<コンサート きいて、みて>
1998年12月

プロの演奏家、団体によるクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
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*NHK交響楽団 「第9」演奏会
  1998年12月23日(水) 15:00〜 NHKホール
 N響、年末恒例の「第9」演奏会の初日である。 今年の指揮は、イルジー・コウト。
 オペラ指揮者としても名が知れているコウトらしく、前半に「第9」のソリストふたりと合唱団を使って、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」からの音楽が演奏された。 第2幕の最初の部分から、ふたつのシーンを抜き出したものである。 エリーザベトを歌ったソプラノのリンダ・ワトソン、ヘルマンを歌ったバリトンのフルーデ・ウルセンとも、ワーグナーの歌劇を歌うにふさわしい、たっぷりとした声量の持ち主で、短いシーンながら充実した歌唱をきかせた。 特に「おごそかなこの広間よ」でのワトソンの存在感は強烈で、エリーザベトの晴れ晴れとした喜びを表情豊かに歌い上げていた。 ウルセンの歌う「お前が長い間避けていた殿堂で」を経て、大行進曲「歌の殿堂をたたえよう」にいたったのだが、コウト指揮のN響は、初めの方こそ音楽に硬さが見られたものの、徐々に柔軟性を取り戻し、大行進曲では高揚感に満ちた演奏をきかせた。 「第9」と一緒に、こんな音楽をきくのも悪くない。
 メインは勿論、ベートーヴェンの交響曲第9番であるが、今回はベーレンライター版を用いたものであった。 コウトは中庸のテンポか、あるいはそれより少し速めのテンポを全曲に渡ってキープし、この作品に正面からぶつかっていった様子が感じ取れた。 特徴的であったのは、アクセントのつけ方で、特にスフォルツァンドの扱いを強調し、メリハリのあるアタックがきかれる場面が目立った。 それに伴ってか、フレージングも所々できき慣れないものがきこえてきたのだけれど、それが果たしてベーレンライター版ならではのものなのか、あるいは指揮者の主張によるものなのかは、判然としなかった。 第1楽章、第2楽章はなかなか引き締まった、それなりにきき映えのするものだったが、第3楽章は意外に平凡であった。
 フィナーレは、ワトソン、ウルセンに加え、テノールのルドルフ・シャシング、アルトの寺谷千枝子がソリストとして参加していたが、各人の歌唱は高いレベルであったものの、それぞれの個性が勝ってしまったせいか、4人の歌の質感が充分に揃わず、ソリストのアンサンブルの部分では、やや不満が残った。 ただこれは、4人の個性が存分にきけた演奏とも言えるわけで、このあたりはきく側の好みが分かれるところかもしれない。 合唱は例年通り、国立音楽大学であったが、この合唱団が歌った近年のN響「第9」公演の中では、もっとも出来がよかったように思えた。 4声のバランスがよく、開放的な合唱はクライマックスでの迫力を生んでいた。 オーケストラの状態も悪くなかった。
 いわゆる、「第9」らしい「第9」はきけた今年の演奏会であったが、全体的に演奏がまだこなれていない感もあった。 オーケストラの共感度がどのくらいあるのか、考えさせられる瞬間もあり、それがコウトの指揮のせいなのか、使用した楽譜に慣れないせいなのかは・・・やはり、分からなかった。 初日であったためだろうか。 今年のN響の「第9」は、あと3回残っているが、これから後の演奏会の方が、よくなるのかもしれない。



*東京都交響楽団 「作曲家の肖像 Vol.28 ショーソン」
  1998年12月21日(月) 19:00〜 東京芸術劇場
 都響の東京芸術劇場でのシリーズ。 今回取り上げられた作曲家はショーソンである。 指揮は名誉指揮者のジャン・フルネ。 今回のフルネの一連の演奏会の中では、あの素晴らしい「ペレアスとメリザンド」や、この後行われるベートーヴェンの第9交響曲の演奏会の影に隠れた感があり、この日の客席はやや空席が目立ったけれど、この演奏会は大変なききものであったはずだ。 ショーソンの作品がまとめて演奏される機会は、そうあることではないし、しかも名匠フルネの手による演奏である。 現在、東京できくことのできる、最上のショーソンをきかせてもらった演奏会になった。 得難い体験であった。
 交響詩「祭りの夕べ」は、祭りの盛り上がりを表現している出だしの部分から、落ち着いたテンポで演奏されたが、それは決して緩んだ演奏ではなく、低目に重心をとったバランスのいい管弦楽の質感に滋味が溢れているもの。 音楽は常に見通しがよく、それでいてこの曲の屈折した味わいも過不足なく感じられ、この音楽の語っているものの多さを、丹念にあぶり出してゆくフルネの解釈に、早くも感心させられる。
 「愛と海の詩」のソプラノは、浜田理恵。 この人も、とても上手い。 テクストの細部にわたって、詳細に吟味したあとがうかがわれ、張りつめた透明感のある声をベースに、微妙な声色の変化を、曲が進むにつれて丁寧につけていった。 浜田の歌もよかったけれど、ここでもフルネ指揮のオーケストラの演奏にも耳を奪われがちになる。 ため息のでるような美しさ。 フルネが振ると、どうしてこんなにもいい音が出るのだろう。 特にピアノ、ピアニッシモにおける音楽の緻密さは絶品で、指揮者、オーケストラ、歌手の三者が音楽に感じ入っているような演奏をきくにつけ、何か別世界の出来事を目の当たりにしているような陶酔感を覚えた。 ショーソンの音楽は、かくも深い。 そのことを感じさせてくれる演奏に出逢うことも、そうそうあることではない。
 そして最後に、交響曲。 第1楽章の長い導入部を、旋律をリードする声部を自然に浮かび上がらせるように音楽をつなぎ、主部に突入してゆく瞬間の開放感、力感の素晴らしさ。 無論、それは鈍重であったり、強烈なものであったりするものではなく、ある種の軽さと、スマートさを併せ持つ、独特の逞しさである。 第2楽章も、音楽を粘らせることなく、内声部のバランスを操作することによって、やや陰鬱な情念のようなものをさり気なく呈示する。 第3楽章は、荘重さもさることながら、「救済」すら感じさせる穏やかな終結部に向けての起承転結が、巧みにコントロールされた職人芸的な演奏。 ここへきてオーケストラの管楽器群にやや疲れが見られたが、都響の状態は総じてよかったと思う。
 フルネの凄さを、まざまざと見せつけられた演奏会だった。 これほどの人が、実に頻繁に日本を訪れ、日本のオーケストラを指揮し、極上のフランス音楽をたくさんきかせてくれることに、感謝せずにはいられない。



*紀尾井シンフォニエッタ 東京 第17回定期演奏会
  1998年12月19日(土) 19:00〜 紀尾井ホール
 紀尾井シンフォニエッタの今回の定期演奏会も、首席指揮者の尾高忠明の指揮。
 最初にストラヴィンスキーの小管弦楽のための組曲第2番。 このオーケストラが得意とする傾向の曲で、いささか生真面目だが、きっちりとまとまった演奏。 だが、第4曲のギャロップのリズムがいささか重く、もう少し小粋に演奏されればなおよかった。
 バーバーのヴァイオリン協奏曲は、竹澤恭子をソリストに迎えた。 彼女らしい、いつもながらのメロディアスなヴァイオリンで、この曲はもう手の内に入っているようだ。 相手が室内オーケストラであろうと、大きな音で朗々と楽器を鳴らし、息の長い旋律をスケール大きくうたいあげる。 第2楽章のメランコリックな味わいには、竹澤の美質がいかんなく発揮されていた。 圧巻はやはり第3楽章で、高いレベルの技巧を要求される快速のパッセージを、確実なテクニックでこなす。 その勢いは壮絶であり、少しくらいの音の汚れを厭わず、曲の最後に向かって突進してゆくようなヴァイオリンだ。 ここでの尾高と紀尾井シンフォニエッタの反応も凄かった。 竹澤に刺激されたのは明らかで、こちらも演奏が粗くなる危険性をかえりみず、全力で竹澤と渡り合おうとする。 結果的に大きな乱れは見られず、室内オーケストラとは思えぬ迫力で、単なる伴奏を大きく超えた演奏であった。 スリリングで、胸のすくような演奏を堪能した。
 細川俊夫の新作は、このオーケストラのために書かれたもので、大分で初演された、オーケストラのための『海景・大分』という作品。 作曲者の海に対するイメージを音によって表現した作品だそうだが、抽象的な音楽と、海を連想させる写実的な音楽が、程よいバランスで共存していて、なかなかきき応えのある曲であった。 2階客席の左右のバルコニー後方に、ひとつづつの小管弦楽群を配し、ステージ上左右に置かれたパーカッションとあいまって、空間の広がりを感じさせる配慮もされている。 連綿と続く音の流れが、あるときは厳しく、あるときは穏やかな海の情景を思い起こさせ、作曲者の意図も分かりやすい。 約20分ほどの演奏時間だったと思うが、集中力をそがれることなく、きくことができた。
 最後に紀尾井シンフォニエッタらしく、ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」。 この日はこの曲のときだけ、第2ヴァイオリンとヴィオラの位置が入れ替わった。 つまりヴァイオリン両翼配置になっていたのだが、このオーケストラがこの配置をとったのは、これが初めてではないだろうか。 そして、その試みは成功していた。 特に第2楽章や第4楽章のようなところでは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンのかけあいが、手に取るようによく分かり、ハイドンの古典作曲家としての機知に富んだオーケストレーションのひとつを楽しむことができた。 演奏全体は、これも手堅くまとまっていたものだったけれど、第4楽章は快活さより、ややウエットな趣きのあるもので、テンポを心持ち遅めにして、時折ハイドンらしからぬレガートもおりまぜ、細部を丹念に浮かび上がらせるような、個性的なものになっていた。
 この日もまた、紀尾井シンフォニエッタの新たな方向性のようなものが感じ取れた。 一時感じたある種のマンネリズムは、少しずつではあるけれど、払拭されてきているようだ。 今後の展開に、更に注目してゆきたい。 勿論、期待も。



*NHK交響楽団 第1369回定期演奏会
  1998年12月19日(土) 14:00〜 NHKホール
 12月の一連のN響定期演奏会は、音楽監督就任後初登場となるシャルル・デュトワの指揮によって行われてきた。 この日は最終日。 きかせ上手のデュトワにふさわしい曲目が並んでいる。
 ファリャの歌劇「はかなき人生」からの間奏曲と舞曲で、演奏会は華々しくスタート。 相変わらず歯切れのいいリズムと、明確なアーティキュレーションでスタイリッシュな音楽を作ってゆくデュトワ。 間奏曲できかれた弱音は、柔らかく、軽く、心地よい。 N響もデュトワのこういった要求に、かなり余裕を持って応じられるようになってきているようだ。
 2曲目は、ドビュッシーのカンタータ「選ばれし乙女」。 デュトワのドビュッシーは、洗練された音色で細部を磨き上げた結果、とてもききやすいものとなり、これも魅力的である。 ふたりのソリストも秀逸。 乙女をうたったソプラノの釜洞祐子は、繊細な美声と充分にコントロールされたテクニックがさすがであったし、語り手のメゾ・ソプラノ、加納悦子も奥行きを感じさせる歌をきかせた。 二期会合唱団は、最高音にやや美感を欠いていたものの、手堅くまとまっていた。 オーケストラも情感やニュアンスを重んじた演奏で、特にフルートのティモシー・ハッチンスを加えた木管陣は好演。
 グリーグの劇音楽「ペール・ギュント」は、プログラムには「全曲」と発表されていたが、実は完全な全曲演奏ではなく、全曲版から15曲を抜粋したものである。 (曲目解説にはこの旨が明記されていた。) 河内紀が書いた日本語による台本に基づき、林隆三が進行役をつとめ、ストーリー順に音楽が演奏されてゆく。 劇中歌はドイツ語で歌われた。 ノルウェーの作品を、日本語のナレーションとドイツ語の歌唱できくのは、厳密に考えればおかしなことかも知れないが、そのことはとりあえず横に置いてもいいか、とさえ思わせる、楽しい演奏だった。 第1幕の前奏曲からオーケストラは全開。 生き生きとしたその表情は、その後の音楽に期待を持たせる。 実際、その直後の、山羊追いの娘達の歌はきき応えがあった。 釜洞、加納に加えてソプラノの平松英子が加わり、3人の歌のバランスも、表情の豊かさも見事なものだった。 それと、釜洞が歌った「ソルヴェイグの歌」は、やはり絶品。 2日続けての公演で、しかもこの日はマチネーであったので、この曲を歌う頃には声に疲れもきかれたが、それでもソルヴェイグの切ない思いを、控え目な感情表現で歌い切った釜洞の歌は、きいていて胸が熱くなった。 二期会合唱団は、まずまず。
 デュトワとN響は、親しみやすいメロディーのひとつひとつの性格を把握し、オーバーな表現で音楽の品位を落とすことなく、爽やかに演奏した。 両者の関係には、これまで以上の安定感が伴っていた印象を強く受けた。 林隆三の語りも、彼の真面目さが表れていて好感が持てた。 ただ、個人的な好みで言わせてもらえば、音楽に語りがかぶるようなところでは、どうしても「過ぎたるは・・・」と、思ってしまう。 (例えば「オーセの死」の部分。) もっともこれは、原曲の台本がそうであるので仕方のないことだろうけれど、こういうところは、全曲版より組曲版の方を、私は好む。 これは劇音楽の性格上の問題にからむ部分なので、どちらが正しい、などということとは、勿論違うが。
 こういう演奏会も、たまにはいいものだ。 安心してきける、楽しい演奏会。



*東京都交響楽団 第481回定期演奏会
  1998年12月16日(水) 18:30〜 サントリーホール
 今年の都響は、ベルティーニの音楽監督就任などもあって、話題性の高い演奏会が多かったが、年末になってもうひとつ、記念碑的な演奏会が実現した。 指揮台に立ったのは、名誉指揮者のジャン・フルネ。 ドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」の全曲演奏会である。 この曲は、フルネが今から40年前に日本初演を行ったもので、今回はその記念の意味を含めた演奏会。 演出は一切なし、歌手たちは譜面を前にして歌うという、完全な演奏会形式によるものである。 そしてこれは、やはりしっかりとした手応えのある、感銘深い演奏会になった。
 何はともあれ、フルネの求心力の強さに尽きた。 この作品の性格をすみずみまでおさえたフルネの指揮は、舞台装置も演出もないステージ上に繰り広げられる長大な音楽を、一瞬たりとも弛緩させずに、じっくりときかせてくれた。 幻想的な部分では、管弦の音色を透明感を失わない範囲できれいにブレンドさせ、写実的で現実的なシーンでは、オーケストラの各パートの分離を明瞭にし、必要最小限の音量で微妙なニュアンスを伝える。 全5幕をとおして、音楽の流れを断ち切ることなく、情景の変遷は極めて自然。 さらに、登場人物の心象風景にも深く踏み込み、それらの悲哀を音楽的なデフォルメを加えることなく表出してゆく手腕は、フルネの演奏経験の豊富さからくるものだけではなく、彼のこの作品に対する深い愛情をも感じさせる。 第3幕や第4幕の幕切れの部分のようなスリリングな箇所も、音楽を外側に向けてドラマティックにするのではなく、表現のポイントを音楽の内側に置き、微妙なテンポのゆれや意図的にほんの少しだけ管弦のバランスを崩すことによって、ききてのこころに緊張感をもたらし、音楽に引き込む。 だから、数少ない強奏の部分でも鋭いアタックを伴った刺激的なものではなく、もっと本質的な哀しみ、不条理を音に込めようとしていたように思う。 これが、第5幕の音楽に、より一層強い説得力を持たせたのである。
 都響もフルネの要求に、持てる力をフルに出しきらんばかりの、熱い、それでいて丁寧な演奏で応えた。 単純に柔らかい音だけを作ろうとはせず、ドビュッシーの管弦楽法を、音色に対しての考慮をしつつ、解きほぐしていった。 演奏は、後の方にいくほど密度が増していったのも、フルネの指揮に対する共感度が、演奏していくうちに自然に高まっていったからであろう。
 出演した歌手は、すべて日本人。 特に強烈な存在感を示していたのが、ゴローの大島幾雄。 フルネの指揮にぴったりとついて、オーケストラとともにゴローの心情を、場面に応じて見事に描き分けた。 この演奏会でこれほどのゴローをきくことができるとは、大島に失礼ながら正直言って思いもよらなかった。 次にメリザンドの奈良ゆみ。 この人も役が手の内に入っており、危な気のない安定した歌唱で、メリザンドのデリケートさを適確に表現していた。 このふたりに比べると、ペレアスの鎌田直純は、やや弱い気がしたが、これは作品の中におけるペレアスの存在感にも影響されている部分なので、いた仕方ないことか。 声量が不足気味であり、大事な第4幕の終わりのところで、若干の力みが感じられたのが残念だったが、総じて悪くなかった。 アルケル王の志村文彦は、歌唱に少し安定感を欠いていたようだが、作品と演奏全体を引き締めるような存在感は、きちんと持っていた。 そして、この人たちも、みんなフルネの意図を積極的にくみ取ったと思われる歌唱をきかせたのであった。
 何か特別にセンセーショナルなものがあったり、強烈なインパクトを感じさせたりするような演奏会ではなかったけれど、演奏者全員が指揮者フルネの下でひとつになって、同じ方向を目指していたような音楽作りが、こころにしみた演奏会であったと思う。 きいている最中に幸福感を味わい、演奏終了後に「きいてよかった」と思える演奏は、こういう演奏なのである。



*フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
  1998年12月12日(土) 19:00〜 サントリーホール
 最近になって、一段と実力をつけていると評判のフランス国立放送フィルの来日公演である。 指揮は、音楽監督のマレク・ヤノフスキ。 このオーケストラの実力を一段上のレベルに押し上げたのは、ヤノフスキの手腕に負うところが大きい、という話も伝わっているのだが、その噂を裏付けるような、いい演奏をきかせてくれた。 ドイツ音楽を得意としているヤノフスキが、フランスのオーケストラを使って、独仏の作品を一曲ずつプログラムにのせた。
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」は、ゲルハルト・オピッツのピアノ。 オピッツの極めて安定したテクニックと、ヤノフスキの指揮するオーケストラの推進力が見事に一体化した、模範的な協奏曲演奏だった。 ひとつひとつの音を、硬質で芯のあるタッチで明確に弾き切るオピッツのピアノは、外見上の派手さはさほどないものの、作品に対して良心的で誠実なもの。 その音楽性は豊かであり、低音から高音まで、音質的にも音量的にもムラがない。 ベートーヴェンの音楽を直截に、演奏家の存在さえも忘れさせるようにきかせることができるのが、オピッツの美質である。 それを支えるヤノフスキの指揮も、下手な小細工など一切ほどこさずに、作品の大きさを過不足なく表現した。 オーケストラはピアノを覆ってしまうことがなく、ピアノに遠慮しすぎることもない、絶妙のバランスを保ち、響きも程よい重量感を伴っていた。
 後半は、ベルリオーズの幻想交響曲。 ここでもヤノフスキは、速めのテンポで音楽をぐいぐい前へ進めてゆく。 音楽が加速する部分では、オーケストラをかなり煽るのだが、フランス国立放送フィルは、ほとんど乱れることなく、また響きを薄くしてしまうことなくこれに応える。 第2楽章も速めで、スタッカートのリズムを強調した歯切れのいい演奏。 ロマンティックな味わいには少々欠けるが、焦燥感すら感じさせるワルツは、ヤノフスキ流の「幻想の舞踏会」の表現法であろう。 第3楽章の冒頭のコールアングレに応じるオーボエは、2階右客席後方の扉の外から吹かせるという、少し変わったアイデアだったが、ふたつの音色の距離感がよく出ており、ベルリオーズなら、あるいはこんな試みもしたかもしれない、などと思った。 最後のふたつの楽章は、壮絶というよりも鮮烈で、音楽はさらに勢いを増し、オーケストラも持てる力をフルに出し切ろうとする意欲に満ちていた。 これらの演奏は、やはり圧倒的であったと言える。 このオーケストラの実力は確かなものであり、木管楽器などには相当腕の立つ奏者もいた。 アンサンブルの精度もよく、機能性も高い。 満足度の高い演奏であった。
 アンコールは、ビゼー、ワーグナー、シューベルトと、やはり独仏の作品で締めくくった。
 ヤノフスキの指揮は、この9月にN響できいた。 その時は、ヤノフスキのこの推進力の強い音楽作りが、全体の流れをぎこちないものにしてしまい、音楽としての充実度も後退してしまった印象で、やや不満の残る出来だった。 だが、この日は彼の基本的な音楽作りのコンセプトが変わっていなかったにもかかわらず、そういった不満を感じることなく、充実した演奏をきくことができた。 N響もフランス国立放送フィルも、オーケストラの演奏能力上の問題はほとんどないと思う。 現代の大オーケストラによるコンサートは、指揮者だけでも、オーケストラだけでも、成立しない。 指揮者とオーケストラの関係の深さ、あるいは相性といったものを、つくづく考えさせられてしまった。



*東京都交響楽団 第480回定期演奏会
  1998年12月10日(木) 19:00〜 東京芸術劇場
 12月の都響は、名誉指揮者のジャン・フルネの登場。 今回も、フルネの個性に合ったプログラムをきかせてくれる。 この日はドイツ音楽の傑作をふたつ。 2曲とも、おだやかな曲想を持ったものである。
 まず、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。 この演奏は、ソリストの横山幸雄のピアノと、フルネの指揮するオーケストラの方向性が微妙にずれてしまったものとなった。 オーケストラがシンフォニックに鳴り響くこの作品を、フルネは音楽のつくりを充分に吟味し、安定したリズムとフレージングで表現していく。 形式を逸脱したり、いたずらに響きを重厚にすることなく、作品の本質に迫ろうとしていた。 横山のピアノも、このやり方にそったものにしようとする意志は見えた。 粒立ちのはっきりとした音で、力みかえらずに内容の濃い演奏をしようとしていたのだが、時折、感興にまかせた即興的な弾き方になってしまうところがあった。 そういった場面での横山の感性は、とても鋭いものなので、ピアノの部分を取出してきく分には納得させられるものも多いのだけれど、この日の協奏曲の演奏の中では、やや浮き上がってしまう印象を拭い切れなかった。 もっともこれは、前半のふたつの楽章の中で特に感じたことで、第3楽章あたりから、指揮者とソリストの意志の疎通が大分うまくいくようになっていったと思う。 フルネの指揮は柔軟さを増し、横山も冷静に楽想を弾き分けていた。 恐らく、どういう演奏にするかの合意は、事前にしっかりとれていたと思われるので、大きな破綻にはつながらなかったのだろうけれど、演奏全体の印象はもうひとつであった。 後半の両者の歩み寄りは、さすがに経験豊富な指揮者と気鋭のピアニストの共演である、ということを感じさせてくれたけれど。
 ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」は、フルネのような人が指揮すればきっとうまくいくということは、多くの人が予想できるだろう。 実際、味わい深い演奏をきくことができた。 フルネはオーケストラの各声部の質感を整え、それらをほどよくブレンドし、その上で各楽器の音を丁寧に分離させ、立体感を出すという至芸を見せた。 テンポはまったく妥当で、旋律のふくらませ方も節度をわきまえたもの。 表面的には、何事も起こっていないような演奏だが、これは容易に実現できることではないように思える。 美しい弦楽合奏をベースに、木管、金管が丁寧に音を重ね、気がついたら立派なオーケストラ演奏だった、言ってみればそんな感覚。 そして、音楽全体は、人間的な温かさに満ち溢れているところが素晴らしい。 フルネの指揮ぶりを見ていると、指揮というものは、アクションを大きくしなくても、音楽を作る上で大切なものはオーケストラに伝えられる、という当たり前のことを思い出す。 私は、彼の棒は大変に雄弁であると思う。 オーケストラは、木管楽器の一部に演奏上の事故がわずかにきかれたものの、おおむね好調であった。 あえて言えば、全体的にあともう少しだけ共感度が高かったら、と感じた。
 指揮台へ向かうときの足取りがやや弱々しかったが、名指揮者フルネは、まだまだ健在。 今回の来日では、このあと大きな演奏会が控えているのだけれど、この分なら相当、期待できそうである。



*ウラディーミル・アシュケナージ/ピンカス・ズッカーマン/リン・ハレル
  1998年12月8日(火) 19:00〜 東京芸術劇場
 またまた、名手揃いのピアノ・トリオによるコンサート。 ピアノのウラディーミル・アシュケナージと、チェロのリン・ハレルは、これまでもしばしば共演してきたようだが、最近はヴァイオリンのピンカス・ズッカーマンを加え、トリオとしての活動も行なっている。 今回、日本公演が実現した。
 さすがである。 とにかく3人が3人とも、大変に腕が立つ演奏家である。 感銘を新たにしたのは、アシュケナージのピアノ。 彼のピアノが、どれほど素晴らしいものであるかは、今更ここで言うまでもないことだろうけれど、室内楽の中でアシュケナージをきくにつけて思ったのは、音楽の流麗さ、音色の美しさ、確かなテクニック、これらが一段と際立っていたこと。 私がこれまで、ソロや協奏曲の演奏できいたときよりも、その印象は鮮烈だった。 トリオを音楽的にまとめる、と言うよりも、演奏をひとつ高い所に押し上げるような、類稀な音楽性を見せていた。 「うまいピアノ」とは、このことである。 ヴァイオリンのズッカーマンは、非常に安定した演奏をきかせた。 充分な音量、艶やかな音色、旋律のなめらかなうたいまわし、これらを実に楽々と実現させる。 3人の中で、もっとも余裕を感じさせたのがこの人。 その時々で演奏されている音楽の中で、自分のヴァイオリンが最大限に生かされる術を、自然に身につけている。 そんな中で、チェロのハレルは、地味な感じになるのでは、と思いきや、チェロの奏でる旋律が音楽を引っ張るような場面のときには、ここぞとばかりに存在をアピールする。 そうでないときでも、彼のチェロから耳が離れて、アシュケナージやズッカーマンだけにきき入ってしまう瞬間はほとんどない。 つまり、トリオとしてのバランスも申し分なかったように思う。
 ベートーヴェンは、傑作「大公」トリオを作曲した後に、それとは性格的に正反対とも言える小さなトリオを書いた。 それがこの日の最初の曲、変ロ長調の単一楽章からなるピアノ三重奏曲。 澄み切った青空のような晴れ晴れとした演奏で、コンサートの冒頭からきき手のこころをとらえるには充分すぎるほどの、目の覚めるような音楽だった。
 ショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番も、一点のくもりも感じさせない演奏。 ズッカーマンの弾くメロディーが、多少粘りを帯びてはいたけれど、それとて随分と清潔な粘りである。 ハレルのチェロは、第1楽章の最初のフラジョレット奏法においてでさえ、悲観的な要素をあまり感じさせない。 アシュケナージも、第2楽章のようなところで騒ぐようなことはせず、あくまでも純音楽的なアプローチ。 第3楽章も、美しさが先に立ち、悲しさ、厳しさは希薄。 この曲に対する私の先入観から、こういった演奏はあまり好みではないはずなのだけれど、不思議と物足りなさは感じなかった。 正直言って、「あれは違う、これも違う」と思いながらきいていたのだが、そう思いながら、この演奏に魅了されてゆく自分を、確かに感じていた。 こんなにきれいなショスタコーヴィチがあっただろうか。
 この演奏スタイルならば、シューベルトのピアノ三重奏曲第1番のような曲は、成功するに決まっている。 3人とも、伸び伸びと大らかに、この曲を演奏することを楽しんでおり、それは勿論、聴衆をも楽しませていた。 彼らはトリオとして、本当によくまとまっていたけれど、それは小さく辻褄を合わせるのではなく、それぞれがヴィルトゥオーゾぶりをいかんなく発揮し、前向きで楽観的な姿勢でアンサンブルを構築した結果によるものだから、音楽のスケールも大きなものになる。
 アンコールにやはり、シューベルトのピアノ三重奏曲第2番からのスケルツォ楽章。 3人のくつろいだ雰囲気のステージ・マナーが、この日の演奏会の「楽しさ」を象徴していた。



*キーロフ歌劇場管弦楽団
  1998年12月6日(日) 14:00〜 サントリーホール
 キーロフ歌劇場から、オーケストラだけが単独で来日している。 指揮者は芸術監督で首席指揮者、今や世界的な指揮者になったワレリー・ゲルギエフである。 オーケストラのコンサートとしては3年振りの日本公演となったが、そのパワーはますます強力になっており、現代屈指のオーケストラに成長していると言っても、過言ではない気がした。
 ロシアのオーケストラは、音が大きいところが多いのだが、このオーケストラの音圧も凄まじい。 しかしそれは、単に大きな音できき手を圧倒することだけにとどまらず、強靭で音楽的に充実度の高いアンサンブルをベースにした、機能性の高い演奏の上に成り立っている迫力であり、(ヨーロッパのそれではなく)アメリカのいくつかの優秀なオーケストラを思い起こさせるようなものであったことは興味深い。 ひとりひとりの奏者の技術的なレベルも高い。 恐らく、ゲルギエフによる、妥協のない訓練が繰り返されてきた結果であろう。
 最初のチャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」から、目を見張るような演奏が繰り広げられた。 冒頭の木管の音色から、主部の激しい音楽、終結部の押し出しの強さまで、すべてが劇的であり、どんな瞬間でも音楽全体の構成の中の一部分として、最大限にオーケストラの表現力を駆使する。 それをここまで引き出したのは、他でもなくゲルギエフの手腕であることは明白である。 彼の指揮ぶりは、手を神経質であると思われるほど細かく震えさせ、音符のひとつひとつが持っている意味を極限まで引き出そうとする意欲に満ちている。 こういう指揮の下で演奏するオーケストラは、さぞや大変だろうと思うのだが、まったく何食わぬ顔で、ゲルギエフの要求に応じてゆく様子には舌を巻いた。 これは3年前の来日公演でも、またかつて日本のいくつかのオーケストラを指揮した時にも、感じられなかったことだ。
 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、しっかりしたテクニックで正攻法の演奏をしたヴィクトル・トレチャコフがソリスト。 ゲルギエフはトレチャコフの安定したヴァイオリンを更に引き立てるような、それでいて非常に雄弁な伴奏をつけた。 このオーケストラに負けないように、気迫あふれる演奏をしたトレチャコフは、第1楽章終盤で、ヴァイオリンの弦が切れてしまうハプニングに見舞われたものの、最後まで集中力を切ることなく、自分の音楽を演奏しきった。
 そして、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。 快活なテンポの第1楽章から、音楽としての情報量は驚くほど多い。 速いテンポの中でも、ここまで内容を詰め込むことができるのだろうか。 基本的なリズムは確固たるものなのだが、時折きかせるリタルダントの呼吸は独特。 管弦のバランスは刺激的なもので、低音弦の唸りは恐怖心さえ煽る。 響きは輝かしいもので、アンサンブルには隙がない。 この作品の持つ急進性を、見事に表現していたと言える。 第2楽章のクライマックスでの悲痛な叫びのような音楽はどうだろう。 第3楽章の3本のホルンのバランスは、のどかさよりも、直前のスタッカートのリズムを強く意識した意味深長なもの。 そして、フィナーレは強烈なアクセントで壮絶な音楽。 全体を通して、非常に厳しい造形を持った演奏であった。 これだけ厳しい「英雄」をきかされると、私などは新鮮な高揚感をおぼえるのだが、同時に、きいていて少し疲れたのも事実である。
 アンコールは、ワーグナー、チャイコフスキー、グリンカの有名曲を全部で4曲。 これらも威勢のいい、質の高い演奏だった。 全体でおよそ3時間に及んだコンサート。 しかも、すべての演奏が気楽にきけたようなものではなかった。 きく方も、体力と、強い集中力を要求されるようなコンサートだった。



*リンゼイ弦楽四重奏団
  1998年12月5日(土) 14:00〜 王子ホール
 イギリスのリンゼイ弦楽四重奏団は、王子ホールでベートーヴェンの弦楽四重奏曲を集中的に演奏するチクルスを開催している。 このチクルスは今、完結しようとしているのだが、私は最終回のひとつ前の回の演奏会をきいた。 プログラムはベートーヴェンの弦楽四重奏曲の、初期、中期、後期の作品を一曲ずつ配したもの。
 このクヮルテットをきくのは初めてだったのだけれど、ベートーヴェンの作品の演奏経験が豊富なクヮルテットであることを感じさせる、手応えのある演奏会になっていた。 第1ヴァイオリンのピーター・クロッパーが、身振りの大きい、表情豊かな演奏でクヮルテットをぐいぐい引っ張っていたのが印象的で、その存在感とインパクトは強烈。 出てくる音も大きくて、とても美しい音色を奏でたかと思うと、荒々しく弾くような場面も見られ、その表現意欲は旺盛だ。 その他の奏者は、彼に比べればやや控え目な感じがしたが、それは全体のバランスを大きく崩すようなものではなく、要所要所で冷静にクロッパーを支え、音楽のツボを適確に押さえる。 典型的な第1ヴァイオリン主導型のクヮルテットに見えたが、それは他の奏者の力が劣るということではない。 クヮルテット全体として、不思議な個性とバランスを保っていたと思う。
 初期の弦楽四重奏曲第5番は、明るく、爽やか。 クロッパーのヴァイオリンのうたが、晴れ晴れとした響きでホール内を満たす。 これは、ベートーヴェンの初期の弦楽四重奏曲の作品の特徴を示唆しているものであると思ったのだが、その演奏スタイルは、中期の弦楽四重奏曲第9番「ラズモフスキー第3番」の演奏でも基本的に変わらなかった。 チェロのバーナード=グレゴー・スミスがクロッパーに拮抗するような場面も見られ始めるが、第2ヴァイオリンのロナルド・バークスも、ヴィオラのロビン・アイアランドも、演奏を渋く引き締める。 それが第4楽章の変奏曲で、全員が一丸となってひとつの方向に突進するような演奏になっていく様は圧巻であった。 2曲とも、演奏が進むにつれて、作品を現代に蘇らせるような、生気溢れる熱気が感じられた。
 後期の作品からは、弦楽四重奏曲第14番。 これもかなり気合の入った演奏だった。 第1楽章は、やや意欲的に過ぎて、音楽の深みが今一歩のような気がしたけれど、第2楽章に入ってから以降の生き生きとした演奏は、新鮮な喜びと、驚きをおぼえた。 クロッパーのヴァイオリンは相変わらず雄弁だが、音楽が内側に向かっている楽想から、開放的な楽想へ移り変わるときの気分の変化と言うか、メリハリのようなものが欲しいと思うところもあった。 最終楽章など、表面的に造形を整えることよりも、ベートーヴェンの決然とした意志の力を表現することに重きを置いた演奏になっており、そのことが粗さにつながっていたと言えなくもないのだけれど、これが案外と説得力があって、一気にきかされてしまった。やはり、このクヮルテットがベートーヴェンの音楽を心の底で感じ取っていて、彼らのやり方で全力で取り組んでいたからであろう。
 鳴り止まぬ拍手に、クロッパーがステージ上から聴衆に向けてアナウンス。 「弦楽四重奏曲第14番の後に、他の曲を演奏することは、普通は有り得ないのだが、作品の成立上の経緯から考えれば、弦楽四重奏曲第16番の第3楽章を演奏することは、例外的に可能である」、といった主旨のことであった。 瞑想的なその音楽は、熱い演奏をきいた直後の聴衆を、心地良くクールダウンさせる役割を果たしていた。



*新日本フィルハーモニー交響楽団 第274回定期演奏会
  1998年12月4日(金) 19:15〜 すみだトリフォニーホール
 新日本フィルの12月の定期演奏会は、高関健の指揮。 この日のプログラムは、ブルックナーの大作、交響曲第8番。 ハース版による演奏である。 この世代の指揮者がブルックナーの交響曲を取り上げる際、ハース版を使うことは比較的珍しいことであるように思えるが、高関は随分前から、ブルックナーはハース版で演奏している、と記憶している。 これは、高関がハース版こそブルックナーの意図を表現できる、と、一貫して考えていることの現れであり、それは例えば、彼がベートーヴェンの交響曲を演奏する際に、最新のベーレンライター版を使うようになったこととは、やや意味合いが違う気がする。
 この日、高関のブルックナーをきいて感心したのは、彼がブルックナーの作品が持っている響きの質を適確にとらえており、それを自分なりの方法で明確に演奏に反映していたところ。 そこには一点の迷いも感じられず、自身に満ちた指揮ぶりであった。 彼の若さで、ブルックナーをここまで自分のものにすることは、やはり並大抵のことではなかろう。 非凡な指揮者である。
 第1楽章から、堂々とした威容を持つこの曲に真っ向から取り組み、芯のある響き、厚い和音を力強く響かせる。 しかしそれは、混濁してしまわないように注意が払われており、管弦のバランスのコントロールは見事なものである。 見通しのよい演奏だけれど、音が貧弱になってしまうことがない。 第2楽章は、スケルツォとトリオの間の「ブルックナー休止」を、ほんの少しだけ長めに取り、その結果、楽想の転換が自然になり、トリオのロマンティシズムが強調される。 この「間」は絶妙で、演奏の前後の流れからすると、これより長すぎても、短すぎても不自然になる。 第3楽章も思わせぶりなところはなく、強弱の幅を必要以上にとらずに、強めの音で長大な楽章を正攻法でうたわせてゆく。 フィナーレの緩徐部で、緊張感が若干後退していた感もあったが、起承転結のはっきりした構造美を感じさせる立派な演奏になっていた。
 細部に拘泥するよりも、響きによって全体のスケール感を表現することに重きを置いた演奏で、このやり方はブルックナーの作品に対して、とても有効であったと思う。 逆に言うと、足りないところがあるとすればそのあたりで、細部をもう少し丁寧にまとめられれば更によかったのだが、そちらを気にするあまり、このスケール感が失われてしまうのであれば、元も子もない。 この矛盾は高関が今後、演奏経験を積んでゆくことで、きっと解消されるだろう。 欲を言えばきりがないのだが、あともうひとつ、フレーズに息の長さを感じさせてもらえれば、圧倒的な感動を伴う巨大なブルックナー演奏になっただろう。
 オーケストラは、ヴァイオリン両翼配置。 これもよかった。 作品を支える内声部、セカンド・ヴァイオリンとヴィオラの刻みが明確にききとれて、作品のつくりが見えやすかった。 弦楽器のアンサンブルに綻びが散見されたのは残念。 ただこのことは、前述したこの日の高関の指揮に原因があったのかもしれないけれど。
 終演後の拍手も大きかった。 高関は、日本を代表するブルックナー指揮者になる可能性を、確かに秘めている。



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