<コンサート きいて、みて>
1998年7月

プロの演奏家、団体によるクラシックのコンサートの見聞記です。 感想を書いたもので、決して批評や評論ではありません。 日付は下から上へ、順番に新しいものになっています。 (文中の敬称は省略しています)
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*N響「夏」’98 −第2夜−
  1998年7月31日(金) 19:00〜 サントリーホール
 NHK交響楽団シーズン・オフ期間中に毎年行われるこのコンサート、今年は会場をこの秋から一部の定期演奏会が開かれるサントリーホールに移し、2日間別のプログラムで行なわれた。 この日はその第2夜。 指揮は昨年、N響の定期で斬新なブラームスをきかせた、イヴァン・フィッシャーの客演。
 プログラムは「オーストラリア=ハンガリー 香しきハーモニー」と題された、ポピュラー・コンサートの趣きで、小品を中心としたものである。 コンサート前半と後半の一曲目に、ふたりのコンサートマスターによる、ふたつのベートーヴェンの「ロマンス」が演奏され、おのおのソロをとらない方がオーケストラのトップに座るという粋な企画もあった。 ふたりとも持ち味を出したソロをきかせてくれたが、後半冒頭、第2番でソロをとった篠崎史紀の音の美しさが印象深い。
 前半はあとシューベルトの交響曲第7番「未完成」。 I.フィッシャーはこの曲の全体像を適確にとらえており、形式的に安定感のある演奏をきかせた。 それに加えて、I.フィッシャーは色彩感溢れるオーケストラサウンドを引き出し、この曲の情感も過不足なく表現していたように思う。
 後半は民俗色の強い曲目が並べられた。 ハンガリーの指揮者、I.フィッシャーにかかればこのような曲はさぞかし、土くさい、思い入れたっぷりの演奏になるだろう、と予想していたのだが、まったく安直に過ぎた予想であった。 I.フィッシャーはこれらの作品に対して、リズムを歯切れよく刻み、クライマックスで圧倒的な表情を作る以外は、基本的に純音楽的な、作品に語らせるようなアプローチを示した。 リストのハンガリー狂詩曲第1番は、そういった意味では肩透かしを食ったような印象を受けたが、ドヴォルザークの「アンダンテ」ではイン・テンポ基調でさり気ない美感が好ましかった。 ブラームスのハンガリー舞曲は、I.フィッシャー自らの編曲によるヴァージョンから2曲演奏されたが、原曲のジプシー音楽的な要素はかなり取り除かれており、代わりに上品な(大人しい?)管弦楽法によっていておもしろくきけたけれど、やはり「何か足りない」と思ったのも事実。 バルトークのルーマニア民俗舞曲あたりから、指揮者もオーケストラもノリがよくなってきて、痛快な演奏になっていった。 最後のエネスコのルーマニア狂詩曲第1番で、セオリーどおり熱く盛り上がり、I.フィッシャーの端正な音楽作りに、N響が枠からはみ出さんばかりの熱演(特に後半のコンサートマスター、山口裕之は大熱演!)で応え、スリリングな演奏となった。 そのままの勢いで、アンコールにJ.シュトラウスの「雷鳴と電光」。
 N響の好調は続いているようだ。 ポピュラー・コンサートもこういった、音楽的レベルの高いものであれば結構満足できる。 いや、こういう演奏であったからこそ、気楽に楽しむことができたのであった。



*大阪フィルハーモニー交響楽団 第37回東京定期演奏会
  1998年7月26日(日) 14:30〜 サントリーホール
 毎年夏の恒例となっている大阪フィルの東京定期。 音楽監督の朝比奈隆が指揮をしているこの公演は、ここ何年かは同じ曲を数年おきに演奏している傾向であるが、それでも毎年チケット入手困難になるほどの人気は、東京のファンが朝比奈と大阪フィルの組み合わせをきける、年に一度しかない機会であるからだろう。 そういった意味において、この公演の聴衆は大阪の定期会員よりも熱狂的かもしれず、オーケストラもそれを分かっていて期待に応えるべく熱演をきかせてくれることが多い。 今年は朝比奈得意のブルックナーで、交響曲第5番。
 まずは朝比奈らしい演奏であった。 つまりテンポはいつもどおり、ゆったりしたものであり、ダイナミックレンジは狭く、骨太で力感充分。 オーケストラのアンサンブルは、特にアインザッツにおいて乱れが散見されて、金管は(音量ではなく、技術的に)弱いところを見せていた。 これらは決して「小さな傷に過ぎない」と片付けてしまえるレベルではないと思うが、朝比奈はいつにも増して棒を細かく振っていたように見え(パウゼにおいても棒は止まらない)、最近の彼の欠点であると一部に指摘されている「統率力の低下」をできるだけ押さえようとしているように見えた。
 しかし、オーケストラの作り出す響きはやはり独特で、例えばここしばらく朝比奈の指揮できいてきた新日本フィルの響きとは、やはり違う。 どちらがいい悪いは別として、とにかく大阪フィルはもっとも朝比奈サウンドを忠実に鳴らせるオーケストラであることを再確認した。 管弦のバランスは必ずしも最良とは言い難かったけれど、特に弦楽器はかなり深みのある音を出しており、かつての巨匠達が最晩年にきかせた、ある種の神秘的な響きを思わせた。
 音楽は作為のない、あるがままの演奏であったが、最終楽章にバンダを入れて、圧倒的なクライマックスを築き上げるあたりは、いかにも朝比奈らしい。 きっと朝比奈は、バランスなどというものより、もっと別の何かを演奏に与えようとしているのだろう。
 朝比奈にとって、90歳になって初めての東京公演であったが、90歳であれだけの指揮をすること自体、驚異的と言える。 この日のホール内は何やら祝祭的なムードで、恐らく大阪フィルにとって初めての天覧コンサートとなったことで、そのムードに記念碑的なものが加わっていた。 終演後の喝采は相変わらず。 そういった「現象」を楽しむのも一興だろうが、雰囲気に流されずに、この素晴らしい指揮者の「音楽」に虚心に耳を傾ける、という姿勢を今、私たち聴衆は問われているのかもしれない。



*読売日本交響楽団 特別演奏会
  1998年7月7日(火) 19:00〜 サントリーホール
 エリアフ・インバルは今回、読売日響を指揮するために来日している。 この日の演奏会は今月の定期演奏会と同一のプログラムで、ブルックナーの交響曲第8番、1887年完成の第1稿によるもの。 インバルのブルックナーは、第1稿を使用した演奏を中心とした交響曲全集録音があまりにも有名で、私も時折このディスクを引っ張り出してきてはきいているが、この演奏会は実演に接する貴重な機会である。
 インバルのこの曲の録音は今から15年以上も前のことになるが、それと比較してこの日の演奏は格段にききごたえがあった。 それは生演奏であったから、ということのみならず、インバルにとってもこの曲に対するアプローチが、15年前よりも鋭いものになっているからに違いない。 この曲の第1稿は、私たちが通常耳にすることの多いハース版やノヴァーク版第2稿に比べて、粗削りで楽想も充分に整理されていない感があるけれど、素(す)のブルックナーをきくような、素朴でかつ野人的な音楽だ。 かなり前衛的な音楽で、これはこれで第2稿とは別の魅力がある。 私はブルックナーの研究家ではないので、版の問題に関してはこれ以上言及できないが、この日の演奏はこの第1稿ならではの魅力を存分に生かしきった演奏だったと思う。
 全曲を通してインバルのリズムは鋭く、強弱のつけかたなどはかなりはっきりとした、明確に主張の分かるものであり、曖昧なところは微塵もない。 内声部の旋律の生かし方、音の立ち上がりの鋭さや、和音の衝突時の衝撃は、マーラーやベルクをきいている錯覚に陥ることもある、と言っては言い過ぎだろうか。 この曲の構造が透けて見えるようで、こういった感想はディスクをきいたときには持てなかったものだ。 本当に刺激的で、息をつく暇もない。 しかし、音楽の流れは不思議なほど自然で、ディスクをきいたときに感じた、「とってつけたような」感覚はあまりなかった。 これはインバルの解釈が深まり、より音楽的な表現が可能になったことを意味するのだろうか。 読売日響は自在なインバルの棒によくついており、その機能性には感心するばかり。 高水準の演奏に支えられていたからこそ、この版の魅力を味わえたのである。
 とてもおもしろかった。 だが、インバルが昨年都響と、やはり第1稿で演奏した第3交響曲をきいたときの感動には及ばなかった。 その理由はいたって単純で、私が個人的に第8交響曲は第2稿の方が好きだからである。 (第3交響曲はどちらも好きだが、第8交響曲ははっきりと、第2稿の方が今の私の好みと言い切れる。) ともあれ、これはやはり、きいてよかったコンサートであったことに違いはない。



*ローマ・サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
  1998年7月5日(日) 14:00〜 すみだトリフォニーホール
 聖チェチーリア管と首席指揮者チョン・ミュンフンは、昨秋にも来日して演奏会を開いたが、このときはオーケストラにまとまりが感じられず、傷の多い演奏で少しがっかりした覚えがある。 しかし、今回の公演では、一部の奏者の技術的な問題に起因する傷があったものの、オーケストラとしてのまとまりはよくなり、音楽的に満足できる演奏会になっていた。
 ロッシーニの歌劇「コリントの包囲」は序曲こそ有名だが、この日はそれにプラスしてダンス音楽も演奏された。 速めの快活なテンポで引き締まった音楽の運びはチョンの美点。 欲を言えばロッシーニらしい軽やかさと透明感があったらなおよいと思ったけれど、充実度は高い。
 バーンスタインの「ウエスト・サイド・ストーリー」からのシンフォニック・ダンスは、チョンもオーケストラもノリがよく、楽しい演奏。 管弦のバランスが、アメリカのオーケストラで耳にするものと少し違っていたが、この作品の新たな側面を見ることができて興味深かった。 なぜ、チョンと聖チェチーリア管がバーンスタインを? それは、彼らが今年のパシフィック・ミュージック・フェスティバルに参加するからである。 このプログラムは札幌でも演奏される。
 後半、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」組曲は、打って変わってチョンの叙情的な面を押し出した演奏。 第1曲 「眠れる森の美女のパバーヌ」から大きなルバートをかけて、ロマンティックにうたいあげる。 中間の3曲は小粋な演奏で、終曲の「妖精の園」でスケール大きく音楽を呼吸させる設計は見事。
 そして、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲はチョンらしいダイナミックな演奏で、かつてきいたような、勢い一辺倒なチョンではなく、状況に応じてつけられていた音楽の変化は、彼の成長を物語るものだろうか。  アンコールにメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」のフィナーレとブラームスのハンガリー舞曲第5番が演奏され、会場をわかせていた。
 舞踊音楽を特集した演奏会であったが、それぞれの作品の様式を適確に描き分けたチョンの手腕は大したもの。 最初に書いたとおり、オーケストラの状態が今一歩だったが、このオーケストラにも独特の音色があって、音楽性も統一のとれたものだったので、結果的に「いいコンサートだった」という感想を持つに至った。



*紀尾井シンフォニエッタ 東京 第15回定期演奏会
  1998年7月4日(土) 18:00〜 紀尾井ホール
 紀尾井シンフォニエッタの今シーズン最後の定期演奏会は、このオーケストラにとって重要な作曲家であるモーツァルトの作品ばかりを3つ。 しかもト短調の交響曲二曲と最後のピアノ協奏曲という、名曲をそろえたプログラムだ。 いつものように尾高忠明の指揮。
 まず交響曲第25番。 テンポもバランスもとても妥当な演奏。 作品の様式を適確にとらえており、小編成の現代オーケストラが演奏するこの曲の模範的な演奏といっていいと思う。 モーツァルト演奏における現代の潮流から見れば、このスタイルでの演奏はとても難しい位置づけになると思うが、尾高と紀尾井シンフォニエッタは真正面からこの作品に取り組んだ。 刺激的な要素は後退していたけれど、まずは安心してきけた演奏だった。
 ピアノ協奏曲第27番は、名歌手エルンスト・ヘフリガーの息子、アンドレアス・ヘフリガーの日本デビューである。 有能な若手らしく、この曲のスタイルをよく把握しているように思えたが、時折見え隠れする彼の旺盛な表現意欲が、オーケストラの呼吸と微妙にずれていて、今一つ安定感の欠けるものとなっていた。 基本的にこの曲は、淡々とした中に深い味わいのある演奏が好きなのだが、ヘフリガーのピアノはテンポの動かし方が(非常に微妙ではあったけれど)恣意的に感じられるところがあったり、旋律の歌わせ方がとても興味深かったけれど、全体の流れからは浮き上がってきこえるところもあったりして、なかなか理想的な演奏になりきっていなかった。 しかし、部分的にはおもしろいところもあったので、機会があれば彼のソロもきいてみたいものだ。 勿論、リートの伴奏も。
 そして最後は交響曲第40番。 アプローチは第25番のところで書いたことがほぼ当てはまるが、並べてきいてみると作品の充実度はこの曲の方がはるかに高いことが確認できる。 これも安心してきけた演奏だったのだが、この「安心」がここでは気になった。 というのは、かつてこのオーケストラの演奏した交響曲第41番「ジュピター」できけたような、目の覚めるような、鮮明でフレッシュな演奏の面影が消失していたからだ。 最近、ややマンネリ気味で結成当時の新鮮さが感じられなくなってきている気配があった紀尾井シンフォニエッタだが、得意のモーツァルトでも「まずまずの演奏」に終わってしまった。 よい演奏ではあったけれど、私はこのオーケストラがもっと輝けることを知っている。
 やはり、紀尾井シンフォニエッタはオーケストラとして難しい時期にさしかかっているのだろうか。 そんなことを考えているうちに演奏されたアンコール、ディヴェルティメントK.137の第2楽章は、「紀尾井サウンド」が蘇ったような、生き生きとした演奏になっていた。 やれば出来るオーケストラなのだ。 4シーズン目を迎える次のシーズンは、このオーケストラにとって、ある意味での「正念場」になるだろう。 このまま「普通の室内オーケストラ」になってしまってほしくない。



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