日々是ネタ也
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第70回 4年ぶり86回目 (2004/07/19)

2000年10月9日以来、約4年ぶりにプロレスを観に行った。会場は東京ドーム、開催団体はNOAH。高校・大学の頃、定期的に日本武道館大会を観に行っていた団体が全日本プロレスだった。2000年、その全日本プロレスの主力選手殆どが離脱して旗揚げした団体がNOAHだった。これまで観てきた全日本プロレスの半崩壊(選手が大幅に入れ替わって全く違う団体になった)、そして旗揚げ当初は異常な人気でチケットが取れなかったNOAH。私自身の就職による多忙化も重なって自然とプロレス会場からもプロレス情報からも離れていた。

前職を退職して自分の時間が持てるようになってきてプロレス熱も復活してきた。そして今回の約4年ぶりの観戦。4年前に旗揚げしたNOAHの初めて東京ドーム興行。しかしその話題性だけで会場に足を運んだわけではない。ある1つの試合が4年ぶりに私を会場に向かわせた。三沢光晴と武藤敬司、タッグマッチではあったがこの2人が初めて対戦することが決定したのだ。

約10年前、プロレス界はアントニオ猪木の新日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレスが2大メジャー団体として君臨していた。新日本プロレスのエース格だったのが闘魂三銃士と呼ばれた武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也、一方全日本プロレスでは四天王と称された三沢光晴・川田利明・小橋健太・田上明。その中でもヘビー級ながら華麗な動きや派手な技を見せ、三銃士・四天王でも1つ抜けていると見られた武藤敬司と三沢光晴は年齢が近いこともあり両団体のエースとして常に比較され、2人の対戦はもっとも分かり易い形でプロレスファンの夢とされていた。

4年前、三沢を始めとした大量の選手が全日本プロレスを離脱し、NOAHを旗揚げ。プロレス界の新日本・全日本の2大メジャー団体制は崩壊。それをきっかけに実現不可能と思われていた様々な対戦が実現した。三沢と蝶野、三沢と橋本、武藤と川田、小橋と蝶野。しかし誰もが望んでいた筈の三沢と武藤の遭遇はなかなか実現しなかった。そして今回、NOAH初の東京ドーム大会においてようやく実現することになった。これは絶対に観に行かなければならない。三沢と蝶野ではない、武藤と川田ではない、武藤と三沢の対戦。2人の全盛期にプロレスを観続けてきた私にとってこの試合を観に行くのは義務にすら感じた。

今更…10年前なら…様々な批判の声もあった。確かに2人の全盛期は残念ながら過ぎている。2人とも現在は団体を引っ張る社長としての顔も持っているし、デビューから約20年が経過して蓄積されているダメージもある。しかし、入場時の武藤に対する大歓声、三沢への大ミサワコールが雑音を振り払う。そしてお互いのパートナー同士の先発で始まったタッグマッチ。武藤が初めてタッチを受けてリングに登場すると場内は大歓声。それに後押しされるかのように三沢のパートナーが「行ってください!」とばかりに進んで三沢にタッチ。その瞬間、東京ドームの底から沸き立つ地鳴りのような大歓声は凄まじかった。同じリングに立つだけであそこまでの歓声を作ることが出来る2人は現代のプロレス界にはおろか、昨今の格闘技ブームに乗った格闘家にすらいないだろう。2人が積み重ねてきた歴史、ファンが望んだ、待たされてきた期間が違う。あの大歓声とリング上を見ているだけで身震いがした。TVでは味わえない生観戦ならではの感動と興奮。あの瞬間にあの場所にいられただけで4年ぶりにプロレス会場に足を運んだ甲斐が充分にあった。

 

第69回 ゴールデンウィーク (2004/05/30)

今年のゴールデンウィークは曜日配列が良くて普通に休んでも5連休。有給を1日使えば7連休、3日使えば11連休になる大型連休。私は有給使って休むまでの予定は無かったので普通に5連休。これだけでも充分贅沢だ。GWの予定は飲み会が2回に昨年他界した祖父の納骨のために祖父の実家がある高知へいくこと。祖父母の家は京都にあるのだが、祖父母の実家は高知にある。飲み会の翌日に夜間高速バスで高知へ向かう予定だった。先日の急性胃腸炎が完治したとは言えない状態だったので前夜の飲み会は極力抑えて飲んだ。飲み放題でビールを3杯しか飲まないなんて私の常識では考えられなかったが、飲み過ぎてまたお腹の調子が悪くなって高速バスの中でトイレから出られないなんていう悲惨な状況は避けたかったので自制した。

20時新宿発の高速バスで高知へ向かう。車内灯がついているうちは読書し、消えると音楽聞きながら寝入った。体調が万全なら缶ビールの1本でも飲んでいるところだが…。道は意外にも順調だったらしく、予定時刻の8時より1時間早い7時に高知駅に到着した。先に四国入りして観光をしている両親と合流するまでが私のフリータイム。祖父の墓は高知駅からは離れているのでレンタカーを予約しておいた。レンタカー屋が開く8時になるとすぐに車を借り、目指す場所はただ1つ、桂浜だ。カーナビ付きのレンタカーだったので桂浜まで迷うことなく、道も順調に進むことが出来た…かに思えた。だいぶ桂浜に近づいてきて、"←こちら桂浜"みたいな所を曲がった途端に大渋滞。それまでは実にスムーズに走っていたのに急に大渋滞に巻き込まれて車が全然進まない。車のナンバーを見ると他県ナンバーが目立つ、皆が観光客だ(自分もだけど)。駐車場も混雑していてようやく車を止めて向かった坂本龍馬像。予想はしていたが…あまりの観光客(自分もだけど)の多さに辟易。そして殆どの連中がカメラ付き携帯で写真を撮っている、ケッ。桂浜に下りてみても同じ状態だった。月の名所桂浜、風情も何もあったもんじゃねー。前回私が桂浜に行ったのは1999年12月の四国一周一人旅の時。その時は天気も良かったし人も全然いなくて凄く良かったのを覚えていたので今回とのギャップが激しすぎた。朝の9時だというのにあの観光客(自分もだけど)の多さ、いやぁ恐るべしゴールデンウィーク。前回も行った坂本龍馬記念館へも行きたかったが、桂浜と同じような状況を想像するだけで行く気が無くなった。桂浜から高知駅へ戻る時も同じ道を通ったが、桂浜へ続く渋滞はさらに長くなっていた。

親戚が集まって祖父の納骨式とその後の宴会等一連の法事を済ませてゴールデンウィークの主要行事は全て終了。翌日、日本初の人名がついた空港である高知龍馬空港から羽田へ。航空会社のカウンター前に看板が立っていて「高知発東京行きの便は満席が予想され、只今席の振替を募集しております。振替を了承してくださる方はカウンターまでお越し下さい。謝礼として現金1万円、もしくは○千(忘れた)マイル差し上げます。」みたいなことを書いてあった。空港内のアナウンスでも同じ事を言っていた。"満席が予想されます"って言っていたが要するにダブルブッキングしちゃったんだろうな。これが私の学生時代1人旅だったら喜んで席の振替を了承しただろう。1万円貰えればもう1泊出来てさらに1杯飲める。でも振替の飛行機が1週間後とかだったら…。満席の機内、羽田は風が強かったらしくなかなか着陸できずに結局2時間程で到着。まぁバスで11時間かけて行く距離を2時間だもんな。

そんな感じで今年のゴールデンウィークは終了。なんかしっかり連休らしいことをした連休だった。それにしても桂浜での観光客(自分もだけど)の多さ…。こればかりは今後も今の仕事(土日祝が休み)を続けて行く限りは避けられないことだろう。

 

第68回 急性胃腸炎 (2004/05/30)

どうも身体が熱っぽかったが、休むとまずい仕事もあったので敢えて熱を計らずに出勤。ずっと座って仕事をしているにも関わらずだるさが増していく。2月にインフルエンザ?にかかった時と同じパターン。幸いにして休むとまずい仕事が一旦保留になったので翌日は休もうと心に決めて定時までなんとか耐えた。さっさと帰宅してさっさと寝る。布団の中で自分の身体の熱さを感じる。これもインフルエンザ?時と同じ症状。夜中に何度も目が覚めてトイレへ。その度に頭がクラクラフラフラ、そしてトイレではやたらと下痢が出る。トイレに座っているのも辛いのだが、下痢が止まらずになかなかトイレを離れることが出来ない。

朝になっても状況は一向に改善せず、熱を計ると39.4℃、そりゃ辛いわけだ。今年に入って2度目の39℃越え、一体私の身体はどうしたというのか…。仕事は休む旨を連絡して1日寝ていた。寝ながらテレビを見ているのも辛くてトイレに行く以外はずっと寝ていた。いつも利用している所が休みだったので病院へは行かなかったが、休みじゃなくてもあの体調ではろくに動くことも出来なかったので行けなかっただろう。熱よりも何よりも辛かったのが下痢。常に腹がゴロゴロ言ってトイレでは下痢が容赦無く出てくる。前夜から何も食べていないので出てくるのは殆どが液体。便座に座った途端にドボドボと水下痢。腸の中の不純物をことごとく排泄しているかのように次から次へと出ていく。それが辛くて仕方なく、トイレへ行く度にトイレットペーパーで尻を拭くので、ケツがピリピリ痛む。こういう時にウォシュレット付き便座だったら良かったなぁ…と思っていてふと思い出した。TVのあるバラエティ番組でタレントが「ウォシュレットじゃないトイレで大するときはトイレットペーパーを水で濡らして湿らせたのを持ってトイレに入り、それでケツを拭く」と言っていた。家にあった霧吹きに水を入れてトイレットペーパーを濡らしてそれでケツを拭くと実際イイ。トイレットペーパーを適度に湿らせるので拭いた時にケツがピリピリ痛くならない。下らないTV番組でも実用的に役立つことがあるもんだ。

翌日、熱は38度台まで下がったが仕事は休んで病院へ。熱が38度以上あって車の運転をするというのはかなり恐かった。自分の運転技術に自信が持てなくなる。病院での診断結果は風邪と併発して今この地域で流行している急性胃腸炎だとか。なんかただ"風邪"、と言われるよりも"急性胃腸炎"としっかり病名がついたほうが深刻に思える。前日もその前も殆ど何も食って無かったので「点滴を打ちましょう」ということになった。私史上初の点滴、ブドウ糖500ml。…長い、なんであんなスローペースなのか。ベッドは診察に使う堅いものだったからずっと横になっていて身体が痛くなった。1時間30分くらい何もせず横になっていた。点滴するって最初から分かっていればウォークマンか何か持って行ったのに…。終わってもあまり身体に実感はないままだったが、帰宅して貰った薬を服んで少し経つと身体はだいぶ楽になった。しかし下痢の辛さは相変わらず、こっちの方が重症だ。

熱自体は3日目には引いたのだが、下痢の方はしばらく回復しなかった。熱も完全に引いて、下痢も無くなってきた頃に数年振りに会う昔のバイト仲間との飲み会があった。楽しかったので例によって調子に乗って飲みすぎた。1週間冷たいものを一切口にしていなかったのに、いきなり大量のビールを流し込んだのがまずかった。その翌朝は二日酔いよりも再び下痢が襲ってきた。結局完全に治ったと思えるまでには2週間ほどかかった。2月はインフルエンザ、そして今回の急性胃腸炎、ともに39度オーバーの高熱。近年39度オーバーなど記憶に無かったのに、これで既に今年2度目。なんか今年は体調不良が多い。私の厄年は去年だったような気がするんだけどな…

 

第67回 戦艦・三笠へ (2004/04/11)

土曜の朝、目が覚めるととても良い天気に春らしい陽気、"今日だ…"すぐに思った。司馬遼太郎の歴史大作「坂の上の雲」(全8巻)を読み終えてからどうしても行きたい所があった。横須賀にある三笠公園。そこに日露戦争で日本の旗艦として東郷平八郎が率いて露西亜のバルチック艦隊を撃破した戦艦・三笠が記念艦として公開してあるのだ。横須賀ならウチからそう遠くは無いので良い天気の春の日に行ってみたいと常々思っていた。

午前中に家を出て電車を乗り継いで横須賀中央駅に付いたのは昼少し前。駅前の印象は地方の小都市といった感じ。海上自衛隊や米軍の基地もあるからか、水兵や外国人の姿も目立つ。駅から道標をたよりに三笠公園まで徒歩15分ほど。公園に入るとまずは東郷平八郎の像が迎えてくれる。そしてその背後に見える船、あれが三笠か。想像していたよりもずっと小さかったので少し拍子抜け。三笠のすぐ横は海だが、厳密には海の上に浮かんでいるのではなく陸の上に置かれている。500円の観覧券を買って早速中へ。艦内のいたる所に砲弾の当たった痕、というのが印されていた。外から見たら小さいと思っていた三笠も中に入ると広く感じられた。「坂の上の雲」を読み終えたばかりだったので、艦内の展示も興味深いものばかりだった。写真、絵、模型、資料など。東郷平八郎の遺髪も艦内にあった。艦内の講堂では日本海海戦をテーマにした映画を編集したものが放映されたり、日本の戦艦大和の模型や海上自衛隊の活動案内をしている部屋などもあった。東郷平八郎や秋山真之も立った艦橋から見える海、気持ちの良い風が吹いていた、「本日天気晴朗カツ風心地良シ」。記念艦・三笠があるからその名がついた三笠公園は、三笠が無ければただの公園。実に天気の良い春の午後、公園には小さい子供を連れた家族がいっぱい。平和だなぁ…と言える典型的な光景を元は戦艦だった三笠の艦橋から眺める。艦内では優に2時間以上を過ごせた。その気になればもっとじっくり見て回ることが出来たが、ずっと立っていた疲労と空腹でそろそろ出ることにした。三笠公園を出て昼飯は横須賀だけに海軍カレーでも食べようかと思ったが、喫茶店に「海軍さんのカレー」900円、などと書いてあるのを見ると逆に食べる気が失せてしまった。かといって普通にラーメン食ったりするのも味気無い。ブラブラしていて見つけたコンビニ、酒も売っていた。あ、コレで行こう。コンビニでビールとツマミ、おにぎりを買って再び三笠公園へ。三笠の全容が見える日の当たるベンチに座って昼飯。晴れた暖かい土曜の午後、戦艦三笠を1人で眺めながらビールを飲み思いにふける…。

三笠は観光地というよりも普通の大きな公園の中に三笠がある、といった感じ。良かったのは、三笠公園にも三笠内にも変な若者やバカップルがいないということ(そうした連中は同じ横須賀にあるhideミュージアムには多そうだ)。小さい子供を連れた家族や中年以上の夫婦が多かった。小さい子供が艦内で走りまわるのはご愛嬌、ああいう船の中って楽しいだろうからな。良い休日を過ごしたなーと実感した1日だった。ちなみに今年は日露戦争からちょうど100年、来年の5月は日本海海戦100周年らしい。

 

第66回 フットリラクゼーション体験 (2004/03/21)

ひょんなことからフットリラクゼーションとやらの無料体験チケットを手に入れて、興味本位で体験してみることにした。フットリラクゼーション、要するに足裏マッサージ。海外、特にアジアを旅するとこの足裏マッサージは結構お目にかかる。台湾やタイへ行った時に相方は足裏マッサージを受けていたが、私は頑なに拒否してきた。何か「痛タタタタ…」というイメージがあるし、足の裏を揉まれるなどくすぐったくてたまらんだろう、というイメージもあった。しかし足裏マッサージといういかにもオヤジくさいネーミングよりもフットリラクゼーションと完全横文字にすることによって違う印象を与えるから大したもんだ。そういえば新聞か何かで借金というと後ろ暗いイメージがあるが、キャッシングと言われるとそれが薄れて安易に借金をする若者が増えている…というようなのを見た。言葉の持つ語感というのは結構大事かも。

少し話がそれたが、とにかくそのフットリラクゼーションなるものに行ってみた。簡単な問診表に沿って質問に答える。そして次に音楽を選ばされる。海の波、森の風、川のせせらぎ…みたいないわゆる癒し系と呼ばれる部類に入るであろういくつかの音の中から1つ選ぶ。とりあえずリストの1番上にあった海の波を選ぶ。電動じゃない床屋の椅子のようなものに座り、素足になってぬるま湯に足を浸ける。お姉さんともオバさんとも表現できない微妙な年齢の女性が付いた。椅子の背もたれが倒されて、耳にはヘッドホンでなんとなく予想していた通り、波の音をバックにストリングスなどでヒーリングミュージックが流れる。そして肝心の足裏揉みは…なんだか??痛くも無く、特に気持ち良いと感じるでも無く、時々少しくすぐったい。何というか殆ど"無"、という感じだった。

終わった後に少し結果の説明(?)を受ける。なんでも足の裏を揉むことによって判るシコリか何かで身体の異変が判るらしい。それによると(事前の問診表に書いておいた)毎晩酒を飲んでいるが肝臓は特に問題無し。その他の臓器系にも異常は無かったらしい。本当かよ…と半信半疑だったが、次の説明でチョット本当かも…と思った。後頭部の首の付け根あたりが少し何かあった、と言う。なんでもそこは視神経が集まるところらしい。現在の私の仕事は殆ど1日中目を使ってPCと向かい合う日々。以前から仕事中にそこの部分に痛みを感じることがあって何でこんな所が痛くなるんだろうと思っていた。それは視神経が集まっている場所だったからなのか。何か妙に納得、足裏を揉んでそんなことが判るとは…。ただ、"だからどうすれば良いか"という話が無かった。なるべく目を使わないように…ってそれじゃ仕事出来ないしな。

もう1度行くか、と聞かれたら無料なら…と答えるだろう。お金を払ってまで行きたいとは思わなかった。本当に可も無し不可も無し、そんなヤツが行ってもなんか向こうにも失礼かな、なんて思ってしまった。元々マッサージを受けるのに向いていない身体なのかもしれない。

 

第65回 インフルエンザ? (2004/02/15)

地元の友人と飲んだ翌日、例によって二日酔いで気分が悪い。ところがそのまた翌日になっても身体のダルさが取れない。いくら飲み過ぎても三日酔いなどありえない。熱を計ると37℃、風邪だった。飲み会の翌日に二日酔いと思ったら体調を崩していた、というのはこれでこの冬で2度目。飲んで熱くなった身体で急に外に出て寒いなかを帰宅するのが身体に堪えるのだろうか。幸いにして熱があるのが判ったのが日曜日だったので1日家でおとなしくしていたが、朝・昼・夜と熱が徐々に上がっていって夜には38℃にまでなっていた。熱のせいで寝ていても身体中が痛くて寝つけない。寝ながら翌日の仕事は無理だろうと考えていた。

月曜日、朝は普段通りの時間に起きるも身体はかなりダルイ。しかも天気は雨なので早々に仕事へ行くことを諦めた。この仕事に就いて初めて風邪での欠勤。風邪で休むので何よりも嫌なのが職場への電話。どうしても何か後ろめたく思えてしまう。とにかく職場への電話を済ませてあとはひたすら布団の中にいた。

火曜日、さすがに土日から数えて4連休はまずいだろうと思い敢えて熱を計らずに解熱剤を服んで仕事へ。身体の異変にはすぐ気が付いて、身体は熱くて変な汗をかいているのだが寒気がする。しかしともかく職場へついたのだから仕事をする。幸いそれほど仕事はたまっていなかったのでマイペースでこなして定時にはさっさと上がった。

水曜日、体調が良くなっている気はしなかったが、前日も行けたし大丈夫だろうと判断して出勤。しかしいざ職場について暫くすると前日よりも明らかに体調が悪くなってきた。昼食後に解熱剤を服んでも一向に改善されない。何度も早退しようかと思ったが、「早退します」と言い辛かったのが1点。さらには職場に来ているのだから定時までいないと勿体無いと思えたのが1点。結局午後はダルさで殆ど仕事にならず仕事をしているフリだけをしてひたすら時間が過ぎるのを待った。あんなに定時までの時間が長く感じたのは初めてだった。家に帰って熱を計ると39℃を越えていた。眠りに就いても、冷たいはずの布団がまるで電気敷布を強にして使用しているかのような熱さ。身体のダルさ以前に熱い、というのが全てに優先された。自分の身体がこんなにも熱を持つものかと何だか不思議だった。

木曜日、前日に働いている時からもうこの日は休むことを決めていた。病院に行こうかと思ったが、いつも利用している病院が休診日だったため1日家で寝ていた。熱は38℃後半から始まって夜には37℃後半までは下がっていった。峠は越したか…。

金曜日、もしもこの日が金曜日でなければ仕事に行っていただろう。しかし既に今週2日も休んでいるので休むことに抵抗が無くなってきて、ついでだから休んじゃえという感じで休み。土日も含めると4連休だ。もう治りかけなのは判っていたが病院へ行った。考えてみれば前職を含めても自分の健康保険証を使ったのは今回が初めてだった。医師の診断はインフルエンザの治りかけ、とのことだった。

風邪を引くと精神的にも弱気になる。39℃を越えた記憶など近年無かったために、このまま治らないんじゃないかということも考えた。TVでは"タイで鳥インフルエンザに感染した男性が死亡"なんてニュースを流していたものだから、まさか私も鳥インフルエンザ?などとありえないことをも考えてしまった。あとで話を聞くとインフルエンザっぽいことが分かってすぐに病院行けば初期状態ならよく効く注射があってすぐに治ったらしい。風邪を引いたと思ったらすぐに病院に行った方が良いのだろうか。私の考えでは、風邪引いてもすぐ治るかもしれないので様子見てから病院へ行くのだが。1日寝ていれば治るかもしれない病気のために病院へ行くのもなんだかバカバカしくて…なんて言っていると手遅れになってしまうのかな。

 

第64回 ホームページ5周年 (2003/11/23)

1998年11月13日の金曜日と言う縁起の良い日に作り始めたホームページを初めて公開したのが11月23日。その日から丸5年を迎えた。○周年というのを迎える度に、よく続くなぁと思っていたが今回もそうだ。更新が数ヶ月に1回だった仙台での危機的状況を乗り越え、文章化・ホームページ公開は不可能とさえ思われた(?)あの仙台での1年強ですら公開できたのだから、これからも続いていくだろうと思える。

最近では専ら月1の更新かつ、殆ど決まった部分の更新しか行なわれていないが、学生時代の友人のホームページが閉鎖または更新停止に追いやられているのが殆どの現実の中では健闘しているのではないかと思える。掲示板への書き込みも最近は殆どなくなってしまった。更新の少なさもさることながら、これまで掲示板書き込み者のメインだった友人・知人が忙しい生活を送るようになってきたのも一因としてあるはずだ…(と自分を納得させる)。その一方で更新を殆どしていないTM NETWORKのホームページ(1999年3月公開)は実に順調だ。掲示板には気がつくと常連さんがいて、私が何もしなくても自然と情報が集まる場所が出来ている。アクセスカウンターは優に10万件を越えている(2度ほど誤ってリセットさせてしまったにも関わらず)。果たしてその中から何%くらいの人がこっちのページにも顔を出してくれているのだろうか…。

5年前の文章を見ると我ながら恥ずかしくなる。既に大学生だったはずなのだが、ですます調とだ・である調や口語調がごっちゃになっていたり、一人称が僕や俺・私と一貫していなかったり…。数年後には今書いているこの文章も読み返してみて恥ずかしくなるのだろうか…。いずれにせよ恥をさらしつつもホームページ公開は続けていくと思うので、見てくれている貴重な人は末永く見守っていて下さい。5年前に公開したときからアドレスは変わっていないので、もしかしたら懐かしい人が不意に思い出してココを見てくれて、さらに掲示板への書き込みやメールが来ることをいつでも心の片隅で期待しています。

 

第63回 プチ1人暮らし (2003/10/12)

両親がヨーロッパ旅行をすることになり、その間だけではあるが1人暮らしの日々を送ることになった。2年半ほど前にも1度本当の1人暮らしを始め、1年強続いたことがある。ただ、その当時と現在では状況が違う。そのうちにまた本当に1人暮らしをする時のためにも参考として今回のプチ1人暮らしのデータを集めてみた。

朝、両親がいた時はご飯が炊かれていたので、朝食はご飯を茶漬けや卵かけて食うのがメイン。あとは牛乳とヨーグルトだった。1人になったら牛乳の他にカロ○ーメイト2本(1/2箱)にウィ○ーinゼリー1つに変わった。何だかいかにも"現代の若者"の食事だ。
昼、職場近くの食べ物屋へ行くので普段と変わらない。
夜、職場近くで食って帰るか、帰りにスーパーが開いてそうな時間ならばそこで閉店前に安くなった惣菜か冷凍食品などを買って帰る。
土日、休みの日は遅く起きるので朝は食べない。昼少し前に街に出て、朝昼食を食う(ラーメンが多い)。その帰りに晩飯の買物もする。料理などする気もする力もないので、簡単に出来るものを購入。ステーキは肉を買ってきて塩コショウをかけてただ焼くだけだから簡単。スーパーで売られている1人用の鍋セットのようなものを購入するという手もある。全てを鍋にぶちこんで一気に煮てしまい、まとめて食う。アルミ鍋が用意されていてそのまま火をかけるだけでOKなんていうのも手軽。その他には揚げ物や焼き鳥など完成されたものを買ってくることもある。酒があるのでご飯はいらない、スープや味噌汁はインスタント。ただこういう生活を続けていると確実に野菜が不足するのは前回の1人暮らしで体感済みなので野菜ジュースは欠かせない。毎朝晩に野菜ジュースを1杯は忘れずに。

さて、こうした生活を続けていたとして1日当たりの出費を計算してみた。
朝、カ○リーメイト1箱約140円を半箱なので1日70円、ウ○ダーinゼリーは1つ約140円。
昼、どこで飯を食うかにもよるがだいたい500〜800円。
夜、これも場所によるが外で食べるぶんには昼と大して変わらないので500〜800円。
それ以外に仕事中に必ずお茶を飲むのでそれが105円。
平均すると平日は1日1,500円くらいだろう。
土日は1週間使うものをまとめて買う。牛乳は1週間で1本(約150円)、野菜ジュースは2週間で3本(1本約170円)くらいのペース。そして昼飯と晩飯と酒・ツマミ代を合わせるとやはり平日と同じ1,500円くらいだろう。すると1ヶ月では45,000円、妥当なところだろうか。

よりリアルな計算をしていこう。家賃70,000円(駐車場代込)の所に住んだとして、食費で45,000円、水道電気ガスで10,000円、通信費(固定電話・プロバイダー・携帯電話)で15,000円、月に1,2度飲みに行くことを考えて10,000円、車の維持費(保険・税金・ガス代を1年で割る)約10,000円、生活用品や衣類代・遊興費など合わせて20,000円…計180,000円。私の現在の収入から考えて赤字にはならないが、貯金はあまり出来そうにない。前の会社は酷い所だったが、家賃は会社持ち(1年目全額・2年目6割会社負担)だったのに加えて、忙しすぎて金を使う暇がなかったから必然的に貯まっていた。普通の生活をして全て自分でやるとなると、やはり大変なものだ。前回1人暮らしをしていた時のアイテムは全て残っているのでその気になればすぐにでもまた1人暮らしを始めることは出来る。しかし1度実家に落ち着いてしまい、さらに前記のような試算をするとどうも腰が重くなる。やはりプチ1人暮らしくらいが丁度良いかな。

 

第62回 中学のクラス会 (2003/9/13)

中学2年の時のクラスでのクラス会に誘われた。クラス会というと卒業したクラスである3年のクラス会が連想される。しかしクラス会の幹事が中学2年のときに良い思い出が多かったのか、中学2年でのクラス会というのが頻繁に行なわれる。私が大学の頃にも1度行なわれたし、仙台にいた頃にも誘いの電話がかかってきていた(勿論参加出来なかったが)。今回は暇な日だったし、当時の担任の先生も来ると言うので参加することにした。

待ち合わせは街ではそこそこ有名な待ち合わせ場所。土曜の夜だけあって人が大勢いた。しかしその中でも同級生を探すのに苦労はしなかったし、相手もすぐに私を判ってくれた。先生には「大きくなったねー」と言われる。中2の頃から10年も経てばそりゃ大きくもなるわ…って思いながらもう中2から10年経っているのかと改めてその時の流れに驚いた。同級生がオーナーをしているバーがクラス会会場。店の真ん中にグランドピアノがあり、クラス会で盛り上るのには場違いな店だった。前回私がクラス会に参加したのは大学生の時。その頃は同級生でも大学生が沢山いたが、今回は圧倒的に社会人が多い。前述のバーのオーナー、サラリーマン、都庁勤めの公務員、大工、フリーター、大学院生。結婚しているのは勿論、親父になっている者もいたし、既に子供を二人産んでいる者も。皆がそれぞれ現在の顔を持っている。

酒も回ってくる頃、遅れて誰かが登場する度に大騒ぎして同級生のオーナーに「もうチョット静かに…」と何度言われたことか。1次会だけでは当然満足せずに2次会は騒いでも大丈夫な居酒屋へ。コッチの方が落ちつくな。私の前職の東京のチェーン店でアルバイトしていた者がいたり、よくプロレスの話で盛り上った友人が総合格闘技を始めて見違えるほど身体がでかくなっていたり、兄弟・姉妹同士が結婚して義兄弟になってしまった2人など。10年も経つとそれぞれ色々なことがある。しかしそのクラス会場では、皆あの頃のままだった。外見や立場が変わっていても、先生と同級生に囲まれて喋っていると、「何だよ、全然変わってねーな」と笑いながら話せる。不思議なのは当時は特に仲の良くなかった同級生とも話しが弾んだということ。1年間同じクラスにいたというだけで10年経った現在でもこうして会って話して楽しめるというのは素晴らしいことだ。もっとも中学2年ではまだ完全に自分というものが確立されていなかったはずだから、その時にあまり喋らなくてもそれは仲が悪かったというわけではないのだろう。まだお互いに友人を選ぶ基準を持っていなかったというか、クラスメイト皆友人みたいな平和な時期というのもあっただろう。勿論そう思えるのは良いクラスにいたからだろうけど。時間が経てば経つほど熟成されて(何が?)もっと楽しくなっていくかな。だとしたら次回が楽しみだ。まぁあまり期間が短いのと頻繁にやるのはどうかと思うけれど…。

 

第61回 祖父の死 (2003/8/18)

ネタ…というのは不謹慎だが、母方の祖父が亡くなった。仕事をしていると実家の京都を訪れていた母から電話があって、爺ちゃんが危ないという話を聞いた。その電話から数時間後に逝ってしまった。さすがにショックで仕事は手につかなかった。私は24になるが、これまで父方母方ともに祖父母は健在だった。その一角が遂に崩れてしまった。私は京都で生まれ、そこで一緒に住んでいたこともあった。祖父にとっても私が初孫だったので随分と可愛がってもらった。その祖父が亡くなった。大正生まれで年齢も80代後半に突入していたし、あちこちに病気も持っていた。もうそれほど長くはないと分かってはいたが、やはり来るべき時が来ると切ないものだ。亡くなったことは大きなショックだが、良かったなと思える部分もあった。最早元気な姿ではなかったが、私は6月に土日を利用して京都へ祖父に会いに行って会話も出来たということ。そして今回たまたま母が関西に用事があって実家に帰っていて、その時に祖父が亡くなったので母は死に目に会えたこと。そうしたことを考えないとどうにも死というのはやりきれない。

金曜日に亡くなったので、土日で通夜・告別式。父と急遽京都へ向かった。6月に会った時にも思ったが、眠りについた祖父はより小さく見えた。親戚が多く集まるので久々に会うイトコの姿などもあった。葬儀ホールのような所を借りてそこで通夜・告別式が行われた。前日に亡くなったばかりだが、早々とこうした所が用意されて遺影や花までもがしっかりと飾られていたのには驚きと少々の違和感。祖父母は神道だったので、通夜で坊さんが延々お経を唱えることがなく、サクサク進行した。その夜私は葬儀ホールに泊まったのだが、夜遅くになってから弔問に訪れる人もいた。深夜、誰もいなくなったホールで1人暫く祖父と対面していた。何をしたわけでもないが、なかなかそこを離れられなかった。

翌日の告別式。祖父は某銀行の東京支店長を務めたり、某商事会社の会長を務めたりかなり立派な経歴を持っていた人なので、告別式に来る人も多かった(…どれくらいの人で多いのかは分からないが)。一連の進行の中で最後に棺桶の中に花やら思い出の品やらを入れるシーンが1番こたえた。祖母や母などが涙ぐむ姿を見てしまうと余計にこたえたので出来るだけ周りを見ないようにしていた。火葬場で最期の別れ。寂しさ・哀しさ・切なさ…あの感情は何なのだろうか。約1時間後に採骨。思ったよりもしっかりと骨の形をなしていた。足の骨から順に骨壷に入れていく、骨壷の中で生前同様に立った姿にするためだそうだ。一連の行事を終えてホールで食事。一連の行事を終えてホールで食事、やはり故人の話しに花が咲く。こんな人だったんだよ、こんなところがあったんだよ。私の知らなかった祖父の1面も知ることが出来た。金曜日に逝去の連絡を受けてから翌日通夜、その翌日に告別式。数日前には想像すらしていなかった出来事が慌しく過ぎ去った。何だか祖父の死同様にアッサリ終わったなという印象を持った。

祖父の死から1週間以上が経過したが、やはり心のどこかに引っかかりがある。普段から頻繁に会っていた訳ではなく、1年に1回会うかどうかという状態だったが、何気ない瞬間にフッと思い出して"もうこの世にはいないんだな"と寂しく感じることがある。この感情は暫く続くだろう。こうしたことを乗り越えて人は成長していくのだろうか。

 

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