連続コラム?「速すぎる」の第3回として「死」について書くつもりにしていたのですが、最近のわたし自身の内的な変化とも相まって、今、このテーマできちんとしたものを書くのはちょっと難しい感じなので、今回は、今現在のわたしが身近に感じている「死」にまつわるあれこれを少しだけ書いてみようと思います。
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3月に入って、わたしの周囲のエネルギーが大きく変わった、ということは何度か書いたと思います。その感覚は、まさしく「死んでいく」なのです。それは「手放す」感覚と同じかもしれません。
あれこれ悩んでいたもろもろの事柄が、気がついてみると、いつの間にかわたしの中でとても小さな存在になっている。ずーっと背景に退いている。そのうちに姿が見えなくなっている。
かすかな寂しさと、すっきりした感じ。そして、新鮮な空気。そんな微妙な感覚があります。
今読んでいる「死ぬ練習」という本の中に、肉体の死が近づくと、身近な家族がとても遠い存在に感じるようになる、という一節があったのですが、自分の体験とも相まって、とても納得しました。
内的な変化というのは一つの「死」なのです。そのプロセスを意識的に体験することによって、より大きな意識の深化のプロセスに添って生きていけるかどうかを決定するようです。
死ぬのは怖いと思っている人は多いと思いますが、わたしの感覚では、多くの人が語っているように、「死」は誕生と同じように自然なものであり、一つの転換点にすぎないような気がします。それは、わたしの体験からも言えることです。
もっとも、「そうだろうな」と頭で理解しても、それを急に実感するのは難しいかもしれません。
それを少しでも実感するためには、毎日の生活の中で一瞬一瞬起こっている「小さな死」に対してできるだけ意識的である、ということだと思います。(【まほろば通信】vol.40掲載2000/03/20)