集落にほど近い里川にもかかわらず、この河原には人の気配は全くない。
手を伸ばせば届きそうな石の上で、こちらを向いた鶺鴒が例の調子で腰を振りながら朝の挨拶をくれた。
「おはよう!」
思わず声をかけると彼女はぱっと飛び立ち、少し離れた石に着地。それでも、むさくるしい侵入者への興味を、まだ失っていない。
最近は川の水で顔を洗うのがはばかられるのが悲しい。日常を脱出するためにこうしてここにいるのだから、そんなことは忘れることにしよう。1日や2日顔を洗わなくとも死ぬことはないだろう。
バッグからフランスパンを取り出し、手で無造作に割り、ナイフでちぎったチーズを挟んで頬張る。コンビーフの缶を開け、まるごと齧る。
魅力的な腰つきの小さな彼女はまだこちらを見ている。
「うまい!でも、君にはあげないよ」
珈琲カップを両手に包んで湯気を立てる液体を見つめていると、なんとなく瞼が重くなるのを感じた。濃厚な朝の大気は、かえって呼吸が苦しくなるほどだった。
寝汗をかいたせいか、それとも寝ているうちに虫でも入り込んだのか、背中が少しだけムズムズした。
生まれたばかりの日の光は柔らかく、木の葉を擦る風は朝の甘い空気を運んでいた。
水面を小さな白っぽい埃の様なものが流れて来た。
目を凝らすとそれは少し羽ばたいて、流れながらも自分の生命を主張している。
押し流されつつも水中から空へ、新しい世界に旅立つためにもがいている。
「こいつらにも悩みなんかあるんだろうか…。ただ偶然に命を得てしまったと言うだけで、その命が尽きるまで、生きるためだけに生きているんだろうなぁ…」
最初は一つ、次に2つ、命を持った埃達はだんだんとその数を増した。
飽きる事なく小さなもの達を見つめていると、いつしか水面を埋め尽くすほどの羽虫達が羽ばたきながら上流から流れてきた。
そのうちに本当に川面は一面の若い虫達で覆い尽くされ、流れる水すらも見えなくなってしまった。
妖精(ニンフ)達は水底の石の陰から手足を力一杯に伸ばしながら、絶望的な天蓋へと向かって突き進んで行く。あちらにも、こちらにも、そして、そこにも。
水中から真上を見上げれば、そこには水銀色に輝く天蓋が永遠に続く。
水をいやと言うほど飲んだみたいだった。
苦しさに負けそうになりながらも水銀の天井を目指して足を蹴り、ほぼ垂直に近く感じる角度で急浮上する。恐ろしい速度で水が下に向かって飛んで行く。頭の中でガンガン響いていた音は、圧倒的な壁に近づくにつれ、加速度を増して大きくなってきた。
運良く天界に至る途を見いだすことが出来た妖精(ニンフ)達は汚れた衣を脱ぎ捨て、濡れた五月の翅(メイ・フライ)をしばたかせ、一刻も早く更に高みへと昇ろうと、一斉に踊りだす。
既に天井を突き破って流れを漂っている事に気が付くと、急に背中が酷くむず痒くなってきた。ああ、これが天界への試練なのか。
背中が割れた!
殻から、折り畳まれて体液で湿っている翅を引きずり出す仕事は、並み大抵の使役ではなかった。古い外套を脱ぎ捨てるようなわけにはいかない。
身をよじり、もがき、のたうちながら、新しい体を今まで守ってくれたシェルターから引きずり出す。
微かな風の中で、しわくちゃの翅を小刻みに震わせ、未来への飛翔へと備える。
水面にピンと立った透明の翅は力強い生命の証。
ふと気が付き、辺りを見渡すと流れ一面に沢山の小さな翅が暖かい風を取り込んでいるのが見えた。
水の上はこんなにも明るく、こんなにも優しい風と光に溢れているものなのか。
もうすぐ飛べる!
そのとき、水中に大きな光るものがよぎった様な気がした。
今はまだ身動きをすることさえままならない。あと少し、あと少しなのに…
水中を遊弋していた大きな煌めきは、ゆっくりと狙いを定めると、行動を起こした。さっきまでの動きからは想像もつかない速度でこちらへ向かって来る。
恐怖や驚愕の瞬間からその時間は、とてつもなく間延びしたものになる。実際にはほんの一瞬の出来事が、耐えられないほど延々と続く、永久の時間のように感じられた。
分解写真の動きを見せながら顔全体を口にして、そいつは近づいて来る。
力一杯寄り目になった丸い大きな眼玉がしっかりこちらを身据えている。瞳の回りの星まではっきりと見て取れる位置まで接近している。
どんどん近づいて来る、死神そのものの大きな口が、一層開いたのが見えた。
…水面に大きな波紋を残して、水中の隠れ家へ戻る。
こんなに沢山の虫を見たのは、そして言い様のない至福の時を味わったのも、久しぶりだった。
食欲が満ちると不思議な幸福感が体一杯に広がってきた。
水の中は暖かい。隠れ家の回りの泡の中には、力の沸き起こる、若々しく清冽な水が満ち溢れている。
大きな岩の下は、外から差し込む光を程よく遮り、快適この上ない。空腹を忘れ去った今は、ひとしきり微睡むのにもってこいだった。
あとはこの素晴らしい領域を他所者に侵されないようにしていれば生活は万全。
なに一つ不満はない。
この辺り一巡りしても自分よりも大きな体をした危険な相手はまずいないはずだった。
うとうとと気持ちよく、眠るとも起きるともなく水中に浮かんでいると、目の前に美味しそうな虫が泳いで来た。
生意気にもこちらを伺っているようにふらふらと漂っている。
食欲は完全に満たされているのだが、本能はどうすることも出来ない。
その相手はどうにもおかしな動き方で、なんとなく危険なにおいを感じたが、頭で考えるよりも速く、体は既に反応してしまっていた。