GBのアームチェアCinema見ist:春を背負って

春を背負って

春を背負って

監 督 木村大作
出 演 松山ケンイチ/蒼井優/豊川悦司
脚 本 木村大作/瀧本智行/宮村敏正
音 楽 池辺晋一郎
主題歌 山崎まさよし 「心の手紙」
原 作 笹本稜平「春を背負って」
製 作 年 2014


今週日曜も一人で映画を見に行った話。
作品はGB大絶賛の海洋冒険物語「太平洋の薔薇」の作者のもう一つの顔。
山岳小説である。

が、他の著書とは異なり、高峰を目指すクライマーの話ではない。

奥秩父の小さな山小屋を舞台にした人間模様。
日本アルプスでも八ヶ岳でもなく、比較的マイナーな奥秩父を舞台にしているところが、この作品の肝のような気がする。

私はもはや引退したアームチェア・アウトドアズマンではあるが…
山小屋へ行きたい。山暮らしをしたいと思わせてしまうほど、情景が生き生きと描かれていた。

ほのぼのと希望がわいてくる佳作だ。
連作短編集という形式で、読みやすいのもなかなかよろしい。

映画の方は…

カミさんの郷がロケ地だし、カミさんとしても「県人会として一応観ておきたい」と言っていたが、多分劇場公開はロングランはしないだろうから、見る機会はないんじゃないかな?

実は原作は、映画がもうじき封切られると言うので慌てて読んだのだが…
松山ケンイチ、蒼井優、豊川悦司…はイメージできなかったなぁ。

なにより、監督があの新田次郎の傑作「劔岳 点の記」をあんな風にやっつけちまった木村大作だからなぁ…
「劔岳 点の記」は、原作は新田次郎だから、面白くなかろう筈がない傑作。
それをあんな凡庸で緊張感もへったくれもない観光風景映像にしてしまった御仁である。

カメラマンとしては希有の存在でも劇作者としてはなぁ…
監督としては新米駆け出しであっても、映画人としては日本映画界最長老に近い存在。
誰か意見しろよ、って…何があっても周囲は何も言えないんだろうな。

原作の奥秩父の山小屋を、映画では立山に場所を移している。
まぁ、絵的話題的には奥秩父よりも立山の方が派手だしな。

この映画も「景色だけ」楽しむつもりで見るなら良いんだろうな。

と見に行った。

木村監督の映像偏重は最初から覚悟していたが…前作以上に、何とも形容しがたい作品になってしまっていた。
個々のエピソードでは名言台詞や、一見感動的(に見える)シーンも散見されるが、いかにせよ全編通じて説得力が希薄なのである。

人物描写の薄っぺらさ。説明不足や中途半端なシークエンスが非常に目立つ。
やたらと説明調台詞が多く、状況説明を登場人物の台詞に頼り切っているのも鬱陶しい。
そもそも厳しい山生活の筈が、そんなものが全く伝わってこない。

全編にわたって台詞から演出から音楽、カット割りその全てが古臭く、異様にリズムが悪くテンポが乱調。

前作「劔岳 点の記」では観光誘致宣伝映画にはなっていたが、本作は流れが悪く「絵葉書」としてみるにも努力が必要だった。
(観客として違和感が気になって「素晴らしい景色」に目を止める余裕がなかった)

大自然を舞台にした「感動作」という大前提だが、漂う古臭いセンスと、そこここの不自然さが目について感動にまで至らない。
素晴らしい映像は雄弁なはずなのに、更に台詞と大仰な音楽とでこれでもかと説明しまくる。逆に提示された映像の続きが何カ所も説明されないままだったり。

劔岳も酷かったが、評論家も映画界の重鎮の処女作だからかきちんと評価しなかった。
本作もそうなんだろうな。
劔岳はそれでも「景色が綺麗」の感想を持てたが、本作はそれも希薄。
「素晴らしい景色だろう?」と台詞で言われて映像で見せてもらえないなんてぇのは映画としてみる価値もない。

冒頭に書いたが、原作の文章は、山小屋へ行きたい。山暮らしをしたいと思わせてしまうほど、情景が生き生きと描かれていた。
ところが、より直截的な筈の映画を見た後、山に行きたい等という気持ちが全く湧かなかったのである。

この名カメラマンに監督は無理だし、脚本は無謀だ。
音楽もね、これも斯界の重鎮なのだが…
監督がホームドラマという作品に重厚なオーケストレーションが次々かぶる。

古くさいと言えば、極めつけはラストシーン。
これはドタバタ喜劇だったのか…

映像制作者としての感性を疑う。
ただただ唖然とするしかない。

このラストシーンは「別の意味」で忘れられない、日本映画稀代の名シーンとなるかも知れない。
アルプスの少女ハイジ〜〜〜っ!

人間は山に行けば浄化されるものだと本作は言う。
こんなにひねくれ穢れた私は…

山に行かねば…

おぃおぃ、いつも辛口で厳しい点数を付ける超映画批評が「中高年が楽しめるいい映画」70点って…どうしたんだ?一体。
つ〜か、中高年を馬鹿にしてるのか?

あ、そうそう。
わざわざ秩父から立山に舞台を移しているのに、富山弁が聞けるのは冒頭の葬式のシーン、それも年配者だけ。
故郷に戻ってきた主人公と地元の幼なじみも、その幼なじみ夫婦も標準語で会話している。
あり得ない。
郷土意識が極めて強い越中人は、まだ学校へ行っていない子供だろうが女子高生だろうが日常会話には富山弁を駆使する。


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