<コンサート きいて、みて>
1998年8月

プロの演奏家、団体によるクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
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*日本フィルハーモニー交響楽団 第236回名曲コンサート
  1998年8月30日(日) 14:00〜 サントリーホール
 夏のおわりに、もうひとつ名曲コンサートを。 小林研一郎指揮の日本フィルという、定番の組み合わせでの演奏会である。
 まず、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。 これは率直に、素晴らしい演奏であったと言える。 小林はこの曲のすみずみまで、自らの感性で充分に咀嚼しており、演奏された音楽は間然するところがない。 独特の節回しのようなものは、より一層磨きがかかっており、思い切ったテンポの伸縮も見事にはまっていた。 また例えば第2楽章できかれた、内声部の旋律やリズムの生かし方は、この作品を生き生きと呼吸させるためにはまったく見事な手段であり、ききての心地良い緊張をそぐことがない。 オーケストラも第3楽章まではほぼノー・ミスであり、小林の要求に存分に応えていたばかりではなく、いい意味で肩の力が抜けており、のびのびと演奏していたことが印象深い。 小林(と日本フィル)は、何だかしょっちゅうこの曲を演奏しているような気がするけれど、それがルーティンな演奏にならず、充実した気力でこれだけ新鮮さを保った演奏がなされることについては、まったく敬服してしまう。
 次のヘンデルの組曲「水上の音楽」は、あまりおもしろくなかった。 その理由の大半は、おそらくハーティの編曲による版であったためであり、近年ますますこの版での演奏を耳にする機会が減ってきているのも分かる気がした。 いや、最近きく機会がなくなってきているから耳が慣れないのだろうか。 ドヴォルザークの生き生きとした演奏をきいた直後だからなのかもしれないけれど、リズムや音が鈍く、あまり伝わってくるものがなかった。 テンポの遅いエアなどでは、しみじみとした叙情性が感じられなくもなかったが、それが必ずしもこの作品にふさわしいものであるのかどうか。 少なくとも現代にこの作品を再現させるときに。
 最後はラヴェルのボレロ。 引き締まったテンポで、ソロをとる楽器の旋律の質感もよくそろっており、ダイナミズムも万全。 この曲の模範的な演奏であったように思う。 あらかじめ分かってはいても、小林の術中にはまってしまい、エンディングではかなりの高揚感をおぼえた。 小林はよく「炎の・・・」などという言われ方をするけれど、演奏設計は実に綿密でしたたかであり、やみくもに勢いにまかせて、それこそただ「燃えるような」演奏をするタイプの指揮者ではないということを再認識した。 この人は多分、演奏中は見た目よりもずっと冷静である。
 とても、楽しかった。



*第10回 アフィニス夏の音楽祭 東京公演[T]
  1998年8月19日(水) 19:00〜 すみだトリフォニーホール
 アフィニス音楽祭は、日本の若手オーケストラ団員が中心となり、経験豊富な世界の奏者を講師に迎え、室内楽を中心に演奏する音楽祭だそうだが、今年はちょうど10回目に当たり、東京でオーケストラ公演を開くはこびになったらしい。 この日のオーケストラにはコンサートマスターのスチュアート・ケイニンや、ホルンのデール・クレヴェンジャーをはじめとする錚々たる面々が並んでいた。
 まず、金聖響の指揮によるコープランドの「市民のためのファンファーレ」。 リズムは重いのに、音色は軽いという不思議な演奏だった。 とても短い曲なので、これだけでこの指揮者をどうこう言うことはできない。
 その後は朝比奈隆の指揮となった。 ワーグナーのジークフリート牧歌は、大オーケストラでゴージャスに鳴らすことも出来るけれど、この日は編成を刈り込んで、室内楽的な演奏になった。 この曲の本来の姿になるべく近づけたのだろう。 朝比奈の指揮も、時折思い切ったルバートをかけるところもあったが、総じて中庸のテンポで、音も厚く重ね過ぎることなく晴朗な演奏であったと思う。 この曲では、朝比奈が座って指揮をしていて、「朝比奈も遂に・・・」、などと思ったのだが、これは小編成のオーケストラを親密に、室内楽的に指揮をしようとした意図があっただけであることに違いない。
 メインのブラームスの交響曲第1番では、いつもどおり立って指揮をした。 朝比奈のこの曲の演奏は、実演でも過去に数回接しており、その中にはかなり感動した演奏もあったのだが、この日の演奏は少し居心地の悪さを覚えてしまった。 オーケストラは技術的には問題ない。 と、言うより上手い。 アンサンブルも臨時編成のオーケストラにしては相当に高い水準であったと思う。 私にとって問題は、朝比奈の解釈にあった。 朝比奈はこの曲をいつにも増してロマンティックに指揮した。 遅目のテンポ、恰幅の良いオーケストラの鳴らしっぷりはいつもどおりだったが、ワーグナーのときにきかれたルバートが、ブラームスでは更に強烈になり、特に第1楽章においては、音楽が失速してしまっていたところも散見された。 奏者に名手を揃えたせいもあったのかもしれないが、メロディアスなところでは旋律を充分に歌わせたかったのだろう、ことのほか「遅く」なってしまっていた。 第2楽章は、なかなかテンポも締って、いい演奏になりかけたが、ソロ・ヴァイオリンが歌い出すところでまた失速してしまう。 最終楽章でようやく、この緩急の変化も堂に入ってきた感もあったが、オーケストラ音楽として、ブラームスの第1交響曲として、このやり方はどうだろうか。 オーケストラそのものは高水準であったが、朝比奈の持ち味である、「中身の濃い」音楽としての要素は、このロマンティックな演奏によって皮肉にも後退してしまった感を拭えない。
 個人的には違和感を覚えた演奏だったが、終演後の聴衆の熱狂は凄まじいものがあったので、もしかするとこれは、「名演」であったのかもしれない。 この日の私は、その熱狂の渦に入ることは出来なかったけれど。



*東京二期会オペラ劇場 「フィガロの結婚」
  1998年8月2日(日) 14:00〜 新国立劇場 オペラ劇場
 東京二期会がモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を原語上演するのは、今回が初めてだそうだ。 やや意外な気がしたが、二期会にとって重要なレパートリーのひとつである演目なだけに、安心できる、質の高い上演を見せてくれた。 派手さはなかったが、経験豊富な出演者たちの地力を感じさせる公演となった。
 出演した歌手たちはみな一定の高さの水準をキープしており、破綻する心配はほとんど無用であった。 フィガロの池田直樹はパワーがやや不足していた感もあったが、このオペラと役柄に対する造詣の深さによって、ほんのちょっとした所作に微妙な心理描写を混ぜていて、なかなか味のあるフィガロであった。 女声陣では何と言っても、スザンナの名古屋木実の可憐な歌唱が心地良く、美しかった。 彼女の個性はスザンナにぴったり。 いちいち書き切れないけれど、他の出演者も過不足なく役を歌い切っていたと思う。
 演出をしたのは、ウバルト・ガルディーニ。 まずはオーソドックスな演出であった。 新国立劇場という、最新の舞台機構がそろった劇場での上演にしては、それを有効に使い切っていなかったと感じる向きもあるかもしれないが、私にはこれで充分である。 歌手に無理なく歌わせるような演出であり、好感が持てた。
 そして指揮は私が初めてきく指揮者で、大勝秀也という人。 と言ってもかねてから評判はきいていて、ヨーロッパでの劇場経験が豊富であり、現在マルメ市歌劇場の音楽監督である精鋭ということになれば、こちらも期待してきかざるをえない。 大勝のモーツァルトは極めて妥当なテンポ設定であり、アレグロのオペラである「フィガロの結婚」で、勢いにまかせて慌しい演奏にならずに、快活かつ落ち着いた演奏になっていたのはなかなか見事であった。 まったくけれんみのない音楽作りで、真正面から作品に取り組んでいるようであり、オーケストラを開放的に響かせていた。 歌手の歌わせ方も心得ているようで、よく鳴るオーケストラが歌を殺さない様に細心の注意を払い、時々キューを出し過ぎている感もあったが、音楽の呼吸は声楽的である。 あともう少しだけ、モーツァルトがこの明朗なオペラのあちこちに、スパイスのように混ぜた憂愁のようなものにこころを砕いてくれれば、と思ったけれど、今の段階ではそれは望みすぎかもしれない。
 東京フィル、二期会合唱団とも、ほとんど危な気なし。 こんな公演が新国立劇場で日常的に行なわれたら、オペラハウスを手にした実感もわくことだろう。



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