アジャシャンティ「あなたの世界の終わり―目覚めとその"あと"のプロセス」 第5章 隠れている場所から完全に出る 非常に深く深淵な目覚めを経験した人でも、他人に対してだけでなく、自分に対しても真実であることを恐れている。この恐れの核心は、自分が完全に真実で、誠実で、正直であれば、誰のこともコントロールできなくなることを直感的に知っているということ。 しかし、実際は誰も何もコントロールすることはできない。目覚めとはコントロールの幻想が壊れていくこと。 たいていの人は子供時代に真実を言うことで傷ついた体験をしているので、ありのままの自分でいることはOKでない、という非常に深い条件づけを持っている。 目覚めとは、その条件づけに気づいて手放していくことで、すべてのものが純粋意識の顕現であることを思い出していくこと。 人間関係の中で真実を話すというのは、マインドのゴミを他人の上に投げ捨てることではない。それは真実から隠れるやり方。 ・本当の自由は、あらゆる人とあらゆるものへの贈り物である 自由とは、あらゆるものとあらゆる人がまさにそのあるがままでいていいということ。 そもそも目覚めるのは個人ではなくて、全体性が目覚める。「全体性」が一人の個人を通して目覚めを表現している。 あなたが全世界に自由を与えるまで、あなたは自分の自由を持つことはない。 自分が、あらゆるものとして、あらゆる人として現象化している、一つしかない唯一のスピリットであることに私たちが覚醒するとき、あらゆる人のための完全な自由がある。 悟りとは皆が自分を愛してくれるということではなく、自分を愛する人もいれば、そうでない人もいる、ということを認めること。 ・誠実さこそ鍵 もっとも重要なことは、自分が見た真実を誰にも説得しようとしないこと。本当に重要なことは、あなたが自分自身に真実であること。 目覚めの体験で理解した真実とまったく正反対の位置に自分の一部が立っていることを見るかもしれない。目覚めは目覚めていないものに向かって動いていく。誠実さとはこの運動が起こることを許すこと。これが起こるとき、自分のハートとマインドが開くのを感じる。想像したこともない深いレベルで自分が開くのを感じる。 こういったレベルは人間性を超えるものであるだけでなく、人間性の「内部」にあるもの。あなたの人間性と聖なる本質は一つ。 ・忌避としての超越 「悟りとはどんな状況にいても人が完全なる幸福、完全なる至福を感じることができることを意味している」という誤った認識を持っている人が多い。 目覚めとは、単なる人生の超越や、私たちが人生の現実に対処する必要がない避難所を発見することではなく、自分の人生の実際のあるがままに対処する能力を発見する存在の状態。 私たちはお互いを自分自身の自己と見なす場所から行動しているだろうか。 このことは、何かをする必要がある、ということではない。目覚めた意識はそのように動いていく、ということを表現しているだけ。 もしあなたが自分の人生の調和していない側面、あなたがまだ否定している人生の局面を避けるなら、あなたのスピリチュアルな目覚めを妨げる。 物事があるがままであることを許すとき、調和の感覚が育つ。私たちの覚醒と人間としての自分のギャップが小さくなる。覚醒と表現、目覚めとその実現の間に、途切れのない継続が出現し始める。 ----- 第6章 よくある間違った思い込み、罠、執着点 目覚めのプロセスの中でおちいりがちがいくつかの罠がある。こういった罠について理解しておくことは大切。 目覚めの内部にこのような間違った思い込みが内在しているわけではなく、定着しない目覚めから定着する目覚めへと移行していくときに起こる可能性があるというだけ。 また、すべての人がここで述べるすべてのことを経験するわけではない。 ----- ・優越感の中で行き詰まる 自分は目覚めたのでもうすべてを知っている、自分は常に正しい、自分には問題は何もない、と考えて優越感を感じる。目覚めの体験にしがみつき、その背後に隠れるという状態。「目覚めたエゴ」になる。 本当に目覚めたとき、何かから隠れるためにその目覚めを使うことはない。あらゆることを存在の光の中に歓迎する。 誕生も老いも死もないが、同時に、誕生も老いも死も終わることはない。 私たち一人一人が目覚めていないと自分が思う人たちに対して優越感や軽蔑感を感じていないかをよく見る必要がある。 目覚めの体験のあと、こういった優越感を感じるのは普通のこと。それに気づいたら、ただ気づいておくこと。それを信じないこと。 ・無意味さの罠 目覚めると、人生に意味を発見したいというエゴ的欲望は「自分が生命そのものである」という認識の代用品であることに気づく。生命そのものから切り離された人だけが意味を求める。 人生の意味を発見したいという願望は夢の状態から派生しているものなので、私たちが夢の状態から目覚めると、意味の探求が無価値に思えるようになる。 とはいっても、一度の目覚めでエゴが完全に消滅するわけではないので、この地点で無意味さにとらわれてしまうことがある。人生に何の意味もないように見える。 これは目覚めた観点からはとてもポジティブなことだが、エゴの観点からは災難になる。 自分がエゴの観点から見ているにすぎないことを理解すること。目覚めとはエゴから目覚めること。 ・空虚感に行き詰まる 目覚めのプロセスの途中では、自分が観照者(すべてのものを観照、目撃している人)であると気づく段階がある。観照者の状態にいることはとても素晴らしく感じることがある。特に、人生で多くの苦しみを体験してきた人には途方もなく自由なことと感じられる。 しかし、ここでもエゴが「観照者としての自分」を確立してしまうことがある。 超越の中で行き詰まってはいけない。目覚めることとは、どんな特定の観点もないと気づくこと。観点から自由になること。目覚めの旅の最後の局面は観照者の立場の崩壊。 |