タイ旅日記
後編・バンコク郊外観光記
The Oriental Bangkok/Ayutthaya/River Kwae
超高級ホテルとバンコク郊外

 

2002年9月3日 火曜日

1日マッタリ休息日の設定。

休息日といっても何もしないわけではなく、バンコクから出ないでおとなしくしていようということ。

9時に起きると出ました、大したことはなかったが下痢。

マレー半島を縦断している時は大丈夫だったのに、緊張が緩んだか?

昨夜はそれほど辛いもん食った覚えないけどな。

ホテルの朝食(バイキング)を食って、部屋に戻って昼頃まで寝たりしてマッタリ。

昼になって出かけることに。

向かう場所はオリエンタルホテル。

どんなガイドブックにも超高級ホテルとして載っている、アジア一(世界一?)のサービスを誇るというホテルだ。

沢木耕太郎の小説にもバンコクを代表する高級ホテルとして名前が出てきた。

さらにバンコクに来る前に相方が薦めてくれたオリエンタルホテルが舞台の辻仁成の小説を読んでいた。

バンコクへ来たら折角だから行ってみたかった。

そしてただ行くだけではない、入れるものなら入ってみたかった。

どうやらホテル内のレストランで昼食時のビュッフェがあるという。

それだ、超高級ホテルとはいえ昼食のビュッフェくらいなら手が出そうだ。

いつもは短パンで行動していたが、超高級ホテルなので短パンでは入れないかもしれない。

王宮などに行くためだけに持ってきたはずのGパンだったが、寒かった空港に続いてここでも出番があった。

我々の宿泊するホテルからオリエンタルホテルまでは歩いても行けそうな距離だった。

実際に歩くと思ったよりも距離があった。

そして船着場はあるが、交通の便が良いとは言えないチャオプラヤー川沿いにソレはあった。

外観は高級感こそあるが超高級とまではいかない感じ。

敷地内に入るための入口には門番みたいな警備員がいる。

その横には札が立っていて、短パン・サンダルでの入場は不可の図。

Gパンはいてきて良かった、スポーツサンダルはぎりぎりセーフかな(王宮でもセーフだったし)。

さらにリュックは背負わずに手に持てとの指示も…

さすがは超高級ホテル、注文が多い。

リュックを片手に持っていざ突入、すると案の定入口の警備員に止められた。

会話は英語で
警 「宿泊客か?」
我 「いや、違う。飯を食いに来た。」
警 「ビュッフェか?」
我 「そうだ」

なんとか通してもらった、第1関門突破だ。

ドアボーイが開けてくれた重厚なドアを抜けるとそこはオリエンタルホテル内。

超高級ホテルのロビーを見渡して雰囲気を味わうよりも早くスーツを着た男がこちらへやってくる。

会話は英語で
男 「ビュッフェか?」
我 「そうだ」

男の視線が私の不精ヒゲ、安っぽいTシャツ、すりきれそうな汚いジーンズ、スポーツサンダル…上から下までを一瞥したのがハッキリ分かった。

一瞬の出来事だった男のその目の動きを見逃さなかった、ハッキリ言って感じ悪いぞ。

「そこの階段を登ったところだ。」と指差す。

それ以外の所へは行くなよ、行かさないぞという厳粛な威圧感があった。

そして階段を登りいざ入ったレストラン内。

さっきとは変わって店員は皆笑顔で感じが良い。

だがそのような雰囲気になれていない我々は緊張…

しかもレストラン内の客がスーツを着たビジネスマンや、西洋人が目立つ。

西洋人ってのはこういう所でも堂々と見えるな。

我々のようにTシャツGパンなんて奴なんぞいない、かなり場違いだ。

そりゃ先ほどの男も警戒するわな。

チャオプラヤー川が見える席に通されて、座る時には店員がわざわざ椅子を引いてくれる。

まずは飲み物としてビールを注文する。

ビュッフェなので食い放題で勝手に料理を取りに行って良いのだが、変な緊張しっぱなしの我々。

「取りに行ってもいいのかな?」
「いいんじゃねーか、ビュッフェだろ…」

おどおどあたりを見まわす。

すると近くの席に日本人で我々と同年代っぽい女の子が1人でいた。

我々のように汚い身なりではなかったが、普通の格好だった。

さすがに日本人ですか?と声をかける雰囲気ではなかったが、幾分気は楽になった。

ビールを飲んでいざ出陣。

様々ある料理はどれもこれも高級!!という感じ。

大皿に綺麗に盛りつけてあるので果たしてここから取って良いのかどうか悩むくらい。

タイ料理はトム・ヤム・クンくらいだったが、それ以外の和洋中はあった。

料理はどれも美味い、どれも高級なんだなと感じられ刺身も実に美味かった。

海外で食う刺身が美味いと感じるとは…。

1皿で終わらせるわけはなく、席を立って2皿目を取りに行く。

2皿目に料理を盛って戻ってくると当然先ほどの皿は片付けられていて、いすの上に無造作に置いてきたナプキンはしっかりと畳んで置いてあった。

3皿ほど食ってから最後はデザート、甘いものは別腹なもんで…。

デザート類も豊富、数種類のケーキやとろけるようなプリンに多種のフルーツ。

コーヒーもちゃんとしたコーヒーで、今朝ホテルで飲んだコーヒーとは比べ物にならなかった。

料理の美味さには大満足。

最後までどうしようか悩んでいたが、意を決して店員に写真をお願いした。

勿論快くOKしてもらえた。

アジアNo.1!オリエンタルホテル
罰(バチ)GUYな2人

相方がデジカメで撮ってもらうと、相方の持つ最新式の小型デジカメが横の席の西洋人の興味を引いたらしい。

しきりにVery small…と驚き、話しかけてきた。

店員も顔を出し、一時はその小さなデジカメの周りに店員が集まった。

その西洋人はしきりに相方に英語で話しかけてきた。

私もS○NYのデジカメを持っているがここまで小さくはない。
今度大阪と京都へ行くのだが、デジカメはシンガポールや香港で買うのとどっちが安いだろうか
そのデジカメは何ピクセルなのだ

と質問攻め、なかなか面白かった。

その西洋人はVIPなのか、普通の店員とは違うスーツをしっかり着込んだ人が接客をしていた。

「あの東洋人の料金をウチにつけておいてくれ」

なんて言ってくれないかなーという淡い期待は見事に砕かれた。

気になる料金はビュッフェが1人830B(≒2,490円)、ビールが中ジョッキ並のグラスで200B(≒600円)

サービス料10%と税金込みで合計2,424B(≒7,272円)、1人当たり3,636円。

我々が現在泊まっているホテルに2泊してもお釣りが来る料金だ。

高級料理とサービス、雰囲気、そして良い経験全てを合わせた値段と考えた。

ある程度の高値は覚悟していたのでうわぁ高けーとは思わなかった。

例えば日本で帝国ホテルなどでランチビュッフェを食ったらどのくらいするのかな…。

レストランを出る時も目が合う全ての店員が手を胸の前で合わせてThank Youとお辞儀をする。

さすがにこちらも緊張は解けていたが、そうした雰囲気を心地良いと感じられるような心の余裕はまだ持てなかった。

いやいや私なんぞに恐縮です…とこっちもThank youと返す。

ホテルを出る時にロビーには短パンの西洋人がいた、宿泊客なら良いのか?

ホテルの前には沢山の送迎用ベンツが止まっていた。

オリエンタルホテルは交通の便があまり良くない所にあると思っていたが、こんな高級ホテルに泊まるような人はこれに乗るのかと納得した。

1泊の料金がオリエンタルホテルのビュッフェ並の我々が宿泊するホテルに戻って小休止。

タイに来たら個人的に私が行きたかったもの、ムエタイ観戦である。

タイ式キックボクシングであるムエ・タイはタイの国技でもある。

知る人ぞ知る(?)プロレス・格闘技好きの私、タイへ行ったら生で観たいと思っていた。

毎晩バンコクのスタジアムで開催されているという。

開催時間と場所を調べて、近くのスタジアムでやっているのでこの夜に行くことに。

夕方、相方と"ハッピーアワー1Buy1Get(1杯頼めば1杯無料)"と表示されている西洋風バーへ。

ビールをピッチャーで頼むと来たのは大ジョッキだった、つまみも頼んで飲み食い。

一杯飲み終えて、ムエタイまでは時間があったので、もう一杯飲もうと思っていた。

すると我々のテーブル担当と思われる店員が来て「私はもう帰るので会計をしてくれ」と言われた。

はぁ?!何を言ってるんだコイツは?と思ったが、もう帰るので今会計をしてくれの一点張り。

何だか判らないまま会計をさせられ、別に店内にいても良かったのだろうが店を出た。

それにしても帰るから会計をしてくれと言われるとは思わなかった。

これがタイ人気質ってやつなのか?

店を出てしばらく街を歩いた後に格闘技に興味がない相方とは別れた。

この旅初の単独行動だ。

ルンピニーボクシングスタジアムまで歩いていく。

会場が近づくに連れて人が増えて明らかな日本人もいっぱい。

窓口へ行くとリングサイドが1,500B(≒4,500円)、2階800B(≒2,400円)、3階500B(≒1,500円)。

試合によって料金は変わるらしいが、こっちの物価にしたらどれも相当な高さのように思う。

2階席を購入して会場内へ入る。

ビールを買って入りたかったが、会場内にビン・缶の持ち込みは禁止だと看板があった。

それほど広くない会場、2階でも充分リングが近い。

館内、特にリングサイドは格闘技の"か"の字も知らないような観光客ばかり、日本人多し。

ムエタイはタイ式キックボクシングで、拳・肘・膝・足を使って相手を倒す。

全試合開始前に全員が起立しての国歌斉唱があった、そうここはタイ王国なのだ。

全10試合で前座2試合を終えた3戦目あたりから白熱してくる。

座る場所はあるのだが、立って2階最前列(リングサイド席の後ろ)のフェンスにもたれて見た方がよりリングが近い。

3試合目から面白くなってきたので、最前列のフェンスまで行ってずーっと立見。

スタジアム内では賭博が黙認されていて、それ目当ての2,3階は異常な盛り上がり。

試合は全5ラウンドで3ラウンドから激しくなり4ラウンドがピーク、5ラウンドになると選手はお互い疲れていた。

10試合あってKOは1試合だけだったが、間近で観ると迫力は凄く館内の雰囲気や盛り上がりも面白かった。

真面目にTVなどで観戦したらそれほど面白くない試合かもしれないがやはり生だと会場の雰囲気が味わえる。

それが何よりも試合を面白く感じさせる、賭博も絡んでいるとなると尚更だろう。

館内では変な発音の日本語による選手紹介やムエタイの紹介・説明なども行なわれていた。

その紹介で「ムエタイとK-1の違いは…」なども説明していた。

K-1と比較して説明するほど日本人に対してはK-1の知名度があるのには驚いた。

試合は全て試合前にワイ・クーという神に奉げる舞い(儀式)を選手が披露する。

相撲で例えると試合前に行なう塩まいて足上げて睨み合って…みたいなもんかな。

そのワイ・クーが長くてそれで時間を多く取られている感じがした。

選手のギャラは1試合の最低価格が約3,000B(≒9,000円)で過去最高は約200万B(≒600万円)だとか。

全10試合のうちでメインイベントが7試合目で、それ以降はどんどんお客が減っていった。

最後は国際式ボクシング(いわゆる通常のボクシング)だったが、この時はガラガラだった。

だが私は逆にこの国際式に目を奪われてしまった。

ムエタイをやっている時は客も白熱しているので歓声が沸き起こる。

だが客が殆どいなくなった国際式ではパンチが当たる乾いた音がスタジアムに響き渡り、殴り合いの凄さを感じさせた。

18時30分に始まった試合は23時に全て終わった。

途中からずーっと立見だったのでかなり疲れた。

ムエタイが終わった所でスタジアムを出て、夜店屋台街を1人でうろついた。

相方がこっちでも携帯電話を持っているので、それで連絡をとって合流。

相方は弟と一緒にいた、相方弟もバンコクに来ていて、その弟とは初対面。

相方弟はタイ語も勉強していて将来はバンコクに住みたいというほどのタイ好き。

飲み屋やディスコなどへ一緒に行き、色々と案内してもらった。

休息日に設定していたはずのこの日だが、結局はあちこち行ったな。

 

2002年9月4日 水曜日

この日の予定はバンコク郊外、アユタヤ観光。

アユタヤはかつて王朝が存在したタイの古都、日本で言う京都みたいなものか。

だが京都と違うのはビルマ軍によって破壊し尽くされて廃墟となり、遺跡の街として観光名所となっている点。

朝起きると下痢ではないが、腹の具合はどこか悪い、大丈夫だろうか。

朝食を食い、タクシーに乗ってアユタヤまでの列車が出ているファランポーン駅へ。

ファランポーン駅、そうマレー鉄道に乗った時と同じ駅である。

アユタヤまでの切符は15B(≒45円)、安い。

11時15分に列車はファランポーンを出発。

マレー鉄道と変わらず、車内には物売りや物乞いが行ったり来たり。

30B(≒90円)の缶ビールを買い、車窓の景色を楽しみながらアユタヤへ向かう。

車内は見るからに観光客だらけ、13時頃にアユタヤに着き、その殆どが降りた。

見るとアユタヤで降りた観光客の半分くらいは日本人っぽかった。

駅や駅前は実に田舎の駅。

列車が到着して観光客がどーっと降りたところだったので、一時的に混雑。

それを避ける為に駅前の食堂に入った。

軽く飯とビールで時間潰し1人約80B(≒240円)。

駅前に自転車貸し屋があり、ガイドブックにはアユタヤは起伏がなくチャリで周るのに最適と書いてあったので借りることにした。

1日30B(≒90円)でチャリを借りる。

アユタヤ遺跡は川に囲まれている。

橋もかかっていたのだが、チョット遠かったので渡し舟で向こう岸へ渡ることに、2B(≒6円)。

チャリを渡し舟に乗せるのは苦労した、渡し舟から降ろす時も。

渡し舟を降りてチャリに乗り、アユタヤの街を疾走。

天気は良く、やはり暑かったが、チャリで風を切るのは心地良い。

少し走っていると観光客が多くいる所を発見。

観光客がいるのなら観光地なのだろう、そこがどこかも判らず入場料30B(≒90円)を払って中へ。

中といっても広大な敷地に壊れた建築物跡が点在しているくらい。

少し仏像みたいなのもあるけれど、その殆どが壊れていた。

ローマにあるフォロ・ロマーノ遺跡を思い出した。

広大な敷地内、あれだけ広いと裏から金払わずに入れたなーなんて思いながら何するでもなくフラフラ。

遺跡は崩壊を防ぐためだろう、レンガを支える鉄筋や、コンクリートをレンガの間に流し込んだりしてあった。

遺跡の入口でヤシの実(ヤシをその場でぶった切ってストローを刺す)20B(≒60円)を飲みながら小休止。

ヤシの実の中は透明な液体が嘘みたいにいっぱい入っていて甘味のある水という感じだ。

近くに日本人の女の子が2人いたので、「この遺跡って何なんですか?」と話しかけた。

するとワット・プラ・マハタートだという。

ん、その名前はガイドブックで見た記憶があるぞ。

見るとアユタヤのイメージの象徴ともなっている木の根に取りこまれてしまった仏像の頭部がある遺跡だった。

「えぇ?!ここがそれだったんですか?」

全然それを見ていなかった。

「知らなかったんですか、定番の観光地を…」と女の子達に笑われた。

苦笑いしながら、もう1度見に行くことに。

再び入るとそれは入ってすぐの所にあった、あまりに観光客が多すぎてさっきは敬遠していた所だ。

今回はツアーが去ったのか誰も観光客がいなかった。

木の根に取り込まれた仏像の頭部の周りには柵があり、立札があり日本語でも書かれていた。

"仏像の頭の上に立たないようにお願い致します"

ん?意味が判らない、だって柵があるし、仏像の頭の上に立つなんて難しそうだぞ。

謎解きのようなその立札、よく判らんがまぁ写真でも撮るかと相方にカメラで撮ってもらったその時、

ピピーッと笛が鳴った、見ると近くにいた係員がこっちを見ている。

そして座れ座れ、というジェスチャーをする。

私がしゃがむとそれで良いという感じ、そして再び写真を撮った。

そうか、なんとなく立札の意味が判った。

写真を撮る時に立たないように、私の頭が仏像より高くならないようにという意味なのだろう。

だから"仏像の頭の上に立たないように"ということなのだろう。

恐らくは宗教的な意味があるのだろう、仏像様より頭が高いとは何事か、みたいな。

もっと判り易い立札にしてくれれば良いのに…。

木の幹に仏像様の頭が…
× 悪い例

これで祟られない
○ 良い例

ワット・プラ・マハタートを出てチャリで疾走。

すると観光客の群れを発見、観光客いる所に観光地あり。

相変わらずそこがどこだか判らない。

近くの日本人に「ここってどこですか?」と聞く、どこに行っても日本人はいるのだ。

聞くとワット・プラ・シー・サンペットだという。

オーオー、それもガイドブックに載っていた、3人の王が眠る場所とかいう所だ。

入場料を取られるので外からそれを眺めてそこは終了。

近くに土産物屋台があり、タイの修学旅行生みたいなのがいっぱいいた。

付近では象が歩いていてその上に乗って観光をしている人も。

我々はチャリに乗って移動開始。

象に乗っている明らかに日本人と思われる女の子3人組がいたので、チャリで並走しながら声をかけた。

我「象はどうですかー?」
女「とっても気持ち良いです。自転車で旅してはるんですかー?」(関西弁だった)
我「えぇ、バンコクから。」
女「えぇー!!バンコクから?!」

信じるなよ…

チャリで我々が向かっていたのはワット・ロカヤスタという寝釈迦がいる所。

少し判りづらい所にあって、途中でまた日本人に道を聞いて目指す。

寝釈迦は野外にあって、ワット・ポーにある寝釈迦は後ろ(背中)もしっかりと作られていたのに対して、こっちの後ろはまっ平だった。

寝釈迦の所でチャリを止めて休んでいると、日本人男子同年代と思われる2人組が声をかけてきた。

男「自転車って幾らで借りられました?」
我「1日30Bでしたよ。」
男「やっぱりなー、くっそー、安いよ。」

聞くと彼らはバンコクのファランポーン駅でアユタヤ行きの切符を買おうと思ったところ、話しかけてきた男に次の列車は2時間後だと言われて1,000B(≒3,000円)でタクシーをチャーターしたと言う。

それでしきりにぼったくられたと悔しがっていた。

その手法はガイドブックに載っていた典型的な例だ、やはり引っ掛かる奴がいるんだな。

でも物は考えようで、彼らはバンコクからエアコンが効いたタクシーで快適にアユタヤの観光地を回っている。

こっちは約2時間かけてエアコン無し扇風機付きの列車で行き、暑い中チャリをこいで観光地を回っている。

どっちが良いかは考えようだろう。

さて、次はどこへ行こうかと相方と相談。

帰りの列車までの時間はまだあったのでアユタヤ郊外へも足を延ばすことにした。

アユタヤから2kmの所にワット・プー・カオ・トーンなる所がある。

お堂の途中まで上ることが出来て、アユタヤを見渡すことができるというのでそこへ行ってみることにした。

詳細な地図はなかったが、郊外まで行くと目指す所が小高いのですぐに判った。

途中から殆ど観光客がいなくなり、途中の池みたいな所が太陽の光を受けてキラキラ輝き綺麗だった。

この旅で初めて自然の水が綺麗だと感じられた。

日本人が2人だけでそれ以外の観光客がいなかったワット・プー・カオ・トーン。

景色もそれなりに良かったが、人が少ないのが良かった。

そこで会った日本人の1人はトゥクトゥクをチャーターしてアユタヤ郊外まで足を延ばしていると言う。

いくらかは忘れたがかなり高い金額でトゥクトゥクを借りていた。

ワット・プー・カオ・トーンの入口に出ていた売店でジュースを飲む。

すると、トゥクトゥクの運転手が話しかけてきた。

日本円の小銭を持っていて500円を見せて「これをバーツと両替してくれないか」と言う。

別にニセ小銭を持っているとは思えなかったが、丁重にお断りした。

するとそれならば500円がバーツにするといくらくらいなのかを教えてくれと言う。

170バーツくらいだろうと教えてあげた。

こっちがジュースを飲み終わって行こうとするとその運転手に「アジノモト」と言われた。

KLでも同じことを言われたな、ありがとうと間違えているのか?受け狙いなのか?ともかく凄い知名度だ、味の素。

ワット・プー・カオ・トーンからアユタヤ駅方向に戻る道は来た道とは違うのを敢えて選んだ。

するとどうやらアユタヤ郊外の一般人が住む所に迷い込んだらしい。

小学校低学年くらいの子供達、学校が終わったのか何人かが一緒に歩いている。

外国人が珍しいのか、皆が笑顔でキャッキャ言って手を振ってくる。

汚れを知らないような無垢な笑顔が実に気持ち良い。

通りを進むと人家があって行き止まりばっかり。

人家にいた大人までもがこっちに向かって手を振ってきた。

引き返して戻る道を探していると、歩いていた老婆がアッチだと指差して教えてくれた。

迷い込んだ道でなんだか心が穏やかになった。

老婆が教えてくれた道を行くと汚い小さな川にいかにも手作りの橋がかかっていた。

橋を渡って少し行くと、排気ガスを吐き出して車が走っていた、現実の世界だ。

車がそこそこ通る道を、慣れないチャリで走るのは結構恐かった。

所々で居場所が判らなくて、観光客もあまりいなくて少し不安だった。

次第に駅に近づいていることが判り、一安心。

もう1箇所行こうかと思っている所があったのだが、列車の時間の都合上そこへ行くのは断念した。

16時30分に駅に戻り、列車の切符を買おうとするとまだ発売していないという。

乗ろうと思っていた列車が遅れたのか何かで時間が余ってしまった。

チャリは返してしまったので、移動するのは面倒だ。

駅前の食堂でビール飲んで時が経つのを待った、気が付くと大瓶3本が空いていた。

駅前を眺めているとつくづく日本人の多さを実感した。

18時前に列車の切符を買い、ホームへ。

といってもホームではなく、殆どの人が線路上の思い思いの場所に座って列車を待っていた。

18時になるとホームに国歌が流れて、座っていた人たちが皆立ち上がった。

タイでは8時と18時に駅など主要公共施設では国歌が流れ、全員起立してそれを聞くのだ。

ムエタイの会場でもそうだったように、映画館などでも上映前にはそうらしい。

18時過ぎに列車が到着、向かい合わせの席に座っていると日本人ですよね、横いいですか?とバックパッカー風男子が来た。

K大学2年という関西人の彼、アユタヤ観光をしてそのまま空港へ行き日本へ帰ると言う。

物売りの缶ビール30B(≒90円)を奢ってあげて1時間チョットの会話。

途中の空港駅で彼は降りていった。

旅をしていて色々な人に会うが、誰一人として名前を聞かずに別れるんだよな…。

バンコクへ戻り、晩飯はタイ式しゃぶしゃぶのタイスキ。

バンコク到着初日にも食ったが、その時は3度目くらいの晩飯だったのであまり味わえなかったのだ。

日本のタイ料理屋で食うと数千円とられる所を千数百円で食える喜び。

翌日は実質バンコクでの最終日。

映画「戦場に架ける橋」の舞台カンチャナブリーへ行く予定だ。

 

2002年9月5日 木曜日

翌朝7時には日本に帰国するので、この日が事実上の最終日。

郊外のカンチャナブリーへ行く。

ホテルで朝食を済ませて、BTSに乗ってチャオプラヤー川沿いのタクシン橋へ。

チャオプラヤー川で水上バスに乗ってバスターミナルへ行くのだ。

カンチャナブリーまでは列車も走っているのだが、時間が合わなかったのでバスで行くことに。

相変わらず汚いチャオプラヤー川を水上バスは行く。

水上バスを降りてからタクシーを捕まえて南バスターミナルまで。

そこからカンチャナブリー行きのバスが出ているのだ。

窓口でチケットを購入、80B(≒240円)。

バス内は全席指定で満席、殆どが観光客。

うち日本人は我々以外に男2人女2人男1人だった。

11時にバスターミナルを出て、バス内にはスチュワーデスみたいな役割を果たす女性も乗っていた。

発車してすぐにミネラルウォーターが皆に配られた。

途中で寝てしまったがどうやらパンなども配っていたようだ、貰っときゃ良かった。

バスの揺れというのはどうしても眠くなる、殆ど眠っていた。

バスの運転は急ブレーキが多かったらしく、相方はその度に起きてしまったという。

全く気が付かなかった、急ブレーキで寝ていたのはお前だけだったと相方に言われた。

13時にカンチャナブリーのバスターミナルに到着、街は思ったよりも栄えていた。

インフォメーションで簡易地図を貰い、戦場に架ける橋の舞台であるクワイ川鉄橋までの道を聞く。

タクシーなどで行った方が良い距離だそうだ。

クワイ川に向かう前に腹ごしらえ。

ターミナル前の安そうな食堂に入り、飯を食う。

英語は通じず、相方が持っていた指差しタイ語辞典なる本を使って注文した。

アンかけそばみたいなのが15B(≒45円)、安くて美味かった。

JEATH戦争博物館という所を目指して歩いていたのだが、地図の見方を誤っていてクワイ川鉄橋へ向かっていた。

クワイ川鉄橋は歩いて行くには遠いので、近くに3台程いたバイクタクシーに声をかけた。

鉄橋へ行く前にまずカンチャナブリーの鉄道駅へ行ってみることにした。

1人20B(≒60円)だという運転手を15B(≒45円)で了承させてバイクの後ろにまたがる。

てっきり2台のバイクで行くかと思いきや、1台のバイクに運転手・私・相方の3人がまたがる。

バイクの3人乗り、なかなかスリリングだが気持ち良かった。

カンチャナブリー駅の前は連合軍の共同墓地になっていて観光客がいた。

駅で時刻表を調べるが、どうやら我々がバンコクまで乗って帰れる都合の良い時間のはなかった。

鉄道の駅からクワイ川鉄橋までも歩くには少し距離があったので、そこからはソンテウなる乗合バスに乗って行った。

軽トラックの後ろの荷台にイスを付けたようなソンテウ。

流しのソンテウをタクシーのように止めて地図を見せてここまで行くか?と聞くと10B(≒30円)で行くというので乗った。

クワイ川鉄橋の近くで降りて、そこから徒歩でクワイ川鉄橋駅を目指す。

周りは何もない、ただ自然だけがある。

クワイ川鉄橋駅は観光地駅、駅からすぐの所に戦場に架ける橋の舞台、クワイ川鉄橋がある。

鉄橋は見事に観光客だらけ、総スタンド・バイ・ミー状態とでも言おうか、皆が橋の上を歩いている。

クワイ川鉄橋
まさに万国

鉄橋上を歩くことは出来るのだが歩けるスペースが狭くて結構恐い。

すれ違う時はどちらかが道を譲らないと通れないくらい狭い。

あれだけの観光客が歩いているのだから年に数人は落ちているのでは?と思えるほどだった。

足元ご注意
♪When the night has come〜

クワイ川の水は思ったよりも綺麗で(バンコクのチャオプラヤー川が汚すぎるのか)、透き通っていた。

映画「戦場に架ける橋」の舞台となったクワイ川鉄橋だが、映画では作られるのは木造の橋。

その木造の橋は戦争で連合国軍の爆撃によって破壊された。

現在のは戦後新たに修復された鉄橋である。

映画の舞台、戦場だったとは思えないほどのどかな光景。

橋を渡り終えた所、橋の下あたりに土産物屋が並んでいる。

青空の下に机や椅子なども並んでいて、見るとビールもある。

特に何するわけでもないが、ボーっと川や橋などを眺めながらビールを飲んだ。

橋のななめ下なのでそれほど観光客もいなくて時間がゆっくり流れているのを感じた。

近くにいるのは1人で来て本を読んでいる西洋人の若者。

それから同年代くらいの日本人男子2人。

その日本人の1人が川辺で橋の絵を書いていた。

良い光景だなーと思って見ていたらもう1人の方がタバコ吸ってやがった…

その吸殻はどうすんだコノヤロー…見ていると腹が立ちそうだったので見ないことにした。

下から見る鉄橋もまた良し、現地の修学旅行生みたいなのや坊さんまでもいた、何してんだよ…。

しばらく何もせずにゆっくりしている。

土産物屋で飼っているのか住みついている野良犬なのか、犬がじゃれてくる。

カワイイけどドーベルマンのような犬で、はしゃいで噛みつかれたら狂犬病になるのではと思うと恐かった。

どこからか音が聞こえる、列車の音だ、だんだん大きくなる。

橋を見ると人がいる、橋には待避所みたいな所があったから皆そこに避難するのだろう。

次第に列車が近づいてきてクワイ川鉄橋を渡る。

我々がバンコクからアユタヤへ向かった時に乗ったような普通の列車。

車内は観光客と思われる連中が大勢窓から顔を出していた。

こっちは彼らに向かって手を振ったが誰一人としてこちらを見なかった。

列車が通りまーす
今だ!爆破しろ!!

列車が通りすぎるのは一大イベントだった。

ワーワーキャーキャー言いながら待避所に避難したであろう修学旅行生。

列車の最後部をしきりに走って追いかけていた人、気をつけろよ。

列車の窓から顔を出しては写真を撮っていた乗客。

浮世を忘れた時間を過ごし、列車が通りすぎるのも見られたし、小1時間休んだので行くことに。

鉄橋の近くに第2次世界大戦博物館があるというので行ってみた。

30B(≒90円)を払って中へ。

橋を建設しているシーンの等身大(?)人形や橋のミニチュア・模型。

当時使用した道具や当時の様子を描いた絵などが多数。

日本語の解説もついているものが多く、それらを読み進むと実に複雑な気分にさせられる。

クワイ川の橋は映画の中では人の手で爆弾を仕掛けて爆破されたことになっていたが、実際には空爆で破壊されたことを知った。

日本語の解説は、ここを訪れた日本人が、展示の内容を日本人だからこそ知らなければいけないと思い、ボランティアで邦訳を付けたという。

相方との会話もなくなるような、何かどこか重苦しい気分になり博物館を出た。

思えば原爆資料館など日本が被害者の展示は見た事があったが、加害者の展示を見たのは初めてかもしれない。

複雑な思いで戦争博物館を出て、帰りも流しのソンテウを捕まえてバスターミナルまで。

我々は10B(≒30円)と言われたが、我々よりも先に乗っていた現地の人は同じ所で下りて5B(≒15円)しか払っていなかった、観光客料金か。

帰りのバスは70B(≒210円)、行きと比べて10B(≒30円)安い。

16時40分にバスは出発、バンコクへ向かうので発生する渋滞。

行きと比べて10B(≒30円)安いのは渋滞分か。

相変わらずバス内では殆ど眠っていた。

19時15分、バスターミナルに到着。

そこからタクシーに乗ってバンコク都心へ向かった。

私はバンコク最後の夜なのでレストランと呼べるちゃんとした所へ入って、タイ料理を食った。

しっかり食って飲んで計800B(≒2,400円)弱、やはり安い。

タイ料理は唐辛子系の辛さと、パクチーと呼ばれる香草のクセのある味が特徴だと思う。

私は好きな部類に入るが、好き嫌いが極端に分かれそうな料理だ。

翌朝が早いのでギリギリまで飲み歩こうと決めていた。

中央にステージがあり生演奏をやっている野外ビアホール(…と呼べるのかな?)などで飲む。

2,3件をハシゴしてビールばっかり飲んでいた。

夜の街を歩いていると、一輪の花を持った小学生くらいの子供がその花を売りに来る。

「トゥエンティバッ、トゥエンティバッ」(20B≒60円)と連呼して無邪気な笑顔で花を売りに来る。

その彼らの笑顔と、昨日アユタヤで見た子供達の笑顔が重なる。

どちらも同じ位の年齢だ、その無垢な笑顔は変わらないように見えるのだが…

信号待ちの車の窓を拭く子供達もいるし…何ともいえない気分にさせられる。

ホテルへ戻り、時刻は1時過ぎ。

翌朝7時発の飛行機で台北へ向かい、東京へ帰る。

7時発なので2時間前には空港に着いているとして5時。

タクシーで1時間はかからないだろうから、4時くらいに出れば問題ない。

1時過ぎにホテルへ戻ってきたので、眠るのはやめておいた。

これから眠って疲れた体で4時前に起きるのは至難だ。

風呂に入ったり、帰りの準備をしたり、旅日記を書いたり。

私が帰国した後も数日滞在する相方は早々に眠ってしまったので暇。

散々ビールを飲んできたので、冷蔵庫に入っているビールに手を出すのもためらわれた。

声をかけても起きなかった相方に「それじゃ日本で」と小さく言い残し3時30分にはホテルを出た。

 

2002年9月6日 金曜日

時刻は3時30分過ぎだったのだが、深夜の通りにタクシーはいくらでもいた。

ホテルから出た私を見てか、すぐ前にタクシーがこれ見よがしに止まった。

ぼられそうな予感がしたのでそのタクシーを無視して、そいつが行ったのを確認して流しのタクシーを止める。

「Airport ok?」の一言で通じた。

片付け終えて店は出ていないのに何をしているのかパッポン通りには人がいた。

深夜なので渋滞はまったくない。

高速道路を使うか?と聞いてきた運転手にNoと言うと苦笑いされた。

アンタ一般道で120km出してんじゃん、高速行く必要なんかねーよ。

予想以上に早く、4時には空港に着いてしまった、160B(≒480円)弱。

空港内をうろつくも開いているのはコンビニとファストフードの店だけ。

あまりにも時間が早く、EVA航空のカウンターはまだ開いていない。

こんな時間でも空港内には早朝便なのか、旅行者が思ったよりいた。

ロビーで航空会社のカウンター前で細心の注意を払いながら眠った。

寝過ごしたら大変だし。

それにしても台北の空港といい、なんで空港というのはあんなにも寒いのか…。

ゆっくり落ち着いて眠れやしない。

あ、ゆっくり落ち着いて眠らせないためか?

5時過ぎに搭乗手続きを済ませ、最後に使用するタイの通貨・空港使用税500B(≒1,500円)を払う。

出国審査等も早い時間なのでアッサリ終了。

6時15分搭乗開始とのことだったので、必ず遅れると判断して6時30分に搭乗口へ行ったがまだだった。

搭乗開始時刻ってのが時間通りだったことはあるのか?

必ず遅れているような気がする、腹立つな。

結局6時40分に搭乗開始。

列に並んで搭乗するのは嫌なので、全員が搭乗し終えて列に人がいなくなってから1人搭乗。

席に座るなり出発するよりも早く寝た。

最も緊張する離陸時ですら殆ど眠っていた。

気がつけば飛び立っていた、サヨナラバンコク。

機内食を食うのも面倒なほど眠くて、さっさと食ってさっさとまた寝た、酒も出なかったし。

殆ど眠りつづけたまま台北の空港に到着。

着陸後も全員が降りるまで半分眠っていた。

タイ時10時30分に台北に到着(台湾時11時30分)。

ここから3時間くらい台北の空港で過ごさなければいけない。

1人で行動していて眠るのは危険なので、台北の空港をウロウロした後に、あまり人がいないソファを発見。

そこで旅日記を書いたり、ここまでの旅日記を眺めたりしてどうにかして時間を潰した。

台湾時14時20分(タイ時13時20分)、台北から東京へ向けて出発した。

やはり東京へ向かう機内でも眠った。

どれだけよく眠っていたつもりでも機内食が近づくとハッと目が覚める、あれは一種の本能なのか。

機内食食ってビール飲んでやっぱり寝た。

日本時19時すぎ(台湾時18時過ぎ)に成田に到着。

飛行機を降りた所で、行きに一緒で共に台北の空港で夜を明かした彼と合流した。

「おぉ、久しぶりー。どうだった?」とお互いの数日間を報告。

彼はカオサンの安宿街に泊まった後で親戚のオジサンがこっちに来るとかで、オジサンの招待で我々がビュッフェを食うことしか許されなかったあのオリエンタルホテルに泊まったという。

1泊300B(≒900円)ほどのカオサンの安宿街からオリエンタルとは物凄い飛躍だ。

オリエンタルは凄かったと言っており、日に3度もベッドメイキングがあったとか…

それにしてもどんなオジサンだよ?って聞いたら普通のオジサンだそうだ。

そんな話しをしながら入国審査。

日本のここはいつも混んでいる。

タイから帰った人は健康に関するアンケートに記入しなければならないという。

旅行中に以下のような症状はありましたか
下痢・嘔吐・発熱・頭痛…等々

下痢、まさにだ。

丸をつけて係員に出すと、「今の調子はどうですか?」「問題ないです。」「では、これを読んでおいて下さい。」

紙片を渡されて終わりだった。

黄色い紙に貴方は赤痢やコレラかもしれません、みたいに警告してあった。

何だかそれを持っているのが急に恥ずかしくなった、私は下痢ですと宣言しているようで。

今回は何1つ税関でひっかかるようなものを持っていなかったので大手を振って税関を通貨。

最後までジロジロ見られたけど、あんだけあからさまだと気分も悪くならんわ。

成田空港から彼はJRで私は京成線。

最後まで名前はお互いに聞くことなく別れた。

地元に帰ると雨、こっちの雨はすぐにやまない。

雨に濡れながら帰路につく、バンコクへ着いた当日の夜も雨に濡れたことを思い出しながら…

 

執筆後記

今回まず悩んだのは旅日記のタイトル。

果たしてタイ旅行記なのかマレー半島旅行記なのか。

結局前半をマレー半島、後半がタイに落ち着いた。

旅に出る前はマレー鉄道を旅のメインとは考えていなかったのだが、終わってみるそれがメインだった。

まさかシンガポールに行くことになるとは思っていなかった。

それもシンガポールへ行くのを決めたのが前日というのも凄い。

まさに自由旅行の気ままさだ。

1日として無駄な日がなかったのが良かった。

流れるようなスケジュールで、休息日に充てた日すら充実していた。

細かい部分ではやり残した、行きそびれた所はあるが、大筋では目的を完遂した旅だ。

それでいながら急ぎすぎず、ゆっくりとした時を過ごすことも出来た。

飲み食い旅行と言う定番のテーマも達成出来た。

バンコク・ペナン島・クアラルンプール・シンガポール

南に行くに連れて物価が高くなっていくのが面白かった。

レート計算がややこしくて通貨がゴチャゴチャになってわけ判らなかった。

1B≒3円、1RM≒32円、S$≒71円

これらがほぼ1日ごとに変わるのだからマレーシアとシンガポールは通貨感覚が掴めずに終わった。

シンガポールの物価が高いというのは後になってもよく実感できるけど。

どの国も車文化には違いないが、特にバンコクは日本車が目立った。

マレーシアではマレーシア産の車が走っていて、国立博物館にもミチチュアが展示してあった。

国産の車というのは国としてやはり1つの大きなステータスなのかな。

海外でも車以外に日本製の物はもちろん多く見た。

色々ある中で海外に通用する日本製で目立つところといえば

車・コンピュータ・アニメ・漫画・ゲーム・ポケモン(アニメ・ゲームに含まれるかな)・味の素(笑)…

ではないかと思う、個人的意見だが。

アジアということもあるのかもしれないが、本屋の漫画コーナーは日本の漫画の翻訳ばかりだった。

バンコクでは変な日本語Tシャツが流行っているらしく、屋台などでも見かけた。

日本語の文字が書かれたTシャツ。

現地の人は文字の意味も判らず着ているのだろうが、かなり面白い。

でも考えて見れば我々が着ている英語のプリントが入ったTシャツもアメリカ人からしたら変なのかな。

バンコクで相方が発見した日本人の見分け方。

・男は短パンにTシャツである
・女は帽子をかぶっている

全てがそれに当てはまるわけではないが、その格好をしている東洋人は大半が日本人だった。

今回の旅先で会った多くの日本人の皆さん。

成田から台北へ向かう機内で隣だったA大の女性
台北の空港で共に寝床を探して帰りにも会ったM大の男性
マレー鉄道で会って、KLでもまた会った関西の女性2人組
KLに向かうマレー鉄道で会ったW大の男性
アユタヤからバンコクに向かう列車で相席したK大の男性
他にも私から話しかけた、あなたから話しかけてきた多くの人々…

それ、私だと心当たりのある方はメール下さい。

ネットの片隅で待っています。

 

今回の旅行では相方の多大なる世話になった。

何度も来ていてタイ慣れしている相方だったので、特にタイでは殆ど頼り切ったように思う。

その相方も同様に旅行記をネット上に公開している。

同じ日々に、同じ行動をして、同じ物を見ても違う視点と感覚を持つ、相方の旅日記もどうぞ。
EIJIRO's PAGE

 

参考資料

費用 (計10日間)

航空券代金
43,440円 (航空券37,500円+税金1,300円+成田空港使用料2,040円+航空保険料2,600円)
成田→台北,台北→バンコクの経由便使用

現地両替金額
タイ
30,000円
マレーシア
10,000円
(シンガポールではマレーシアの余った通貨を両替して充てた)

クレジットカード支払い
21,088円 (シンガポール〜バンコク航空券)

日本円別途支払い
6,000円 (相方に4泊分のホテル代として)

海外旅行保険
3,080円 (ネット申し込みバラ掛け)

総支出額 (日本での成田空港までの出費を除く)
113,608円

やはり、シンガポール〜バンコクの航空券が大きな出費になっている。
仮にずっとバンコクに滞在していればかなり安く上がったはずである。
海外旅行保険は終わってみれば付けなくても良かったとなるが、やはり付けるべきだと思う。
余計な心配をしなくて良いし。
保険会社のプランのままセットで入ったりすると保険料が高くつく。
時価数万円のカメラしか持っていかないのに40万円の携行品保証をつける意味がない。
保険は考えて必要な分だけバラ掛けにした方が安くつくだろう。

 

主な持物

リュック1つ
Tシャツ4枚
トランクス4枚
靴下2枚
短パン2着
Gパン1着
ハンドタオル2枚
サングラス1個

パスポート
現金 (7万円)
クレジットカード (VISA)
コンパクトカメラ
ガイドブック バンコクのとマレーシアの
小さいメモ帳 (細かいことをメモするのに重宝、旅日記のポイントを控えたり)

現地では全てスポーツサンダルで行動した。
だから靴下は要らないのだが、もしかしたら列車内が寒かったりするかもしれないので持って行った。
あと現地では予想以上に歩いたのでスポーツサンダルでずっと歩いていて足にマメのような水ぶくれが出来て痛かった。
Tシャツやトランクスはもう2枚減らしても良かった。
列車内泊で思ったより使わなかったというのもあるが、少なく持って行ってもどうせ現地のホテルで自分が洗濯するし、自分でやるのが面倒な人は街にランドリーサービスもある。
雨季なので雨が降ることはわかっていたが、降ってもそのうちやむだろうと思って傘は持っていかなかった。
その判断は正しかったことになる、もしもひどかったら現地でウィンドブレーカーでも買おうと思っていたがその必要はなかった。
バンコクに行くのならば極端な話だがパスポートと財布(現金)だけで良いかもしれない。
全てのものが日本よりも安い料金で揃えられる、品質の保証はできないが…。

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