愚行連鎖

■終戦のローレライ(文庫版)

2005.1.30.文庫1巻入手2005.2.24.文庫4巻入手2005.2.25.読了

終戦のローレライ(1) 終戦のローレライ(1)
講談社文庫
著者: 福井晴敏
出版社:講談社
ISBN:4062749661
サイズ:文庫/255p
発行年月: 2005年 01月

1945年、夏。彼らは戦っていた。
誰にも知られることなく、
ただその信念を胸に。
(帯のアオリより)

映画化だそうで、TVの宣伝もあり、ハードカバーは邪魔だが、文庫なら…
と、1.2巻をつい買ってしまった。
ハードカバーは上下2巻が2002.12の刊行だが、文庫は全4巻、前半2巻が2005.1.に後半2巻が同じく2月に刊行された。

著者は1968年(昭和43年)生まれだそうで…
若いが、かなり多くの賞を受賞しているだけあって筆力は高い。
250頁を越える文庫を一気に読ませるだけの力がある。
「亡国のイージス」の作者なんだね。
(書名だけはやたら目にしていたが、読んでない…これも映画になるらしい)


終戦のローレライ(2) 終戦のローレライ(2)
福井 晴敏 (著)
出版社:講談社
ISBN:4062749718
サイズ:文庫/479p
発行年月: 2005年 01月

深海に沈む特殊兵器ローレライ
その計り知れぬ“力”は、
人類を破滅に導くのか…。
(帯のアオリより)

本作は、手に汗握る潜水艦戦とそれに関わる人々一人一人を克明に描写している。
一晩で文庫2巻目に進み、章立てで言うなら3章に入った頃…

「な、なんだ、こりゃぁぁぁ〜(松田優作!)」

と叫んでしまった。

小説「∀(ターンエー)ガンダム」(もちろん、読んでない…)の作者なんだ。
何となく納得。

いや、荒唐無稽なのだ。
(どんな?って、そりゃネタバレもいいとこ)
この3章に入ったところでかなり怯んだのだが…
結局文庫本2冊を一晩と半日で読み終えてしまった。
ハチャメチャの荒唐無稽さをリアルに描くだけの力がある作者のようである。

一読して「これは映画化には向かないな…」と感じた。
単に潜水艦が戦う映画になってしまったら面白くも何ともない。

最初の方(第2章まで、文庫で言うと2巻の真ん中辺り)までは“そこそこ”リアルな戦記物として読んで良いと思うが…
(多少のウソは仕方がないだろう。そもそもフィクションだし)

万が一読むのなら、第3章に入る前に、深呼吸して気持ちを切り替えた方が良いかも知れない。
戦記物ではなくて“絵番下裏音”の続きを読むつもりで…
駆逐艦「綾波」…は出てこないが…
(ネタバレ寸前である)

文庫を順に読むのであれば、第1〜2章と3章は一旦別のお話と捉える方が…

映画は…
招待券貰ったら見ても良いかな…程度だろうか。
期待する方が間違えてるし。

フィギュア 1.2巻を読み終わって数日、文庫版3.4巻が刊行された。

がぁ…!

つい出来心で、出入りの本屋に潜水艦の模型がオマケに付くというボックスセットを発注してしまったのは、私である。
ホントに我ながら困ったヲヤヂなのだ。


「ネタバレ有ります(小説版)」

荒唐無稽…なんだが…
でも、まぁ「軍事考証」を始めちゃうと、大抵の戦争映画はボツだし…

ここでのお話は、本作(小説版、映画は筋がかなり異なるらしい)のテーマである、ローレライ・システムについて。

生きた、生身の人を兵器に使うことは政治力も統率力も状況把握力も計画性も…あーめんどぃ…なにもかもが全く欠如していた、旧大日本帝国軍部が、なーも考えずに組織的に行ったし、組織的にでなければ、そのカミカゼを非人間的、非人道的と非難する諸外国にもあった。
事実、カミカゼを直接恐れたアメリカにもあったし、それを英雄的行為と褒めそやすことも間違いなくある。
かの国の戦争映画などを見ても、命を賭して敵を討つ…みたいなシーンはいくらでも出てくる。

この小説も生身の人間を兵器に使うというモチーフなのだが…

軍人や前線に遭遇した男達や若者が目前の敵に臨んで、選択の余裕無く自ら兵器仕立て、死に行くという道を選ばざるを得なかった、カミカゼや犠牲的ヤンキー・ヒーローとはモチーフの成り立ちが全く異なる。
ナチスの狂信的アーリア人至上主義による人種差別と、その集団の特質であるオカルティズムの発露である実験から、幼くして人ではなく武器のパーツとして育てられ…
死に行く数百人の思念を日常的に全て吸収しなければならないと言う、己が死ぬことよりも戦慄すべき恐怖を義務づけられ、それでも部品としての性能を維持するため、死ぬことも許されなかった子供。
荒唐無稽なのだが、そこにはきちんと作られたリアルさも又存在する。

確かに、ナチスSSなら、その程度のことはやっても不思議ないしなぁ。

つい出来心で、出入りの本屋に潜水艦の模型がオマケに付くというボックスセットを発注してしまったのだが、ハードカバーはだいぶ前に完結発売済み。
文庫本も先週3.4と出そろっている。
オマケほしさにボックスセットを買った物の、これは3月発売だという。
読みかけで止めるのは嫌ぢゃぁぁぁぁ〜!

と、言うわけで、

終戦のローレライ(3) 終戦のローレライ(3)
講談社文庫
著者: 福井晴敏
出版社:講談社
ISBN: 4062750023
サイズ:文庫/459p
発行年月: 2005年 02月

文庫本3巻もつい、買ってしまった。
その晩中に一気に読破して翌日完結編の4巻を入手した。

仮想戦記物は箸にも棒にもかからない、暇つぶしにも値しないクソ駄文がその多くを占める。
この作品も荒唐無稽と言うことでは、確かにその通りなのだが、しかしながら、作者の筆力は認めざるを得ない。

まさしく、この文章は映像的なのだな。
3巻冒頭に数頁に渡り、広島に投下された原子爆弾の描写があるのだが…
その情景描写は、もう殆ど動画像そのものなのだ。
この描写力にはインパクト以上のモノがある。
例えば「黒い雨」などは名作中の名作であり、内容の重さ、真摯さでは、本作は到底及ばないが、しかし、ただ淡々と人類最大級の悪行を無表情に描き出しているこの文体は恐るべきモノである。

この描写が後のクライマックスにどうつながって行くのか、やはり一寸目が離せなくなってしまった。

3巻の帯のアオリである。

「それは未来に関する戦いだった。
誰もが、そう理解していた。
ただ、描く未来の姿だけが異なっていた」

ここまで読んで、とりあえず、映画化作品も見に行きたいと思うようになってきたが、こちらには殆ど期待していない。
そもそも、小説版と映画化作品とはストーリーも登場人物も異なるのだそうだし。

小説では唱歌「椰子の実」が非常に重要な位置で使われているが、映画の主題歌は「モーツアルトの子守歌」なのだそうだ。
で、この“モーツアルトの子守歌”、実はモーツァルトの曲ではなく、フリートリヒ・ヴィルヘルム・ゴッター(1746-1797)の詩にベルンハルト・フリースが曲をつけたものである。
曲名は“フリースの子守歌”としている資料もあり。
こういう経緯がある曲をテーマに持ってきたのがストーリーを暗喩する意図だとすると…

お主、なかなかやるな!
(深読みのしすぎのような気がしないでもない)

終戦のローレライ(3)まで読み終わった時点で「これは、到底映画には出来ないな。」とはっきり認識した。

このまま映像化するには生半可な腕ではまず無理だろう。
恐らく映画版はラブストーリーを絡めた単なる潜水艦内での人間ドラマになるだろう。

2巻のナチ秘密人体実験館のエピソードもおどろおどろしかったが、この3巻のヒロシマからカットバックする南方戦線の餓鬼道・畜生道の描写は…
なんだ!
そして、かすかな希望と人の心につながる3巻の結末は…

上下巻のハードカバーではどんな区切りになっていたのだろう。
この4分冊の文庫の編集は秀逸と言っていいかも知れない。

終戦のローレライ(4) 終戦のローレライ(4)
講談社文庫
著者: 福井晴敏
出版社:講談社
ISBN: 4062750031
サイズ:文庫/515p
発行年月: 2005年 02月

万感の思いをのせて
伊507は行く
この国の希望を我々に託して。
(帯のアオリより)

最終巻中盤に到達した。
まさに、この腰巻きのアオリの通りに物語は進む。

やはり、この作者は素晴らしい力を持っていると思う。
今更ながら本作はただのドンパチではないようである。

正直言って、最初の一冊は洒落で買った。
「ガンダムのノベライズ書いてる物書き?ろくなモンぢゃねぇな…」
と、思っていたのは偽らざるところ。
前にも書いたように「仮想戦記物は箸にも棒にもかからない、暇つぶしにも値しないクソ駄文がその多くを占める。」とも思っていた。
が、やはり、最初から決めつけてしまっては、出会えるモノがどんどん数少なくなってしまうのではないかと。

クライマックスが待っている。
私も小さな文庫本を携えて、寝床の中で最後の目的地を目指した。

そして、読了。
(長かったなぁ!文章密度も高いし)

潜水艦について

邦画の潜水艦モノでは過去に、東宝「潜水艦イ57 降伏せず(1959)」(松林宗恵監督/円谷英二特技監督)があるが、本作の主役“伊507”は、果たして“イ57”へのオマージュなのだろうか。
作中の“伊507”は、仏海軍の“シュルクーフ”がドイツ、日本へとその名を変えながら渡り、最後には男達を安息へ誘う…という筋書きなのだが…
(…って、そんだけでおわりかよ)

>参考:シュルクーフ

シュルクーフ “シュルクーフ(Surcouf)”は実は実在した艦。
史実では1942年、米商船と衝突し沈没と言うことだが、作中では辛うじて沈没を免れ、浮上、漂流中にU-Boatに拿捕されUF4(フランスから接収した4番目の艦)と名を変え、ローレライ・システム実験艦として大改修を受け、機関換装後、接収時の1.6倍の出力を発生するようになる。
ドイツ降伏後、日本海軍に接収され、7番目の戦利潜水艦ということで「伊507」という名が付けられる、と言う設定。

この手の本は、まぁ、軍事考証はそこそこリアルさが有れば、それでよし。
余り深く考えると、いくらでもぼろが出てくる。
特にクライマックスの総力戦、“伊507”の鬼神の如き大立ち回り。まともに考えれば「いくらなんでも、ありえね〜っ!」としか言いようがないのだが、要は、物語に埋没できれば、それで良いのだ。

そういった意味では、本作はお奨めと言える。

一般に潜水艦の物語は限られた空間に押し込められた野郎どもの汗と血の臭いとでの緊迫、と言うのが通り相場だが、この作品は、それだけではないもう欲張り放題。

ストーリーテリングのお作法に則った、カッコイイ男達と、胸を熱くする物語は、充分に堪能できる。
読了して改めて思うが、はっきり言って、このままの期待感では絶対に映画版と対峙しない方が身のためだな…
むり、むり、そこらへんの映像ヲタの監督さんにゃ…

「終戦のローレライ」潜水艦の描写はかなり読み出がある。
潜水艦好きなら、かなりハマルだろう。
まとめて買い込んでも損したとは思わないのではないかと…

文庫本にして4巻約2,000頁、延べ5日で読み終えた。私としてはかなりのハイスピードである。

映画版“ローレライ”について

ローレライ CHARACTER FILE 「ローレライ」は仮想戦記物ではなく“ファンタジー”だとどこかのサイトに書いてあったそうだ。
後日書店で手に入れた“ローレライ CHARACTER FILE”と言う、まるで映画パンフレットのような雑誌のインタビューでも監督が同じ事を述べている。

しかし、この雑誌、オヤジが店頭で手に取るのを一瞬躊躇いそうな、まるで女性ファッション雑誌のような装丁。
その上、、極上の紙質に全ページカラーで大量の俳優写真で、破格の安価!
しかし、メカニズムや血生臭い戦いについては一切触れていない。
表紙だって、なんだこれ?ロミオとジュリエットかぁ??
女性客を取り込みたいのは一瞥しただけで解るが…なんだかなー…

普段、私が持ち帰る雑誌には殆ど興味を示さないカミさんが暫くめくっていた。
狙いは大当たりである。

まさに、そう言う受け止め方をすべきだと思う。
題材が、剣と魔法ではなく、軍艦だったと言うだけ…

または伝統的任侠映画。
ラストのクライマックスは、もう完全に、敵の本拠に一人捨て身で飛び込む着流しに長ドス下げた高倉健の世界その物である。

小説版の方は「仮装戦記」に形を借りた「文明批判」「社会批判」の様に読めるのだ、映画は単なるラブストーリーを軸にしたヒーロー物語になるのだろう。
到底、この密度の高い長大な文章を一時間半程度の映像に収めきることは無理である。

小説作中では名前が付いている人物(これがかなり多い)全てをかなりしつこく克明に描いている。

かなり長い終章、これは内容的には後日談なのだが、あちこちでこの「終章」についての賛否が語られているようだ。
私も作者の言いたいことは解らなくもないが、多少後付感が否めないこともまた事実。 (冒頭から伏線は沢山張ってあるので予定の行動なのだろうが…)
ただ、本当のラストシーン、数頁、特に最後の一頁は、美しい。

本作は元々が、映画監督が人気作家に熱望した「映画のための三題噺発展物語」だったそうで、血みどろの戦闘と謀略とラブストーリーが絡んで、その内容は大変なことになっている。
その全てが一筋縄ではいかない異常な設定だってんだから…

さて、今までの感想文で一度きり、以降は“ローレライ・システム”については言及していないつもりである。(出来る限り)
ストーリーの核なので、これを話題にしないと感想を書くのはかなりきついのだが…
しかし、このお話しを読んでいない方にとって、このネタ晴らしは致命的になってしまうと思うからである。

この秘密が映画版でどんな風に「改変」されているか、楽しみではあるが…

戦争映画について

「戦争をエンターテイメントにした作品って積極的に観たくない。」

と言うご意見があった。
心情的には大変よく解るし、これは分別ある大人としても非常に貴重かつ必要な感情だと思う。

ただ、「エンターティメント」と言う言葉がどの範囲を指すのかというと一寸考え込んでしまうことも確か。
例えば、“反戦”映画なら良いのかって…
そもそも映画その物がエンターティメントなわけだし…

もちろん、本作の映画化は、いくら“反戦思想”や“社会批判”が原作の根底に有ろうと、これはエンターティメント以外の何物でもないわけだ。
あまり「見たい、見たい」って言うのを躊躇ってしまう。

考えてみれば、日本人の大多数が好む大エンターティメント「忠臣蔵」(私も大好き)だって、クライマックス部分を冷静に解説すれば…

理由はどうあれ、変装した47人の武装暴力集団が夜陰に乗じて一つの屋敷を襲い、刃向かうものを皆殺しにして、屋敷の主であるところの無抵抗の老人をなぶり殺した、と言う単なる集団大量殺人事件である。

現代戦争という狂気にしても、関わる全ての国が相手を全滅させたいという意思で行う組織的大量殺人事件以外の何物でもないわけだ。

平和の中にあって、そうした事象を、物語や芝居だとは言え「もっぱら楽しみのため」の題材として確立している人間とは、何と罪深いのかとふと考え込んでしまった。

最近とみに流行っている剣と魔法のファンタジーなどでも、それが相手が人間以外であったとしても、意志を持って生きて暮らしているもの達を大量殺戮する場面が大抵存在する。
大名作、金字塔、「指輪物語」にしても、オークや南方の蛮族なら皆殺しにして良いのか?
攻めてこられたから応戦すると言う問題は別として…

(まぁ、指輪物語が書かれた時代からは、差別意識が明確に出るのは当然だが…
 それが、近年書かれた亜流の作品にもそのまま受け継がれてしまっているというのはあまりに思慮が足りないと思う。)
話を戻せば、この「終戦のローレライ」の凄いところは、全ての名前ある登場人物の視点から物語が描かれていると言うこと。
通常の戦争物の単なる“敵・味方”ではなく、撃つ方・撃たれる方、攻撃した方・防御する方、殺す方・殺される方、それぞれにきちんと人格と意思が設定されていると言うところが優れていると思うのである。

やはり、この作品は「“ファンタジーとして”読んだ方が良い」のではないかと思う。 作者の処女作も手に入れて、斜め読みしているが…
その処女作も、本作も、基本姿勢に「イデオロギー主張」や「社会批判」があるように見える。

正直なところ、私は“エンターティメント”はそう言った主義主張を排したところに存在して欲しいと個人的には思っている。

でね、「潜水艦映画に駄作無し」と言うが…
本作には期待しない方が良いのだろうか?
(SFアニメの延長のような作品になることも危惧される)
☆某所に書き留めた一連の日記より編集加筆

▽続く

●本の巻 目次へ戻る
returnトップページへ戻る