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祝!!阪神電車なんば線開通

祝!WBC、日本優勝!

(ちょっと阪神藤川の調子が気がかりですが)

甲子園球場はリニューアル工事が終わり(外構工事は継続)、選抜高校野球が始まり まし た。

これで野球人気が上がり、阪神優勝につながることを期待します。

さて、阪神タイガース本拠地である阪神甲子園球場は阪神電車甲子園駅が最寄り駅です。一 方、大阪ドーム球場(今は「京セラドーム大阪」)は阪神タイガースが高校野球開催時にはホームグラウンドとする球場ですが、もともとは「大阪近鉄バッファ ローズ」の本拠地でありました。

この阪神、近鉄ふたつの鉄道の間には50年以上前から、相互乗り入れの計画がありました が、実現できずにいました。それが2009年3月20日、阪神「なんば線」の開通により、乗り入れが開始され、その象徴のように、「甲子園」駅と「ドーム 前」駅が一本の電車で行き来できることになりました。

筆者は、小学生の頃にこの計画を知り、楽しみにしていました。それが今になって実現した ことに思い入れを持って、現地へ旅行してきました。

そんなわけでまあ、今回の文章、ちょっと思い入れの強いところは、勘弁してもらって見て やってください。

  

2009.3  NAKA-MA



阪神電気鉄道は1905年4月12日に大阪-神戸間を走る「インターバン(都市間 交通)」として100年を超える歴史を持つ。経 営上は、2005年の株屋の蛮行を阻止するため阪急阪神ホールディングスになっているが、阪神の難波延長がそれより遥か以前から計画されてきたもので、あ の騒動はこの計画を見越した株価上昇を狙ったものであった。阪神がどれほど難波延長に執念を燃やし努力してきたか、以下に記すことによって、かの騒動がい かに金の亡者の愚かな行為だったかを知っていただきたい。


2009年3月20日の阪神三宮駅3番線は、それまで、本線のホーム1、2番線に対し閑散としていた状況が一変した。
奈良方面の掲示がいよいよ開通したことを示す。


3番線は、三宮駅が開業した1933年、終着ターミナルだった頃の面影を残す終端 ホーム。



そこに近鉄電車が入線する。試運転とは違い営業車が来たことがこれほど違うことだと は。活気のある3番線ホームは初めて見た。
ちなみに数年後には三宮駅は改修され、この3番線は元町に貫通する。昭和の雰囲気を残すこのホームで難波延長を迎えることはある意味強引なことなのだが、 古い人間にはうれしいことだ。






この日から営業を開始した三宮ー奈良「快速急行」は、三宮から尼崎まで阪神本線、尼 崎から西九条まで阪神「旧・西大阪線」、西九条から難波まで新線「なんば線」(尼崎から難波までを改称)、難波から奈良までが近鉄奈良線を乗り入れして直 通する。約70kmを約80分(時間帯による)で走破する。



阪神電気鉄道のなんば線を語るには、1928(大正13)年に遡る必要がある。その1月に大物(だいもつ)ー伝法(でんぽう)、8月に伝法ー千鳥橋を開 業、「伝法線」とした。この新線計画は1911(明治44)年に特許取得したが、第一次世界大戦後の不況と多くの河川を渡る難工事のためであった。

伝法線の目的は今と違って、本線の急行線建設であった。
そもそも阪神本線の建設に当たっては、軌道法によって敷設が認可された。軌道法は「路面電車」であったが、”軌道のどこかが道路についていたら良い”とい う内務省の広義の解釈によって、ほとんどが専用軌道、住吉ー御影付近、神戸三宮付近のみ併用軌道となった。のちに改良されるのだが、いずれにしても本線は 集落で乗客を拾いながら走る路線であり、高速運転には適さなかった。(それでも最終的には梅田ー三宮間約30kmを25分で走ることができた。これは現在 の32分よりも速い)
省線、阪急に対抗するには本線と別に急行線を建設し、本線は格下げする構想だった。

そして、後になって各線が複々線化、またはターミナルを分散化したが、もともと阪神は輸送力増強を早くから検討しており、梅田地下駅が1939(昭和 14)年に建設されたときに複々線に対応していたのである。そのための布石として、伝法線を開通させ、千鳥橋から野田方向へ延伸する計画だった。




さて、写真は筆者のかつての”ホームグラウンド”魚崎駅。
かつて40年も昔、がらがらの西大阪特急が高速で通過して行ったのを見た駅だが、ついに近鉄電車も「快速急行」として停車することになった。



大震災の前には、明治の面影を多く残す家や松が見られた駅だが、すっかり変わった。
そしていよいよ高架化工事が進展して、明治時代からの線路が切り替えられる。
(この写真は筆者の良き鉄道仲間、息子の撮影)





こちらはかの有名な甲子園駅。
尼崎までは、阪神本線の特急、急行、普通、そして山陽電鉄の直通特急が走っており、そこに近鉄も乗り入れてくるわけで、多種多彩な車両が見られることに なった。
ちなみに阪神だけでも急行系と普通系で性能が違い、さらに鋼製とステンレス製車体の差、旧塗装と新塗装という車両が混在しており、鉄道好きには楽しい路線 になった。



甲子園から武庫川までも歴史のある地上区間だが、ここも高架化工事が始まった。戦前の阪神の写真も同じ構図のものがあるほど有名なポイント。従って、ここ に近鉄電車が走るということは感慨深いとともに貴重な写真になるだろう。





終戦後の1946(昭和21)年に伝法線の延伸計画、千鳥橋ー西九条の特許申請が行われ、二年後に西九条ー難波の申請が行われた。これは先述の梅田からの 急行線計画を破棄し、同時期に申請された近鉄の上本町ー難波間の延伸に呼応して、相互乗り入れを想定したものだった。

まだ大阪環状線は無かったころであったが、当時の大阪中心部は大阪市営の地下鉄と市電により独占されていた。地下鉄御堂筋線の梅田、淀屋橋、本町、心斎 橋、難波はそれにあたる。
従って各私鉄のターミナルは分散したままで、移動には必ず市営交通を使わねばならなかった。大阪市はこの利益を守るために、各私鉄の延伸計画にことごとく 反対した。

阪神の申請にも反対したのだが、大阪市営地下鉄の4号線=中央線は、たしかに現状では九条から生駒まで、競合する。しかし、中央線の開通は1961(昭和 36)年、しかも九条付近は1964(昭和39)年であった。
1958(昭和33)年にようやく都市交通審議会でこの方針が変更されたのだが、大阪市電はすでに道路渋滞によりマヒ状態で、戦後の復興再開発も進んだ後 では、私鉄の中心部延伸も容易では無く、結果的に大阪の交通網は東京に比べ相対的に弱体化が進むことになった。

ともかく、阪神の千鳥橋ー西九条間のわずか1.2kmは1964年に開通、西大阪線となった。西九条は大阪環状線も開通しており、不十分なものの梅田本線 のバイパスとして機能することとなり、阪神は「西大阪特急」(N特急)を1965年より運行を開始した。
この特急は阪神史上最も快速の表定速度70km/hをマークしたが、乗客は伸びず、1974(昭和49年)に廃止される。だがこの特急は、難波延長を見越 した設定だったのに、肝心の延長のめどが立たなかったのが廃止の原因になった。
皮肉なことに、西大阪特急の快速ぶりは、元来の急行線計画により本線よりも直線の多い線形になっていたことによるものと、運転本数が少ない”ローカル”線 だったことによるところが大きい。




なんば線淀川鉄橋を近鉄車が走る。
この鉄橋は大正時代から変わっておらず、阪神の試運転電車の写真はここで撮られたものが多い。それがいよいよ第二の本線として機能することになったわけだ が・・、ちょっと水面ぎりぎりで、潮位の上がった時は水門が閉じると鉄橋は使えなくなる。






1967(昭和42)年には西九条以遠の着工がされたが、「九条駅出入り口について付近の商店街の利害が対立し、反対運動が起こったため、工事着工を中 止」した。
筆者がこのことを知ったのは、鉄道ピクトリアル303号阪神電気鉄道特集(1975年2月臨時増刊号)であった。奇しくもこの号の表紙は当時の最新鋭車 3801形だった。

3801形は、1974年に新造された「急行系赤胴車」である。これは4両固定編成で阪神最強の130kWの電動機出力、急行系では久々の「電空併用ブ レーキ」さらに勾配に対応した「抑速ブレーキ」付きであった。この仕様は、西大阪線の西九条から九条にかけての急勾配に対応するためであり、新製当時の鉄 道ピクトリアルに「難波延長対応」と記載されており、これにより小学生だった筆者ははじめてその計画を知った。が、高価だった雑誌は買えず、友人に借り て、記事にあった3801,3901の図面を模写したのだった。


それから、何年経ったのか、阪神タイガースの優勝と難波延長、どちらが先か、なんていう冗談も、とうの昔にタイガースの優勝、そして低迷が続き、そして地 震、不況。

2001(平成13)年、「上下分離方式」により国の補助金が出ることになり、「西大阪高速鉄道」設立。この第三セクターが建設することで2003(平成 15)年着工となった。
奇しくも阪神タイガースセリーグ優勝の年。
そして次の優勝2005年、阪神電気鉄道100周年の年に、なんと、あの先述の忌まわしい騒動が起きたのである。
あれはなんだったのか。

この長い長い阪神の歴史の中で、なんば線に関わる歴史だけでも80年に及び、それを辛抱強く実現に向けてがんばってきたこと、これは容易なことではない。 ただ歴史が長いだけでは意味が無い。それが80年にも及べば、何代にも渡る社員が関わってきたわけで、当然それが変化し、無くなることもあるわけで、むし ろその方が可能性が高いのである。しかも、国、市、民の外部障壁に遭いながらである。
その継続性をもたらしたのは、会社の中にある先輩から後輩への伝承、受け継がれた執念だったのかもしれない。
もう諦めたとも言われていた事業が、ついに、完成したのである。

このことに筆者は深い感銘を覚える。




新しい駅「ドーム前」。
吹き抜けの明るい駅は、球場へ向かう野球ファンの心も明るくするだろう。



終着の近鉄奈良駅に到着した阪神”新”1000系電車。(小型車時代、”千公”と呼ばれた1000形があった)



しかし、これが終点ではない。
今回は開通日とその翌日の三連休中だったが、ダイヤが乱れっぱなしだった。習熟して問題は無くなるだろうが、肝心のダイヤがあまりに遅い。
尼崎から難波、鶴橋までに待避線が無いため、緩急運転が出来ず、一部快速急行が西九条ー尼崎間でノンストップ運転するものの、基本的に続行運転である。か つては千鳥橋に待避線の計画があったのだが、仮に実現していても当時の2−4両編成用ホームでは使用できなかっただろう。
ここは以前計画にあったようだが、1000系9000系を「ジェットカー」並に加速度を上げてほしい。VVVFとなった現在、5500系と9000系の仕 様はM車の比率くらいで大きな差はない。制御の切り替えでかなり対応可能だと思われる。

次に、近鉄線内8−10両編成を尼崎で開放あるいは連結し阪神線内6両とする作業時間が問題だ。京浜急行や東北新幹線でもすでにこのような頻繁な連結開放 作業はされているが、ともに「非貫通」だ。
阪神は、おそらく地下線内火災対応のためだと思うが、貫通幌をかける。乗客は自由に行き来できることで良いことだが、問題はその作業に時間がかかること だ。かりにダイヤ通りだったとしてもイメージダウンだ。
すでに西宮、尼崎は10連対応になっている。
先述の三宮駅がリニューアルされた暁には、10連のまま、かつての「N特急」そのままに、快速を飛ばしてほしい。そういう計画であることを期待する。



さて、途中で述べた西大阪線延長用車両であった3801形であるが、紆余曲折の末、8801形として2009年2月、廃車となった。すでに省エネ、高性能 な新型車両に大きく見劣りがすることが問題となったのであろうが・・。昭和後期の阪神電車の完成デザインとして筆者はひいきにしていた車両だけに、せめ て、さよなら運転を、まだ見ぬ難波までさせてやってほしかった。
会社も人間も、車両も、時代をかさねた結果の開通だったことを思いにとどめたい。

この写真が筆者の見た最後の3801(8801)形であった。



阪神電車は、筆者の鉄道趣味の原点です。それが進化して行くことは大変うれしくもあり、若干さみしくもある、そんな気持ちになる今回の阪神旅行でした。


 

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