みなさんは「神秘体験」ってどういうものだと思います?
というのも、読みかけのまま置いていた「聖なるビジョン」が気になって、ぱらぱら目を通していたら、この本の中には「神秘体験」とか「霊的(スピリチュアル)」といった言葉が当り前のように出て来ていることに、あらためて気がついたのです。
「聖なる」シリーズの第一作「聖なる予言」でも同じことが書かれていますが、お互いからエネルギーを奪いあうコントロールドラマを終わらせるには、神秘体験を通して、この宇宙に存在する無限のエネルギーの源からエネルギーの供給を受けることが必要です。
うーん、でも、こういう表現方法って、どこか抵抗あるなー。(^_^)
わたし自身、こういう世界で仕事をしていながら「宇宙」だの「無限のエネルギーの源」だのという言い方にどこかで抵抗しています。もちろん「神秘体験」「霊的(スピリチュアル)」にも。
10年前のわたしだったら、そういう話には耳を傾けることすらしなかったでしょう。しかし、自分自身がさまざまな体験を積み重ねてきた今、その体験を自分の中に統合していかざるを得ない時がきているような気がしているのです。
も少し違う表現で書いてみます。
わたしたちはいろんなものを求めています。それは、お金だったり、地位だったり、名誉だったり、家族や友人、恋人からの愛情だったり、、、。それを手に入れることですっかり満足して落ち着くのであればなんの問題もないですね。
ところが、一つのものを手に入れても、どこか満足できずにさらに多くのものを求めてしまう、ということはないですか?あるいは、たくさん持っている他人のことをうらやましく思い、他人がたくさん持っているから自分の分が少なくなっているのだ、と考えて憂鬱になってしまうことってありませんか?
そんなとき、汲んでも汲んでも尽きない井戸のようなエネルギーの源があって、その存在を実感するためのきっかけが「神秘体験」と呼ばれているような種類の体験である。こんな書き方ではどうでしょ。
そして、わたしがどうしても強調したいことは「神秘体験」と呼ばれるような体験が「何か特別な珍しい体験ではない」ということです。
多くの人が「神秘体験」と呼ぶことの出来るような体験をしばしばしているのです。ただ、その体験はそれまでの考え方の枠組みで捕えることのできないものであることが多いので「神秘体験」として認識されず、体験した人の中に統合されていかない、ということのようです。
なんかちょっと変な感じがしたな、くらいで終わってしまったり、あまりにも受け入れ難い体験だったので、意識が受け入れることを拒否するような場合もあるかもしれません。
しかし現在は「神秘体験」の意義が少しずつ受け入れられる土壌が出来てきているのではないかな。「聖なる予言」シリーズの本がベストセラーになるというのは、まさしくそういうことだと思います。(【まほろば通信】vol.6掲載1998/12/10)