東京には大雪が降った言うのに、それもドカンと上等な大雪だったと言うのに…
スキーに行かれずイジイジしていたGBでありました。
冬休み、春休み、あるいは休暇で、スキーに出かけた人もいるだろうけど…
(息子は合宿とやらでしょっちゅういない:ちなみにスキー部) オリンピックも終わってしまい、季節柄スキー番組もなく、TVともお友達になれない。
まぁ、冬のオリンピックは一部の種目を除いてはそうそうメダルは望めないと思っていたのが、今回は凄い事になったけどね。TVと言えば、私が子供の頃、冬になると毎週日曜日の午前中「小島マサオの“スキーは楽し”」と言う番組がとても楽しみでした。(漢字覚えていない↑)
昭和30年代終りから40年代にかけてなのでもちろんモノクロでしたが、いま思うにスキーとそれを取り巻く世界は随分と優雅な味わいのあるものだったように思います。要するに“粋”だったんだよなぁ。
時代的にはトニー・ザイラーから加山雄三につながる部分だと思います。ウチはハッキリ言って裕福では有りませんでしたが、親父が遊び人だったせいで、当時の貧乏人としては珍しくスキーにも連れて行って貰っていました。
一般人でスキーをやる人は増えては来ていた頃ですが、まだまだほんの一部。
雑誌の連載漫画の主人公達も冬になるとスキーに挑戦するのですが、漫画家だってほとんどの人がスキーなんぞ触ったこともなかったのでしょう。いま考えるとスキーに関する描写はトンでもなくイイ加減なものでした。
もちろん、当時は3C(*)の前時代で当然車でスキーなんてぇ人は本当に限られたごく一部だけ。もっとも、高速道路はおろか県道レベルでも未舗装の方が多いくらいでしたから、車そのものの未熟さもあいまってスキードライブは殆どアドベンチャーの世界に近かった事は想像に難くありません。(ウィンドウォッシャーやヒーターがオプションなんてのだって珍しくなかった)
(*カー、クーラー、カラーテレビが三種の神器と言われた) 普通のスキー行はと言えば、当然夜行日帰り、もしくは半泊と言われるスケジュール。仕事の終わった土曜日の夜、上野からの夜行列車の通路で眠り、深夜もしくは明け方スキー場に到着する。
夜行日帰りは車中仮眠で半泊は一応数時間は宿で仮眠するわけです。
宿とは言っても大方は今では考えられないような木賃宿。ガラス戸の隙間から雪が吹き込むなんてあたりまえ。
寒ければ別料金で豆炭アンカや湯タンポを借りるしかない。
少し時代が進むとスキーヤーズベッド。
こちらは名前こそ格好良いものの、要するにタコ部屋。大広間か体育館のような場所に蚕棚の様にベッドが並べられていました。
(これは20年位前まではまだ存在した) しかし、眠る所に到達できればまだましで、夜間に列車から降ろされて、ガタピシのボンネットバスに揺られ、下手をするとバス停から更にかなりの距離ラッセルを強いられる様な場所もありました。
当時の典型的スタイルは、トックリセーターに今言うところのノルディックセーター、黒のトレンカ(最近復活の兆しあり)にキルティングのヤッケ。
最後の締めに帽子は正チャン帽か毛糸のヘッドバンド。
スキーはヒッコリーの単板を最上とし、締具はカンダハー。(お金持ちがそろそろステップインを使い始めた)
ストックはトンキン竹の六角ポール、バスケットも当然籐のリングを皮で止めた物。
(子供用は竹竿そのまんまだった) 登山靴と同じ作りの革スキー靴(子供用はゴムだった)を靴紐でキリリと締め上げて、サブザックや小キスリングに荷物を詰めて玄関からいざ出陣。
(ウチは当時からアプローチにはゴム長を使ってスキー靴で歩く事はしなかった) 流石にそうはお金がなかったのか、現在のように子供用のウェアが売られていなかったのか、その辺りは定かではありませんが、私は上から下までお袋の手作りを着ていました。
こうやって書いて来るとなんともシミったれて貧乏臭く、悲惨なレジャーに見えてしまいますが、スキー場そのものになんとなく気品があった様な気がします。
いまだに「山とスキー」と並列で言われる事があるように、当時は本当に山登りと密接につながりがあって、スキーの世界も山屋の世界と共通の美学を持っていたのです。
つまり、かつてのスキーにあった優雅な味わい、“粋”と言うのは物質や金銭的なものではなく精神的な物に基づくものだったのではなかったかと思うのです。