<コンサート きいて、みて>
1998年11月
プロの演奏家、団体によるクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)

*新国立劇場=二期会公演 「ヘンゼルとグレーテル」
1998年11月28日(土) 15:00〜 新国立劇場 オペラ劇場
フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」は、大好きなオペラのひとつだが、今度、新国立劇場のレパートリーになるということで、早速きいてきた。 私は、このオペラは、美しい音楽がたくさん詰まっている傑作だと本気で思っている。 公演は、気楽に楽しめた。
今回は、原語上演の日と、田中信昭・中山悌一の共訳による日本語上演の日があったのだが、私がきいたこの日の公演は、日本語の方。 と言っても、字幕が用意され、そこには歌詞が表示されていた。 日本語上演のひとつの問題点である、オペラの中の日本語のきき取りにくさに配慮したものだろうが、これはなかなかよいアイデアだと思った。 原語上演が正しいのか、日本語上演がよいのかの議論も一部であるが、私は今まで、このオペラを原語できいた経験しかないので、この公演は台本までも「音楽」としてとらえた場合の違和感を感じた。 もっとも、これはあくまで私個人の「慣れ」の問題に過ぎず、どちらが正しいのか、よいのか、といった問題とは次元の異なる話である。 好みで選べばよいと思う。
第1幕の前奏曲の後半から、サッカーボールと絵本を持った、一組の少年少女が現われ、このプロダクションに関する予備知識を何も持っていなかった私は、もしかしたらこの子達がヘンゼルとグレーテルで、舞台を現代に置き換えた演出なのだろうか、と、一瞬ぞっとしたけれど、そんな奇抜なものではなく、彼らの絵本の中から物語の世界が開けてくるという設定で、これは一安心。 (キャストを冷静に思い起こせば、こんなことを考える私の方がどうかしている。 早とちりもいいところだ。) 出演者たちは適材適所で、ヘンゼルの菅有実子、グレーテルの名古屋木実とも、キャラクターにあった歌唱と演技。 ペーターの小川裕二は、やや知的なムードが勝っている感じで、父親らしい力強さがもうひとつ。
第3幕で登場する魔女は、上泉りく子だったが、この人の存在感はこの日一番。 身振りの大きな演技でユーモアも感じさせ、時折地声を折り混ぜるなど、声の色のつけ方も千変万化。 「やりすぎだ」と思う向きもあるかも知れないが、私はとても楽しかった。
ピットに入ったのは、東フィル。 指揮は佐藤功太郎で、手慣れた指揮ぶりだったが、音楽はいささか生真面目で、個人的にはもう少し、柔らかい音で幻想的な彩りのようなものを求めたかった。
演出は、西澤敬一。 細かいところで、演出上の仕掛けがかなりあったけれど、ベースがオーソドックスなものだったので、これといった不満はない。 新国立劇場の回り舞台を駆使した、どぎつい色のお菓子の家には、魔女の召し使いと思われる、宇宙人のような格好をした男性が三人ほどいたのが珍しかったが、この演出のコンセプトから考えると、何かの象徴だったのだろうか。 演出の意図を深く考えながらオペラを見る習慣のない私には、よく分からなかったけれど。
カーテンコールには、最初に出てきた少年少女がふたたび現われ、絵本を閉じて、めでたし、めでたし。
*ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団
1998年11月27日(金) 19:30〜 サントリーホール
ハンガリー国立フィルの来日公演は今回も、このオーケストラのプレジデント・コンダクター(名誉指揮者よりも格上のポストらしい)である小林研一郎の指揮である。 この日の曲目は、小林の得意とするマーラーの作品、交響曲第2番「復活」である。
一言で言えば、一途な演奏であった。 最初から最後まで、わき目もふらずマーラーの音楽に没頭する小林の執念のようなものが感じられた力演と言える。 強烈なパッションに満ちた指揮ぶりだが、音楽は意外に瑞々しく、スタイリッシュである。 第1楽章は、決然とした運びできき手をぐいぐいと演奏に引き込んでゆくが、マーラー特有のうねりや粘りといったものはあまり感じられず、どちらかというと空回り気味の印象を残した。 だが、これは小林独自の作品感なのかも知れず、ピアノとフォルテが逆になっていたようなところもあって、驚かされた瞬間もあった。 既成の概念からやや離れた、個性的な演奏であったと思う。 第2楽章も骨太の響きで、繊細さより力強ささえ感じさせるもの。 第3楽章は、おどろおどろしい雰囲気などなく、軽快にスウィングする。
声楽が入る第4楽章、第5楽章での女声ソリストは、今ひとつぱっとしなかった。 特にアルトの伊原直子の声は疲労気味で、いつもの艶に欠けていた。 合唱は、ハンガリー国立合唱団と武蔵野合唱団の混成。 小林の作ろうとしていた音楽にマッチした、いい合唱だった。 男声も女声も、低音部が充実しており、ハーモニーもしっかりしていて、演奏全体を引き締めることに一役買っていた。 ここまで来ると、小林とオーケストラの演奏にもより一層力が入り、音楽はますます凝縮されてゆく。 そして、最後は音楽を壮大に開放し、やはり高揚感の中で終結した。
いかにも感動的だが、個人的には、圧倒的な感動を得るにはいたらなかった。
このオーケストラのレベルが、普段どのくらいのものなのかはよく知らないのだが、少なくともこの日に限って言えば、不調だったように思う。 特に、アンサンブルは縦の線が揃わないところが目立っていたのが残念。 最終楽章で舞台裏に置かれたバンダも、生彩を欠いていた。 細部にもう少し丁寧さが欲しかった。 まあ、そういったものをすべて包み込んでしまうほどの「熱さ」、は充分感じ取ることが出来たし、人間の演奏する音楽の生々しさも確かにあった。 例えば、これほど存在感のある弦のピッツィカートやハープの音は、めったにきけないものである。 全体的に見ても、オーケストラは小林のやろうとしている音楽を敏感に感じ取り、それを実現させるために、果敢な姿勢で演奏をしていたように見えた。
終演後、鳴り止まない拍手に小林は、人情味溢れるスピーチ(聴衆への礼と、この雰囲気を大切にしたいので、アンコールは演奏しない旨)。 それでも、ホール内の聴衆の多くは、熱狂的な拍手と歓声をステージ上へ送っていた。 聴衆が、これほど熱くなるのも分かる気がする演奏会であった。 私は、乗り遅れてしまったけれども。
*東京都交響楽団 プロムナードコンサート No.276
1998年11月26日(木) 19:00〜 サントリーホール
音楽監督就任後、ガリー・ベルティーニは都響でマーラー、ブラームス、ラヴェル、ベルリオーズなどの作品を指揮してきたが、この日は「ウィーン古典派」の三大作曲家の手による作品を真正面から取り上げた。 オーケストラの音楽監督としては、こういった作品をどのようにきかせるか、ということも重要なことであり、私も期待と、ほんの少しの不安を抱えながら、ききに出かけた。 きき終えて、そのほんの少しの不安など、きれいさっぱりなくなった。 それどころか、ベルティーニの底力の凄さを、まざまざと見せつけられた演奏会であった。
ハイドンの交響曲第95番は、例の「ロンドン・セット」の中で唯一、短調で書かれた交響曲である。 ベルティーニはこの曲を、古典音楽の形式をしっかりと守りながら指揮した。 とは言え、現代オーケストラで演奏するにふさわしく、極端な小編成にせずに、充実した響きを作り出していた。 ハイドンの「機知」を感じさせるような味わいはやや希薄だったものの、若々しい爽やかな演奏が心地よい。 今、こういうハイドンを実演できける機会がどれだけあるだろうか。
モーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲は、ソリストの音楽感がコントラストを伴って表れた演奏。 いささか短絡的な言い方になってしまうが、つまり、ヴァイオリンの漆原朝子は、ソロ・ヴァイオリニストとしてのインパクトを持った、オーケストラから浮き上がるようなヴァイオリンをきかせた反面、ヴィオラの川本嘉子は、オーケストラと自然に融合するようなヴィオラを弾いた。 勿論、ヴァイオリンとヴィオラの音質の差もあるのだろうけれど、どうしても漆原の方が目立ってしまい、ややバランスが崩れていた印象。 やはり、この曲は難曲である。 ベルティーニの指揮は手堅いものだったと思うが、現代的なモーツァルト解釈であり、単なる伴奏に終始することはなかった。
ベートーヴェンの交響曲第7番は、出色の出来であったと思う。 サウンドの重心を低めにとり、安定したリズム感を堅持しながら、その上で各声部を見通しよく鳴らしていく手腕は、ベルティーニがオーケストラ・ビルダーとしても優れた資質を持っていることを裏付けているよう。 この作品を古典的な交響曲の流れの線上にあるものとして完璧にとらえており、リズムを崩すのではなく、アーティキュレーションやデュナーミクのつけかたで、ロマン派の萌芽を感じさせるところなど、本当に見事である。 第1楽章は西洋音楽の巨大な形式美を、適確な演奏設計で呈示し、第2楽章は、旋律の輪郭を鮮明にすることで、甘ったるい感傷に溺れさせない。 第3楽章のトリオからスケルツォへ戻るときも、口あたりのいいリタルダントとは無縁。 第4楽章は猛烈なテンポで、と思いきや、この楽章としては中庸のテンポ。 だが音楽の勢いは息を呑むほどだ。 こう書くと、あるいは辛口の演奏であったように思われるかもしれないが、決して冷たい演奏ではなく、音楽のどこをとっても活力に満ちており、血の通ったベートーヴェン演奏であったと言える。 これで管楽器が、あともう少し締まった音を出してくれれば、と思わなくもないが、この演奏全体から受けた感銘に比べれば、そんなことはとるに足らないことである。
3人の作曲家の個性を、ベルティーニは彼自身の方法論で鮮やかに描き切った。 アンコールにJ.S.バッハの有名な「アリア」。 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンときかせた後に、バッハを持ってくるとは何とも心憎い。 演奏は、これも真摯なものであり、とても立体感のある弦楽合奏が素晴らしかった。
就任直後はどうなることかと思ったベルティーニと都響だが、今回の来日は大変な成果を上げたと思う。 ベルティーニがどれくらいの間、このオーケストラに居てくれるのかは分からないけれど、3年後、5年後にどんな演奏をきかせてくれるのか、想像しただけで胸が高鳴る。 いやはや、都響は大変な人を音楽監督に迎えたものだ。
*ロシア・ナショナル管弦楽団
1998年11月23日(月) 19:00〜 東京オペラシティ コンサートホール
結成8年目のロシア・ナショナル管弦楽団が、音楽監督で常任指揮者のミハイル・プレトニョフとともに来日公演を行った。 実演をきくのは久し振りだが、以前に比べて、オーケストラとして相当こなれた演奏をするようになったようだ。 この日は、よく知られている交響曲を2曲。
まずは、ベートーヴェンの交響曲第7番。 第1楽章冒頭のトゥッティの和音はすっきりと鳴っていたが、全曲を通してプレトニョフはオーケストラをよく鳴らす。 ただ鳴らすだけでなく、色々なところに細かい細工を施す。 それは、管弦のバランスであったり、デュナーミクのつけ方であったりするのだが、きいていて、はっとするものの、何となく一貫性に欠けていて、納得させられるところまでには至らない。 この曲の大事な要素であるリズムを、やや大雑把にとらえているふしがあり、物足りなさを感じた。 フィナーレは、開放的なサウンドで、速めのテンポでオーケストラを煽るなど、大向こううけしそうな演奏であったが、きこえてくる音が少し混濁気味で、せっかくのヴァイオリン両翼配置もあまり生かされていないように思えた。 これはきき手の好みが分かれそうな演奏だったが、私は違和感をおぼえた。
よかったのは、やはりチャイコフスキーの方。 交響曲第4番だったのだが、大きく開放的な音は変わらなかったけれど、プレトニョフの細工はより必然性を感じ、説得力のある演奏を生み出していたように思う。 指揮者とオーケストラの強い意志と、自信のみなぎる演奏で、それはやはり、ステージ上の演奏家達が自然に身につけているロシア音楽の伝統を感じざるを得ない。 第1楽章は交響曲の形式を意識した演奏の構成が万全で、第2楽章は、メロディーの歌わせ方、ちょっとしたテンポの変化や、オーケストラの音色の変え方が、こちらの胸をしめつけるような叙情的な味わいに富んでいたし、第3楽章のピツィカートは整然と、かつ流麗で、洒落た感じ。 フィナーレは予想通り圧倒的で、全体的に見ても、音楽が弛緩してしまう瞬間がなかった。 このオーケストラは、管楽器よりも弦楽器の方が優れているようで、その音は繊細な感じではなく、骨太で芯のある逞しい音だが、美感が損なわれていない。 合奏能力もかなり高い。 オーケストラ全体に関して言えば、これはプレトニョフの指揮のせいなのかも知れないが、音の強弱の幅が狭く、フォルテ側に片寄っている。 そのため、大きく強い音ばかりきいていた印象で、耳が少し疲れたけれど、久々に胸のすくような、痛快なチャイコフスキーがきけて、結構楽しかった。
アンコールは、チャイコフスキーの劇音楽「雪娘」から、「メロドラマ」を美しい弦楽合奏で。 あと、グリンカの歌劇「イワン・スサーニン」から、「ポーランドの踊り」。 有名曲の本プロの後には、あまり知られていない曲のアンコール。
*アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル
1998年11月22日(日) 19:00〜 サントリーホール
アンネ=ゾフィー・ムターは今年、ピアニストのランバート・オーキスを伴って、ベートーヴェンのヴァイオリン・ゾナタを全曲演奏するワールド・ツアーを行っている。 この秋の日本でも、ムターの演奏するベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを番号順に全曲きくことが出来たのだけれど、それは岐阜、宇都宮、そしてこの日の東京と、各地での演奏会を通して全曲、という、ちょっと変わったチクルスになっていた。 東京は日本での最終公演にあたり、最後のふたつのヴァイオリン・ソナタが曲目としてあがっていた。
まず、ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」。 数多のヴァイオリン・ソナタの中でも、言わずと知れた堂々たる名作中の名作であるが、ムターは作品に相応しく、全力でこの曲に取り組んだ。 第1楽章の出だしは、思っていたより軽い感じで伸び伸びと弾かれたが、主題が提示されると、ぐっとテンポを落とし、決然とした表情を作り出す。 楽譜を隅々まで、入念に吟味した様子がうかがえるような演奏で、移ろいゆく音楽の訴えかけるものを、その時々に応じて最大限に汲み取ろうとする姿勢が痛切に感じられた。 これは第2楽章のヴァリエーションや、第3楽章の舞曲風の音楽にもよく表れており、それは今のムターが、自分の持っている演奏能力を余すところなく出し切ってしまおうとしているかのよう。 作品の深い精神性に、ダイレクトに踏み込んでいこうとするような呼吸の長いルバートや、ヴィブラートとノン・ヴィブラートの巧みな使い分けなどが、明るく艶のある開放的な音色とは裏腹に、きき手の耳を休ませないほど雄弁である。 この曲をこういう風に演奏されるのは、私の好みとは少しだけ違っていたけれど、これはムターのベートーヴェンに対する現時点での結論のようなものであり、決して借り物ではないその表現には、きくべきものがたくさんあったのは確か。
ヴァイオリン・ソナタ第10番の方が、私にはしっくりきた。 ムターの注意深い演奏はここでもきかれたが、「クロイツェル」のときよりも自然で、素直に音楽の美しさを表出していたように思う。 特に第2楽章や、第4楽章の中間部といったような、音楽が静かな優美さをたたえた部分では、表面的な美しさを超えた叙情性をききとることができて、改めてムターの才能に感心してしまった。 「クロイツェル」が協奏曲のような、ゴージャスな作品であるならば、この第10番は、すでにベートーヴェンの晩年の心情が吐露されているような傑作であり、ムターの演奏できくと、各々の性格づけがより一層明確になる。
これらの作品の本当のタイトルが、「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」であるならば、オーキスのピアノにもう少し主張のようなものが欲しかったけれど、ムターをぴったりとサポートし、ヴァイオリンとの一体感を強く感じさせた点は立派。 ムターが信頼を寄せているのも、頷ける気がした。
アンコールも、すべてベートーヴェンの作品。 ただし、編曲ものを中心とした軽めのものばかりで、こういった作品に戴してもムターはかなりの適応性を見せる。 これらは気楽に、楽しくきけた。
*東京都交響楽団 第479回定期演奏会
1998年11月21日(土) 19:00〜 サントリーホール
指揮は、音楽監督のガリー・ベルティーニ。 ベルティーニと言えばマーラー。 都響はどうやらこれからも、マーラーの作品をベルティーニの指揮で継続的に取り上げてゆくようだが、今回は第2弾として、交響曲第3番を演奏した。 開演前から、ホール内の空気は期待に満ちている。
その期待に応えるかのように、第1楽章冒頭のホルンが、美しく深々とした音色で鳴り響き、早くも名演を予感させる完璧なスタートで演奏は始まった。 「夏の行進曲」と言われるこの楽章を、ベルティーニは強靭な推進力で進めてゆく。 様々に変幻する音楽の様相を、自在にコントロールして、「森」や「自然」の匂いも適確に感じさせてくれる演奏。 都響も奥行きのあるサウンドで、丁寧に響きを使い分けて、ベルティーニの要求に見事に応じる。 交響詩的とさえ思えるこの楽章の演奏としては、終始満足出来るもので、間然するところがなかった。 オーケストラの状態も、とてもいいようだ。
穏やかな第2楽章に入っても、緊張感が後退するような気配は微塵も感じられず、それどころか演奏の密度はますます高まってゆく。 ベルティーニの妥協のない緩急のつけ方に対しても、もうオーケストラは慌てることがない。 大きな身振りで指揮するベルティーニの音楽を、共感を持って理解しているように見えた。 第3楽章も大変なききものであったが、ひとつだけ言うとすれば、福田善亮が吹いた例のポスト・ホルン。 少し傷があったものの、音楽性豊かな演奏で、これは大健闘であったのではないだろうか。 また、ここまでの楽章の随所できかれた、コンサートマスターの矢部達哉のソロも美しく、やはりこの人はオーケストラの中でのソロで光るものがあると感じた。
第4楽章のアルトを歌ったのは、伊原直子。 さすがに貫禄と余裕の歌声だ。 第5楽章の女声合唱は、東京音楽大学の約70名。 児童合唱は、東京放送児童合唱団の約50名。 ステージ後方のPブロックの向かって右側に女声合唱団、左側に児童合唱団が配された。 これらの合唱は、まずまずと言ったところか。
第6楽章が、やはり圧巻となった。 ベルティーニはいつの間にかタクトを置いて、この楽章の語るものの大きさを、絶妙の緩急、ニュアンスで指揮した。 音楽はここで、もう一段高いところに達し、その集中力は驚異的とさえ言える。 ベルティーニのマーラーへの愛情や情熱が伝わってくるような演奏であったが、この人が立派なのは、情感に溺れてしまうことが決してなく、かと言って安全運転に終始することもせずに、いつもぎりぎりの所で踏みとどまることが出来る点で、その結果、音楽に思いもよらない新鮮な生気が満ち溢れる。 フォルムが崩れないから、普遍性を持った、説得力のある演奏が出来るのだと思う。 ところで、音楽が深い感動を伴って終結しようとしていた正にその瞬間、正確には最後の音が出た後、その響きが消える前に、誰かが間髪入れずに拍手をした。 この時、ベルティーニの手は、まだ下りていなかったように思う。 色々な意見があることを承知で言わせてもらえれば、特にこういった曲の場合には、余韻がとても重要なので、拍手はあと少しこらえて欲しいと思った。 個人的には、この演奏会でもっとも残念な出来事だった。
ともあれ、これはベルティーニと都響の共同作業における、現時点での最良の成果をきくことが出来た演奏会であった。 今年6月の「復活」を遥かに凌駕する、知、情、意のバランスのとれた感動的な名演、と言っても差し支えないだろう。
*NHK交響楽団 第1366回定期演奏会
1998年11月21日(土) 14:00〜 NHKホール
11月のN響は、桂冠名誉指揮者のウォルフガング・サヴァリッシュの指揮で、全プログラム、シューマンの作品のみを演奏している。 サヴァリッシュのシューマンと言えば昔から定評のあるもので、この日の演奏会もとても充実したものになり、私の個人的なスケジュールの関係で他の日の演奏会をきくことが出来ないのが口惜しくなるほどのものであった。
序曲だけが比較的よく取り上げられる、歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲の重々しい序奏部から、もう見事なシューマンの世界である。 主部に入ってからのリズムのきれ、洗練された管楽器のファンファーレなど文句なしである。 きき手を自然にシューマンの音楽へ誘う。
チェロ協奏曲は、もう中堅のチェリストと言ってもいいマリオ・ブルネルロ。 ことさらひけらかすようなところは皆無であるけれど、ブルネルロのテクニックは安定したもの。 旋律を伸び伸びとうたわせるのがとても上手いチェリストで、晦渋な演奏になりがちなこの曲に、爽やかな明るい光を当てた。 ただしこれは、縦の線をきっちりと整えるサヴァリッシュのやり方と、少し方向的に異なっている。 サヴァリッシュがN響で共演するソリストは、不思議とこういうタイプが多いような気がして、それゆえ演奏が消化不良に終わることもあったが、この日はそんな違和感はあまり感じなかった。 つまり、サヴァリッシュがブルネルロのチェロをひき立て、ブルネルロがサヴァリッシュの指揮を際立たせていた印象。 お互いにない持ち味を補完しあって、演奏に幅が出ていた。 第1楽章はブルネルロのうたが、第3楽章はサヴァリッシュの引き締まった音楽作りが心に残った。 ブルネルロはアンコールにJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲第6番のガヴォットを弾いたが、これも気持ちよくきけた。
最後に、交響曲第3番「ライン」。 サヴァリッシュの面目躍如たりえる演奏であった。 シューマンの交響曲は、ともすればそのオーケストレーションゆえに、響きが曖昧模糊とする危険性がある(それがシューマンの魅力である、と考えることも出来なくはない)が、サヴァリッシュはそうなってしまうことを、細心の注意を傾けて避けており、複雑な音の重なりを丁寧に解きほぐして、シューマンの交響曲の本質的な魅力に迫る。 彼の指揮の美点は、そういったアプローチでも響きが薄くなってしまうことがないところ。 勿論、これは豊富な経験と、シューマンに対する造詣の深さに裏付けられた綿密な演奏設計の上に成り立っているものではあるのだろうけれど、一見するとまるでマジックのようである。 各楽章の性格づけと、それにふさわしいテンポ、リズムの与え方も万全で、例えば第3楽章の和んだ感じと、第4楽章の荘重な感じの対比も過不足がない。 さらに全体を通して、余計な粉飾がほどこされているところなど微塵もなく、シューマンの音楽だけを見据えた緊張感のある演奏を一気にきかせてくれた。 サヴァリッシュの真摯な音楽は健在である。
N響が伝統的につちかってきた美質を、もっとも自然な形で引き出せる指揮者、それがサヴァリッシュだ。 このオーケストラは、デュトワのような人が指揮しても、サヴァリッシュのような人が指揮しても、それぞれにハイ・レベルで適応できるだけのフレキシビリティがある。 これは素晴らしいことではないだろうか。
*イル・ジャルディーノ・アルモニコ
1998年11月16日(月) 19:00〜 王子ホール
イタリアの古楽アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコは、結成が1985年というから、割合に新しい団体である。 メンバーも20歳台から30歳台の人たちばかりで、若手の優秀な奏者の集団だ。 すでにディスクを何枚かリリースしていて、バロック音楽のアンサンブルとしてはとっくにメジャーな存在になっているが、私がこの団体を初めて知ったのは、実は昨年のことである。 ふとしたことから、このアンサンブルが録音した「ブランデンブルク協奏曲」のCDをきいて、そのあまりに大胆で痛快な演奏にとても感心してから、イル・ジャルディーノ・アルモニコの名前を、遅ればせながら知った、という次第である。 だから、前回の来日公演はきいていないので、今回の公演が、彼らの実演に初めて接する機会となった。 指揮者が存在していることも知らなくて、この楽団のリーダーであるジョヴァンニ・アントニーニが指揮をしたが、これはアンサンブルのまとめ役と言った色合いの濃いものであろう。
ロックの組曲「テンペスト」から演奏会は始まった。 あまり、よく知らない曲で、全曲を(勿論、ディスクで)一、二度きいたことがある程度。 組曲版はまったく初耳なので、何とも感想の述べようがないが、このアンサンブルの響きに慣れる意味では、いい名刺をもらったと言ったところか。
ビーバーの「戦闘」は、おもしろかった。 こういう曲はきっと彼らにうってつけで、奏者たちの楽しそうな感じが、こちらに伝わってくる。 ひとりひとりの奏者がソリストのような表現力で、この作品の特徴をあますところなく表現していたように思う。
J.S.バッハのブランデンブルク協奏曲第5番は、相変わらず自在な演奏だが、これはディスクできいていたので、インパクトはそれほどなかった。 ただし、つまらない演奏というわけではなく、録音では味わえない音楽の活力を感じることができた。 アントニーニはフルートを吹き、エンリコ・オノフリがソロ・ヴァイオリン。 そして、第2楽章で、長いカデンツァを見事に演奏したのは、チェンバロのオッタヴィオ・ダントーネ。
そして、やはり私がもっともびっくりした(感銘を受けた)のは、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」の演奏であった。 これは、すでにリリースされているCDも、まだきいていないので、驚きもひとしおであった。 「春」の第一楽章から、音楽を大きく伸縮させ、とても大胆なデフォルメをほどこしてゆく・・・。 いや、この演奏のどこがどうだったか、などを書いていると本当にきりがないのでやめるけれど、一言だけ言わせてもらえば、こういう大胆な表現でも、彼らのはイヤミがあったり、きき手を挑発するようなところがあったり、あるいは学究的な臭いがしたりすることがない、と言うこと。 快活で、自然で、楽しいし、気持ちがよい。 わくわくしているうちに、あっという間に、音楽は終わってしまった。
アンコールに、ヴィヴァルディの協奏曲をもうひとつと、パーセルのシャコンヌ。 そして何より、「四季」の「冬」から、第2楽章を再度、演奏してくれたのが、私にはとりわけ嬉しいことであった。 これは、イン・テンポのヴァイオリン、ヴィオラのピッツィカートと、チェロのリズムを基調に、オノフリのヴァイオリンがよくうたっていた演奏であったが、何とも言えないなつかしさと、温かい安らぎをもたらしてくれるような演奏で、全曲演奏をきいたときに、もう一度ききたいと思った部分であったのだ。 全曲の中では、比較的デフォルメの少ない部分だったけれど、もっとも心に残ったところである。
そう、彼らの演奏には、いつも人間的な温かさに満ちていた。 だから、とてもいい気分できけたコンサートだった。
*パリ管弦楽団
1998年11月15日(日) 14:00〜 サントリーホール
パリ管の音楽監督のポストは、現在空位である。 今回の来日公演は、ベテランのジョルジュ・プレートルの指揮によって行われている。 プログラムは、これはフランス・プロと言ってもいいだろう。
まず、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」だが、勿論、演奏されたのはラヴェル編曲の管弦楽版。 プレートルはオーケストラを充分に鳴らし、音楽をじっくりとうたい込ませる。 緩急の差はあったものの、総じてゆったりとしたテンポ設定で、ひとつひとつの曲を丁寧に描き切る。 パリ管の機能性の高さも改めて感じさせられた演奏で、さらにプレートルはこのオーケストラを全開に開放する。 これは正にオーケストラ・サウンドの醍醐味を味わうべき演奏で、きいていて楽しい。 「キエフの大門」など、クライマックスに入る直前に、スコアに指示されていないティンパニの音を追加するなどして、迫力満点。 前半で早くも、コンサートを一本きき終えたかのような感覚になる。
続くドビュッシーの交響詩「海」も、「展覧会の絵」と同じような傾向の演奏になっていたが、ここでは何より、パリ管の音色の美しさが印象的であった。 たびたび来日しているこのオーケストラがフランス的な音色を出したのを、私は最近きいたことがあっただろうか。 オーケストラの自主性と積極性が素晴らしく、それを自然に引き出しているプレートルの手腕もさすがである。 プレートルは「展覧会の絵」や「海」といった、絵画的な作品を表現することが、本当に手慣れているようだ。 眼前に絵が浮かんでくるような演奏、とだけ言えば、それ以上詳しい説明はいらないだろう。
そして、ラヴェルのボレロ。 名手揃いのパリ管の真骨頂である。 かつてプレートルがウィーン響と来日したとき、この曲を演奏した際、独特の節回しをしていた記憶があるのだが、この日もそのときのことを思い出させるような、アンニュイな節回しは健在だった。
アンコールは3曲。 オッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」から、「ホフマンの舟歌」。 そしてブラームスのハンガリー舞曲第1番。 ハンガリー舞曲なら、これだけ粘って、ためのきいた演奏の方が、きいていてはるかにおもしろい。 最後に、ビゼーの「アルルの女」の「ファランドール」で、ホール内をわかせた。
プレートルは、きかせ上手な指揮者だ。 音楽のニュアンスを、上手にきき手に伝えられる指揮者であると思う。 この日の演奏会に限って言えば、音楽の構造や精神性などよりも、オーケストラの色彩と迫力を満喫できるものであった。
*新日本フィルハーモニー交響楽団 第273回定期演奏会
1998年11月13日(金) 19:30〜 オーチャードホール
かつて新日本フィルの音楽監督であった井上道義は、また最近になってこのオーケストラとの関係が深まり始めているようだ。 今月の定期演奏会の指揮をし、来年はマーラー・チクルスを行うという。 日本のこの世代の指揮者には、これからますます頑張ってほしいものだ。
この日の前半の曲目は、新ウィーン楽派の作品が2曲。 まず、シェーンベルクの「5つの管弦楽曲」。 井上は理詰めの解釈で押し通すようなことをせず、あくまでもロマン派の流れの延長線上にあるものとしてこの曲をとらえた。 つまり、必要以上に分析的になるよりも、作品の全体像をまずつかんで、音楽の流れを重視するやり方。 シェーンベルクが随所にしかけた美しい響きを、うまく拾い上げてメロディアスに表現してゆく。 その指揮ぶりは例えば、第3曲の「色彩」のような曲によくマッチしていて、そこで井上が呈示する様々な表情は、まるであたかも豊かな旋律が奏でられているような気分にさえなる。 音を厚く重ねず、注意深く作品の美質を抽出する様子は、今世紀の音楽を演奏するときに陥りやすい、所謂「うるさい演奏」とは無縁のもの。 ただ、一抹の物足りなさが残ってしまったのは、なぜだろう。
ベルクのヴァイオリン協奏曲の井上の解釈も、この方針が踏襲されていたが、ここでソロを弾いたジョルジ・パウクのヴァイオリンの音が、ことのほか美しかったせいで、井上の指揮によく合った協奏曲演奏となった。 パウクのヴァイオリンは、音量はさほどないのだが、逆に大きな音をいたずらに出さないことが、美しい演奏をするための必然であるようなことを静かに主張しているよう。 一見、流麗な演奏のように思えるのだが、細かい部分での音と音との繋ぎの部分でのフレージングなどに、細心の注意が払われており、実はかなり知的なヴァイオリンである。 よく考えられた美しさはベルクにぴったりで、理想的な演奏になっていたように思う。 アンコールにJ.S.バッハのパルティータ第2番から「サラバンド」を弾いたのだが、これがベルク作品のエコーのように響き、完結した世界を作っていたのは見事。
後半は、ベートーヴェンの交響曲第5番であったが、これが一筋縄ではいかない演奏。 第1楽章から、例の「運命動機」を叩きつけるように演奏させ、この曲の厳しさを印象づけた井上は、第2楽章に入って、相対的にかなりゆっくりしたテンポをとり、音楽を静かに、噛んで含めるように進めてゆく。 それは「安らぎ」とは少し違っていて、常に不安がつきまとっている「情念の中での休息」のような感じで、この前半のふたつの楽章がこの演奏のイメージを決定づけた。 フィナーレも通り一遍の開放感ではなく、戦いに疲れ、傷ついた挙げ句にようやくつかんだ勝利といった趣きで、だがこの後にも辛い戦いが待っている、というようなことを暗示しているかのような、意味ありげな演奏。 一言で言えば「暗い演奏」ということになるかも知れないが、ベートーヴェンがこの曲に託した人間の厳しいドラマを、井上なりの解釈で表現した、きき応えのある演奏であったと言える。
こういう演奏会をきくと、井上がショスタコーヴィチの演奏になぜあれだけの適合性を示すのか、そのことを考える上でのヒントが見えるような気がして興味深かった。
*東京都交響楽団 第478回定期演奏会
1998年11月12日(木) 19:00〜 東京芸術劇場
都響の今月の定期演奏会は、音楽監督のガリー・ベルティーニの指揮。 今回も名曲揃いのプログラムを引っさげての登場であるが、この日はブラームスとベルリオーズの力作ふたつという、やや重たいプログラムである。 特にベルリオーズは、2対のティンパニの他、打楽器も多く必要になるが、この日、ティンパニのトップを叩いていたのは、新日本フィルの首席である近藤高顯であったように見えた。 新日本フィルも、この日に定期演奏会があったはずだが、こういうこともあるのだ。
演奏会だが、まずブラームスのヴァイオリン協奏曲から。 ソリストはソロ・コンサートマスターの矢部達哉。 この人がこの曲を演奏するのを、これまでも何度かきく機会があったが、印象は今回も大体同じ。 音はやや肉付きがよくなったようにもきこえたけれど、この曲を演奏するには、やはりまだ細身の感が否めない。 無理なく、美しく、音楽はよく流れていたが、この曲に私が求めているものと、少し違う。 音楽の懐の深さと言うか、明暗をすべて包括してしまうようなスケール感と言うか、そういうものがあと少しだけ欲しかった。 矢部のヴァイオリンは繊細だが、神経質なところも感じられ、こういう協奏曲では、そこがどうしても気になってしまう。 高い水準の演奏には違いないのだが。 ベルティーニのオーケストラは、丁寧な演奏。 ソロとオーケストラのバランスも、妥当なものであったけれど、(この後に演奏された曲に比べて)シンフォニックな立体感が今ひとつか。
メインは、ベルリオーズの幻想交響曲。 ベルティーニと都響のフランス音楽と言えば、今年上期に演奏された「ダフニスとクロエ」の名演が思い出される。 その時の演奏会は、私が今年きいた演奏会の中でも、とりわけ印象深いもののひとつとなったが、この日のベルリオーズも、あらゆる刺激に満ちた、大変に充実したものになった。 ベルティーニの指揮は厳格で、自信に満ち溢れている。 リズムはとても強固なものであるし、フレージングも正確で、その場の雰囲気で恣意的になってしまうことなど、まったくない。 作品全体の構成の把握が万全で、正確である。 その上、この演奏は非常に情熱的であった。 それは各声部のデュナーミクのつけ方が、作品の語ろうとしているものに見事にそっており、場面場面で突出させる楽器も、実によく考えられている。 頻繁に、そして唐突に変わる楽想も、オーケストラの機能性に一切妥協することなく、本当にそういう風に弾かせるので、きいている方も息をつく暇がない。 「ダフニスとクロエ」のときもそうだったけれど、表面的な綺麗さ、流麗さには目もくれず、真実の音楽を演奏しようとするベルティーニの指揮が素晴らしい。 こういう指揮者が相手だから、都響もどうしてもベルティーニの棒に素早く反応しかねたと思われるところもあったが、前回の来日のときよりも、オーケストラと指揮者の関係はよくなってきているように思えた。 いい演奏だった。
これからきっと、もっとよくなる。 もっといい演奏がきけるようになる。 期待は高まる。
*ウィーン室内合奏団
1998年11月7日(土) 19:00〜 サントリーホール
ウィーン・フィルのメンバーを中心に構成されているアンサンブル、ウィーン室内合奏団の公演。 彼らの十八番であると思われる、モーツァルトとベートーヴェンの室内楽曲の名曲プログラムである。 このアンサンブルのメンバーは固定のもので、オーケストラ・コンサートやオペラ公演の合間をぬって演奏活動をしているため、常設のアンサンブルではないのかもしれないが、少なくともそれに準ずるものであると考えてよいと思う。
全部で9人のメンバーが、演奏曲の編成によって入れ替わりをしながらのステージだが、みんな達者な名人である。 リーダーであるヨゼフ・ヘルを中心に、とても高い水準で有機的にまとまったアンサンブルは、良質な室内楽をきく楽しみを私たちに味わわせてくれる。 モーツァルトのディヴェルティメント第10番や、ホルン五重奏曲は、明るいモーツァルトの世界を屈託なく表現しており、響きもよく洗練されていて、何の心配もすることなく、ゆったりと音楽に身をまかせられる演奏。 メンバーひとりひとりの自発性も素晴らしく、これらの作品の模範とも言ってよい演奏は、彼らのこころや体に、ごく自然に備わった音楽性を、当たり前に表出した結果であったのであろう。 ホルン五重奏曲のホルンを担当したのは、エリック・ターヴィリガー。 まとまったアンサンブルの中で、いかに不自然になることなく、この楽器の存在感をアピールするかが、よく考えられており、それを支える弦楽四重奏も、決して脇役にまわることがない。
ベートーヴェンの七重奏曲もそう。 7つの楽器が、それぞれ日に当たり、影にまわる様を見るにつけ、彼らの綿密なコラボレーションがとても強烈に感じられる。 各楽章のテンポや、楽想のとらえ方もまったく妥当なもので、各楽器のバランスや、ちょっとしたタメのきかせかたも、すべて堂に入っており、さらには音楽の生命力が微塵も損なわれていない。 こういった演奏では、新しい視点による鋭い演奏解釈のようなものは期待できないけれど、いい演奏にそういうものを期待する方が、野暮なことであるということを思い知らされたような気にさえなる。 柔らかく美しい響きで、春の陽射しのように広がってゆく音楽は、理屈抜きに心地よい。 「これがウィーンだ」などと安易に言いたくはないけれど、おそらくかなりの訓練をして、非常に高い水準の演奏能力で、あたかも気楽に演奏されているかのような音楽をきいたなら、「もしかするとこれが・・・」くらいのことは思ってもいいだろう。
アンコールにシューベルトの八重奏曲からのメヌエットと、J.シュトラウスの楽しい「無窮動」をサービスしてくれた。 何か、ほっとするような音楽会であった。
*バンベルク交響楽団
1998年11月5日(木) 19:00〜 サントリーホール
健康状態があまり良くなく、最近もヨーロッパでの公演をいくつかキャンセルしている、という情報が入っていて、来日できるかどうか危惧されていたホルスト・シュタインだが、自らが名誉指揮者のポストにあるバンベルク響と、どうにか来日してくれた。 このオーケストラは、現在のシュタインともっとも関係の深いオーケストラで、このコンビでの来日も、もう5回目である。 この日はブラームスの偶数番の交響曲をふたつ。 シュタイン得意のレパートリー。
交響曲第2番の、冒頭の低弦の動機からホルンの主題が導き出されると、「ああ、ブラームスだ」と、思わず呟きたくなるような充足感に満たされる。 シュタインの指揮ぶりは、かつてのようなエネルギッシュな動作はまったく影をひそめ、必用最小限と思われる動きしか見せない。 もはや棒のテクニックで音楽を作ることはせず、その体から発せられる存在感でオーケストラを引っ張ってゆく。 これはやはり、彼の体力が相当なくなっていることを示唆しているが、演奏はとても立派なものだ。 旋律の呼吸は浅めで、朗々とうたい込む様子はないけれど、アーティキュレーションを細部までしっかりと整え、律義な音楽作りである。 オーケストラのサウンドが充実しているから、ブラームスの深みやスケール感が損なわれることがない。 指揮者とオーケストラの持っている音楽が、絶妙のバランスを保っているので、派手さはないが滋味に溢れている。 それがもっとも顕著に現れていたのがフィナーレで、遅めのテンポで慌てず騒がず、オーケストラをよく鳴らしても熱狂させない、真摯な演奏になっていた。 緊張感がやや後退していたのは残念だったけれど、そのかわり、何か巨大なものが少しずつ迫って来るような、異様な迫力を持っていた。
交響曲第4番も傾向は同じ。 シュタインの指揮は、いよいよ枯淡の域に達したか、と思えば、第3楽章など全盛期の彼が彷彿するような、引き締まった演奏もきかせた。 フィナーレのパッサカリアも、対位法的な要素を適確に描き分け、ドイツ音楽の正統派としての解釈は健在。 全体をとおして、虚飾とは無縁の、素顔のブラームスを感じさせる音楽であった。 アンコールにハンガリー舞曲第1番。
バンベルク響は、特に機能性の高いオーケストラではないと思うけれど、自然に音楽を奏でることが出来る、優秀な奏者が揃っているようだ。 シュタインの指揮が、時に不明確(?)と思われるところがあったせいかもしれないが、アンサンブルの細かい乱れは散見された。 だが、それも些細なこと、と思わせてくれるような自発性がある。 特に木管は上手い。 技術的にどうこう、ということよりも、本当にいい音で、いい音楽をきかせてくれた。
指揮台への行き来の足取りがおぼつかないシュタイン。 しかし、音楽は大丈夫。 次はいつだろう。
*マリア・ジョアン・ピリス ピアノ・リサイタル
1998年11月3日(火) 18:00〜 東京オペラシティ コンサートホール
およそ一ヶ月にわたって日本に滞在し、様々な演奏会を開いてきたマリア・ジョアン・ピリスの最終公演はリサイタルである。 曲目が追加になり、曲順も一部変更されたので、シューベルトを軸とした演奏会の色合いが濃いものとなった。
最初の曲が追加になった曲目で、シューベルトの即興曲D.899の第1曲。 最初の和音から、思わず姿勢を正されるような、ピンとはりつめていて澄んだ音色で、場内を一気にシューベルトの世界へ引き込んでゆく。 ぽつりぽつりと弾かれるその音楽は、シューベルトの孤独な世界を強く印象づけ、とても厳しい寂寥感に満ちたものとなっていた。 ピリスのシューベルトは、とても気楽にきけるようなものではなく、きき手のこころを鷲づかみにして、音楽のとても暗い部分までも、否応なく意識させる。 寡黙な演奏が、強烈な存在感を持って迫ってくる瞬間である。
こんな調子だから、舞台袖に引っ込まずに、引き続き演奏されたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」は、シューベルトの音楽との繋がりを意識せずにきくわけにはいかない。 事実、ここで演奏された「月光」は、シューベルトの作品の下敷きになっていることを考えさせられるような演奏で、第2楽章の軽やかさも、どこか孤独の中の休息のようにきこえ、ドラマティックな第3楽章でさえも、やり場のない悲しみが、怒りとなってあらわれたようにきこえる。 タッチはデリケートなのだけれど、音楽の語るものは何と厳しいことだろうか。
さらにその流れは、J.S.バッハまでにもさかのぼる。 パルティータ第1番は、バッハの正統的な演奏といったものとは、少し違っていたけれど、ピリスがなぜ、バッハのパルティータの中で、この作品をよく演奏するのか、いや演奏しなければならないのかが、演奏会の中でこの曲をきくことによって、分かりやすくなる。 節度を崩さない範囲で、テンポの伸縮や、音の強弱がグラデーション的にコントロールされているが、それらが語るものは、人間の喜怒哀楽そのものである。 バッハの音楽にしては手を入れすぎだ、と感じるきき手がいても不思議ではないが、現代ピアノ(余談だが、この人はヤマハのピアノを使っていた)でバッハを演奏する意義を、ピリスなりに見出して、実現したものと言えるのではないだろうか。
そして、最後にシューベルトに戻り、即興曲集D.935をまとめて演奏した。 今のピリスは、シューベルトに深く思い入れているのだろう。 朴訥とした語り口は変わらないのだが、表現はやや感情的とさえ思える部分もある。 例えば無音部でのフェルマータの扱い方だが、色々な所での沈黙はやや長く、とても深い。 ともすれば、音楽の自然な流れを損ないかねない「冒険」とも言えるし、実際その深い呼吸にこちらがついていけなくなりそうになった場面もあったけれど、その語るものの大きさは、とてつもないものである。 表面的な印象とは裏腹に、一曲一曲の性格を雄弁に描き分けていた。 第4曲目のヘ短調など、かなり鮮烈な情熱を感じさせるもので、それが「月光」ソナタの最終楽章に呼応していると感じることは、考え過ぎであろうか。
ピリスはアンコールに、シューベルトの「3つの小品」から第2曲を演奏することで、この演奏会の方向性を、さらに決定的で、確固たるものとしていた。 それがどんな演奏であったか、もう言うまでもないだろう。
*ラドゥ・ルプー ピアノ・リサイタル
1998年11月1日(日) 18:00〜 サントリーホール
「千人にひとりのリリシスト」とは、ラドゥ・ルプーのキャッチフレーズとしてしばしば用いられる言葉である。 その言葉の本当に意味するところは、はっきりとは分からないけれど、この人はやはり、他の誰をもってしても代えられない、独自の個性を強烈に持ちあわせていることは確かだ。 言ってみれば、「透明感」。 どんなに音符が複雑に絡むところであっても、どんな強奏でも、出てくる音色はいつも透明である。 それは、どんな音符も明確に弾きわける、透徹した完璧性といったものとも、少し違う。 軽い音を指向しているわけでも、勿論ない。 ルプーの感性の中において、音楽の各局面でのロマンティシズムは強く意識されているのだけれど、泥臭さのようなものがききとれることはなく、音楽が常に澄んでいる。 この日のプログラムは、ベートーヴェンの有名なふたつのソナタの間に、ヤナーチェクとラヴェルが挟まれるという、一筋縄ではいかないものであったが、ルプーの目指している音楽をききとるには、恰好のプログラムであったと思う。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第15番「田園」から、すでに透明なロマンティシズムを感じさせる演奏。 私個人としては、この曲はもう少しさり気なく弾いてもらう方が好みなのだけれど、このルプーの演奏できいても、大きな違和感は感じなかった。 旋律の粘りなどが、節度をもった範囲できかれるのだが、音楽全体のフォルムを崩してしまうようなことはない。 個性的な「田園」であったと思うが、このあたりは好みの分かれるところではないだろうか。
ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日」を耳にする機会はあまりないのだが、ルプーはこの曲の悲痛なメッセージを見事に捕らえており、それを踏まえて、臆する所なく劇的な表情を作っていたことは興味深い。 例えば私は、フィルクスニーの演奏したものをディスクでよくきくのだが、それと比べてかなり饒舌である。 ストレートに悲しみが伝わる演奏であるが、それでも一抹の清涼感がいつもどこかに漂っているため、必用以上に重たくなることがない。 ルプーの天性の資質が、バランスの取れた感情表現を、結果的に作り出した演奏であったと言える。
ラヴェルのソネチネも、必用に応じて力感を強調した音楽になっているし、普通だったらこういう演奏をきくことは、私は得意ではないのだけれど、理屈では割り切れないルプーの音楽の生かし方に、意外に抵抗なくきくことが出来た。 それどころか、この曲から今までききとることのできなかった「主張」をききとれた気分になった。
そして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番。 強烈なパッションに溢れた演奏で、深くて濁ることのない、それでいて強いインパクトをもったフォルテが印象的。 ルプーは音符の数の多い箇所、つまり情報量の多い部分で思い切ったルバートをかけ、ひとつひとつの音をとても大事にしながら、作品の内部に踏み込んでゆく。 特に左手がアピールするものが素晴らしく、それはベートーヴェンの晩年の作品を演奏する際には不可欠なものだ。 所謂「正統的」な演奏とは違うものであったかも知れないが、演奏家が作品を消化し切っているため、その説得力は相当ある。 これは、大変に充実したベートーヴェンであった。
アンコールにブラームスの間奏曲を、静かな語り口で演奏してくれたお陰で、演奏会としての後味も、とても良かった。
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