愚行連鎖 Martin Style18一寸研究

GB楽器博物館

Martin OM18V(2002)

Style18の使い手達:2

Clarence White

☆Clarence White

クラレンス・ホワイトはカントリー音楽史上、もっとも才能豊かで、もっとも過小評価をされているギタリストのひとり。彼はケンタッキー・カーネルズやナッシュヴィル・ウェストの一員としての活動を通じ、意識せずしてカントリー・ロックの礎を築く手助けをした。68年の秋、ホワイトはザ・バーズに参加、平行してセッション・ミュージシャンとしての活動も続け、ギタリスト、ジーン・パーソンズの手を借りて汎宇宙的なアメリカン・ミュージックの発展に助力したのだった。キャリアの晩年にはカントリー/フォーク/ブルーグラスのバンド、ミュールスキナーに参加。音速を超えるがごときピッキングの技を十分に披露した。そしてクラレンス・ホワイトを語る際、欠かせないのが、ジーン・クラークと共に開発したセカンド・ストリング・ショルダーストラップ・ベンダーという独自のチョーキング装置である。この装置を効果的に使用し、数々の名演を生み出していった。さらに、彼の優れた編曲能力も忘れてはならない。例えば、ザ・バーズが演奏した古い伝承歌で、ホワイトの代表作として知られる「ファーザー・アロング」などは彼が編曲を手がけている。酔払い運転の車との交通事故が、弱冠29歳でホワイトの命を奪ってしまった。
goo音楽情報より



Clarence Whiteと言えば、大穴のD-28と言う印象があるが、実はケンタッキー・カーネルズ時代の初期には'52製D-18を使っており、これをモデルとしたシグネチャ・モデルもMartinのカタログには載っている。
これは、かつて彼が使っていた'50年代の18をモデルに、彼ならこうカスタマイズするだろうと言う想定で作った物だそうだ。
ちなみに、デカ穴ではない。

本論には関係ないが、「弱冠」と言う言葉は本来『男子20歳の称。古代中国で、男子は20歳で元服し、冠をかぶったことから』と言う意味であり、現在では『男で、年の若いこと』としても決して間違いではないが、29歳のホワイトを弱冠と言うのはいかがな物か。
夭折とか夭逝とか他にも言い回しはあるだろうに…

情報提供:The Cat's Eyes Guitars World
Webmaster levante40さん


Bob Dylan

☆Bob Dylan

フォーク/フォーク・ロック界のロンリー・ゴッド、ボブ・ディラン。ライト&メロウなAOR、カタルシス全開のハード・ロック、ダンサブル&スウィートなR&B……といった、いわゆる「使える音楽」から、数千マイル離れた極北に位置し、その孤高の存在感でもって全世界に(私財をなげうつほどの)熱狂的なファン/マニアを数多く有する。ぼくらは何度、彼の“コクのある歌”に救われたことか…。ぼくらが彼を敬愛して止まないのは、ひとえに「自己の表現欲求に対する猛烈なまでの真摯さ」ゆえだろう。例えば、保守的なフォーク・ファンから猛烈な罵声を浴びつつも、勇敢にエレキ・ギターを手にして生み出した、65年発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』『追憶のハイウェイ61』--ちなみに当時、ロック・バンドを率いた初のツアーにおいて、名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」はジミ・ヘンドリックス並みの爆音でカッコよく演奏されたという。そして、ザ・バンドとの魂の交流が生み出した『プラネット・ウェイヴズ』、結婚生活の破綻による苦悩に満ちた『血の轍』などなど(挙げれば本当にきりがない)……。それら至高の作品群に触れれば、彼がいかにシリアスに音楽と向き合っていたか、一目瞭然である。また、メロディ/アレンジは演奏するたび大胆に変更され、熱心なファンでさえその曲が何なのか即座に判断できないらしい。つまり、己にもっともジャストな表現を求めて止まないのだ。現在も依然、輝き続ける生涯現役のロック詩人ボブ・ディラン、この先最高傑作を生み出す可能性は十分にある。
goo音楽情報より



(levante40さん)
94年ギターマガジンのマーチン特集でボブ・ディランが000-18を抱えてキース・リチャードとロン・ウッドに挟まれてプレイしている画像がありましたよ。ライブ・エイドの画像のようですね。
特に解説が無いため、ひょっとして000-21かもしれませんがね。(笑)
キースとロンもマーチン(00-45とD-28かな?)を使っていますよ。


情報提供:The Cat's Eyes Guitars World
Webmaster levante40さん
写真出典:ギターマガジン'94(号不明)

Elvis Presley

☆Elvis Presley

1人の若者が全ての始まりだった。そう、彼が母親の為に録音した1枚のシングルが……。それをたまたま耳にした<サン・レコード>のオーナー、サム・フィリップスにチャンスを与えられたプレスリーは、ロカビリーの誕生を高らかに告げる名曲の数々をレコーディングしていく。スコッティー・ムーアの豪快なギャロッピング・ギター、ビル・ブラックのビシバシのスラッピン・ベースをバックに、プレスリーが黒い喉を駆使してヒーカップ&マンブリング唄法を繰り出す。ここにはロカビリーの全て、すなわち、パンク/ガレージ/ロック/ブルースといった多様な音楽の種子が内包されている。計らずも、メンフィスの十字路で偶然の一致が重なり行われたセッションが、その後の世界に与えた影響といったら……。メジャーに移籍したプレスリーは、「ハートブレイク・ホテル」「冷たくしないで(Don't Be Cruel )」「ハウンド・ドッグ」とビッグ・ヒットを次々に放ち、その存在は社会現象にまでなった。50年代後半より一時期、軍隊に招集されるものの、60年代には華々しく復活。スターの座を揺るぎないものにする。が、コアなファンの間では、入隊を境に評価が分かれるのも事実。70年代のラスヴェガスでのショウなどは、単なる懐メロ・シンガーになりさがったと酷評する者も多い。しかし、ジェームス・バートンを始めとする名うてのミュージシャンたちに支えられた作品を聴けば、良質のブルー・アイド・ソウル〜スワンプ・ロックであることは明らか。エルヴィス・プレスリーはその全キャリアを通して“キング・オブ・ロックンロール"なのだ。
goo音楽情報より



2003年7月31日(木) S.フィリップス氏死去
プレスリー発掘の名プロデューサー
サム・フィリップス氏(エルビス・プレスリーを発掘した名プロデューサー)30日、テネシー州の病院で死去、80歳。死因などは不明。

 同氏は1952年、米テネシー州メンフィスで「サンレコード」を創設。54年、エルビス・プレスリーが最初にレコーディングした「ザッツ・オール・ライト」「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」などをプロデュースするなどプレスリーのプロデビューに尽力した。86年、長年の功績が認められ、米国の「ロックンロール名誉の殿堂」入りを果たした。(メンフィスAP=共同)

まぁ、プレスリーと言えば、その名を知らない人はまずいないだろうが、こと、使用していたギターと言えば、個人的にはやはりギブソン・ジャンボとかアーチトップのイメージが強い。
しかし、初期のサンレコード時代には'42製D-18と共に彼の音楽はあったのだ。


情報提供:The Cat's Eyes Guitars World
Webmaster levante40さん

Buffy Sainte-Marie

☆Buffy Sainte-Marie

バフィー・セントメリーは、純血クリーク族インディアンとして生まれ、貧しくて孤独な少女期を過ごした。幼くして両親と死別したこともあり、宗教と哲学に深い関心を持って、特別給付生としてマサチューセッツ大学に進んだときも東洋哲学を専攻している。
学業の余暇にはインディアンの民俗楽器を駆使し、フォークロアを歌ってキャンパスの人気を集める.卒業後、グリニッチ・ビレッジでフォークシンガーとしての修業にはいる。
1964年に[ニューポート・フォーク・フェスティバル]に招かれるという新人にとっては異例の出来事があり、アメリカで最も人気のあったフェスの晴舞台で、バフィは[Codeine]という麻薬患者の悲惨さを歌った曲を披露し、強烈な個性で聴衆を圧倒した。
その曲の成功がきっかけでヴァンガードと契約し、LPを何枚かリリースした。'70年には万博のユニセフ基金公演のために来日している。
ドノバンの[Universal Soldier]、グレン・キャンベル[Take My Hand]の作者がバフィだと言うことは意外と知られていない。
多くのポップスファンは、映画「ソルジャー・ブルー」のテーマ曲を歌ったエキセントリックな女性歌手として記憶しているだろう。

1971年Vanguard版「ソルジャー・ブルー」「イルミネーション」ライナーノーツより



私(GB)にとって、「ソルジャー・ブルー」のテーマ曲のシンガーとしてはもちろんだが、なんといっても「いちご白書」で歌われた“The Circle game”の印象が強烈である。
その後、荒井由実が作った“いちご白書をもう一度”が、ばんばひろふみと今井ひろしのデュオ「バンバン」でヒット。は…バフィーとは無関係である。

(“教授”Yoshidaさん)
この写真からはD-18ではないかと推測される。

情報提供:おやじの応援団名古屋、“教授”Yoshidaさん

Brothers Four

☆Brothers Four

ブラザース・フォーは、60年代初期に絶大な人気を誇ったフォーク・ポップ・グループ。
ワシントン大学の学生グループ達で結成され、リリースした“グリーン・フィールズ”が大ヒットする。
健康的で明朗なイメージとさわやかな歌声でフォーク・ブームのスターとなり、一世を風靡した。
我が国で巻き起った「カレッジ・フォーク・ブーム」でも、多くのアマチュアが彼らを、音楽だけでなくそのファッションまでも手本にしたもので、町中にストライプのボタンダウンシャツに生成のコットンパンツ、コインを挟み込んだローファを履いて、ギターケースを持った若者が溢れた。
“グリーン・フィールズ”、“七つの水仙”、“花はどこへ行ったの”、“グリーン・スリーブズ”、“パフ”、“500マイル”、“トライ・トウ・リメンバー”、“サンフランシスコ・ベイ・ブルース”、“わが祖国”、“ジョンB号の難破”、“グリーン・リーブズ・オブ・サマー:映画「アラモ」主題歌”、“天使のハンマー”、“北京の55日”、“グッドナイト・アイリーン”、“漕げよマイケル”等々…
ブラザーズ・フォーの代表的な曲は誰でも一度は聴いたことがある物ばかり。




写真では0-18T,00-18が確認できる。
カレッジ・フォークはお金持ちボンボンの道楽と取られることもあるが、流石に'60年代、国内では貝の入ったMartinなど、手に入れられる学生はそうはいなかっただろうことは想像に難くない。


情報提供:おやじの応援団名古屋、“教授”Yoshidaさん

Nitty Gritty Dirt Band

☆Nitty Gritty Dirt Band

ニッティー・グリッティー・ダート・バンド。
デビュー前のジャクソン・ブラウンが一時在籍していたことでも有名だが、5人の芸達者なミュージシャンが繰り広げるカントリー/ジャグ/ロックン・ロール/ケイジャンまでをも呑み込んだサウンドは圧巻の一言。フライング・ブリトウ・ブラザーズと共にカントリーをポップ・フィールドにもち込んだ功績は、余りにも大きいといえるだろう。70年に発表された『アンクル・チャーリーと愛犬テディ』は、同時代のシンガー・ソングライターやカントリー・クラシックを取り上げ、過去と現在をつなぐネクスト・レベルへ向かうヴェクトルを示した傑作となった。続く72年の『永遠の絆』は、マール・トラヴィスやドック・ワトソンといったカントリー界の大御所たちを迎え、2世代共演を果たしたカントリー版ファーザー&サン--または、マウンテン・ミュージックとカントリー・ロックの幸せな結婚とでもいうべき作品で、ロックとカントリー両ジャンルにまたがって現在も絶大な影響力を誇る。また、80年代以降はカントリー・フィールドで活動を続けている。
goo 音楽より



写真に見えるのはD-18だろうか?
名盤「永遠の絆」ではアール・スクラッグスのD-18も聴くことが出来る。
どちらにしても、楽しく賑やかな彼らの音楽、楽器もゲストもとっかえひっかえ、この際楽器の型番などどうでもいいやと思ってしまうGBであった。


情報提供:おやじの応援団名古屋、“教授”Yoshidaさん
Elizabeth Cotten

☆Elizabeth Cotten

エリザベス・コットン
60歳でデビューし、名曲“Fright Train”を残した。
通常のギターを左右逆に構えるサウスポーのギタリスト。
若きボブ・ディラン憧れのフィンガー・ピッキング名手だったと言う黒人女性フォーク歌手。ジョン・フェイヒイにも大きな影響を与えたとの事。
1895年1月5日、ノース・カロライナ州チャペル・ヒルにジョージ・ネヴィルと ルイーズ・プライス・ネヴィルの間に4人兄弟の1人として生まれる。
8歳の頃、兄のバンジョー、その後には兄のギターを弾き始め、自己流で左手で弾く方法やコードを覚える。
1910年2月、15歳でフランク・コットンと結婚し1人娘リリィの母親となる。教会の仕事に携わり、その後25年間、教会のための短いものを除いてはギター演奏はあまりやらなかったらしい。
1940年代の始め家族と共にともにワシントンDCでの暮らしを始める。
1940年代中頃、迷子のPeggie Seegerを母親に返した事がきっかけで、Seeger(シーガー)家で働く事になる。
このシーガー家の主こそ「マイク・シーガー」、かのフォークシンガー「ピート・シーガー」の息子であった。
彼女は、シーガー家での生活でギターを弾ける事を思い出し、演奏を再び始めるようになる。
1958年、シーガー家で録音されたFreight Train and Other North Carolina Folk Songs and Tunes (Folkways)が発売される。
1960年、Mike Seegerと共に初めてのコンサートを Swarthmore Collageで行う。
その後、コンサートやツアーを続け、1986年 Grammy Best Traditional Folk Recording にノミネートされ、重要な75人のアフリカ系アメリカ人女性の1人にも選ばれる。

1987年6月29日、ニューヨーク州シラキュースで死去。
リバ・コットンと親しみを込めて呼ばれ、彼女独特の自己流ギター奏法はコットン奏法として多くのギタリストに影響を与えている。
参考:Mike Seegerによる彼女のライナーノーツ他

☆Mike Seeger

マイク・シーガー
5弦のバンジョーの名手であり、「花はどこへ行った:Where have all the flowers gone.」、「We Shall Overcome」「If I Had a Hammer」等でも知られる Pete Seeger:ピート・シーガーの息子。

南部の伝統的なマウンテン・ミュージックを唄い、演奏し、記録することにその生涯を費やしてきたマイク・シーガーは、伝統的なアメリカのバンジョー・スタイルを巧みに演奏することのできる数少ないミュージシャンのひとり。

MartinからもシグネチャモデルとしてElizabeth Cotten 00-18CTNが発売されていた。
クルーソンスタイルペグ、機関車をモチーフにしたインレイの入ったエボニー指板&ブリッジ、ロングサドル。
彼女はサウスポーだが、生前の彼女が愛用した右利きギター同様、このシグネチャモデルも通常の右利きタイプであった。
カラサワヨシアキ さんにご指摘いただきました。
(ライナーの翻訳、下線赤字部分)

E.CottonはPeteの父親のハウスメードさんですし、MikeとPeggieは異母弟,妹ですよね。

ご指摘ありがとうございます。
BBSでもお応えしましたが、英文の方は…そもそも私、学生時代英語は常に赤点でした。
好きなことでなきゃ、絶対に和訳を試みようなど考えません。
そんなわけで、結構苦心惨憺で訳しましたが、英語は肉親の関連性が判断が分かりにい言語で…、大誤訳だったようです。

整理すると…
Seegerファミリーは、民族音楽研究家(国会図書館民謡研究室員、音楽学者・作曲家・音楽評論家と言う肩書きもあったようです)のCharles Seegerと前衛作曲家であった彼の妻、Ruth Crawford Seeger、そしてその子供達、Pete、Mike、Peggy(彼女もフォークシンガーで、イギリスに帰化し、イギリスの民俗音楽復興にかかわっているらしいです。)と言うことになります。
Pete(実子ではない)とMikeの母、Ruthは結婚前は夫となるCharlesに師事していた、つまり弟子だったそうです。
こんな凄い家族ですから、Libba CottenことElizabeth Cottenの才能を見いだしたのも当然かも知れません。
PeteとMikeが異母兄弟であることは分かりましたが、残念ながら、MikeとPeggieが異母弟妹であることは確認できませんでした。

平さんという方のサイトにヘンリー・カウエル、クロフォード・シーガーからボブ・デュランまでと題したクロフォード・シーガー、チャールズ・シーガーとその家族についての詳しい記述を見つけ、こちらも参考にさせていただきました。

今後も当サイト内の記述間違えなど発見した場合はよろしくご指導くださいませ。
加筆:2004.12.4.


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