱線事故を起こし、廃車に なった1986年、編成の組み替えにより形式を8801形に変更した

1984.5.1 魚崎

1984.5.4 魚崎-青木

(2次車)1977年、一編成竣工。久しぶりの新車なのに同じ形式だった。

行き先表示器が(新性能車では)初めて付いた。おそらく他の形式の改造も考慮しての設計だろうが、正直、初めて写真を見たときは、 もともとのデザインを崩して、かっこ悪いな、と感じた。しかし、実車を梅田駅で見て、全く考えが変わった。小さくて見にくいと感じた正面の行き先表示も梅 田なら、人の頭の上に見えて、電照が映えて見やすく、側面も種別と行き先が同時に見えるので、阪急のような別表示よりも見やすいのだ。

ただ、正面表示幕のまわりが一段出っ張っていて、これはいやだったが、7001形ではすっきり収まった。また一次車も表示器の収ま りが良くなっている。

3901形(Tc)のみ、運転席を拡張するため車体長が100mm延長されている。これは同時期の新5001形、そして5131、 5331形に受け継がれたが、肝心の3801形はこれで打ち止め、8801形と7890形に分けて形式変更されたときに、2次車の3901がなぜか生き別 れになってしまった。

筆者が考える阪神電車新性能車の完成デザインがこの3801形と改造前の5131、5331形である。

 

3000系 (3001,3101,3201形)


 

1985年8月15日 甲子園

この形式もついにここに書かなくてはならなくなった。

1983年から89年までかけて、7801(Mc)-7901(T)形+3521(Mc)形の三両固定編成になっていたものを改造 した。改造後は3101(Mc)-3001(M)-3201(Tc)になったので、神戸側の制御車はモータが無くなった。また、阪神は車番末尾偶数車が神 戸方に統一されているが、この3000系は編成単位で末尾が決まっているから、神戸方の奇数車も存在する。基本的に大阪方奇数編成-神戸方偶数編成の6両 編成だったので、奇数制御車が神戸方や、偶数車が大阪方に出ることはほとんど無かったはずだ。

肝心の改造内容は、主電動機を複巻式に交換し、界磁チョッパ(回生・抑速ブレーキ付き=電気ブレーキなので3000番台になった) になったもので、この方式が8000系に発展する。

8000系が出来るまで、阪神にとって最新形式だったが、経済車の外観は変わらず、どう見ても古くさかった。

1983、4年頃高校野球シーズンでのTBS「ザ・ベストテン」の第一位松田聖子が甲子園駅から阪神に乗って歌う中継があった。阪 神電車が全国中継に出るのは高校野球のニュースくらいだったから、筆者は期待して見たが、車両がこの3000系で、しかも回送のスジなのか、最高速に達し た車両は揺れに揺れて、松田聖子がよろめいて結局席に座って歌った。これでは阪神が乗り心地が悪いと言っているようなもので余計なお世話ながら逆宣伝に なったのではと心配してしまった。

2003年3月、最後の一編成が廃車になってしまい、武骨な顔の阪神電車は西大阪線を走る7861形だけになった。

 

1996年7月 淀川


 

8701・8801・8901形

 


   
2000年5月 甲子園


2007年5月 尼崎

3801-3901形は、1974年製の第一、第二編成と1977年製の第三編成の合計12両あった。
しかし、第一編成が1985年原因不明の脱線事故を起こし、1986年、第一編成のみ廃車になった。同時に六両編成を組む相手である3501形の廃車も あって、残る8両の編成替えと形式変更があって誕生したのが、この8801形と先述の7890形である。

3801形の項でも書いたように、筆者は、昭和30年代から続く阪神新性能車の完成デザインとして評価しており、六両固定編成が全 て共通ボディで統一されたことが嬉しい(当然のことなのだが)。

し かし、阪神社内ではこの一編成のみとなった8801は「ニセ8000」と呼ばれているとか。確かに千番台の8は本来界磁チョッパ車の8000系のはずで、 なぜ3801のままにしなかったのかというと、ファーストナンバー3801,3901が廃車になったからとしか考えられない。

ところで、種車の3801が第二編成と第三編成で若干の違いが有り、先頭車 の長さが100mm長いのだが、外観上は前面行き先表示器の周囲が一段出っ張っているのが第三編成の特徴である。8801にする際、梅田側三両が第二編 成、元町側三両が第三編成なので、そのまま8901と8902の違いになっている。

性能に問題はないはずだが、直通特急に使われることもなく、普段は準急、急行に使われている。

貴重なオリジナルデザインとして、末長く使われて欲しかったが、なんば線開通間近の2009年2月廃車になった。


これ以降、阪神は固定編成の思想に変化し、8000系が外観が変わっても、形式は変わらなかったのに、この頃の阪神電車は2両だけでも動力系か ら設計変更していたのだ。車両数の割に多くの形式が存在したのだが、今は数形式にまとまっている。武庫川車両が無くなって、これからどうなるのかわからな いが、今後も「技術の阪神」を堅持して欲しい。

参考文献

 


 

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