宇多田ヒカルと武者小路実篤


 宇多田ヒカルは実篤の「生きること」という文章を読んで感動したと、あるインタビューで語っている(『週刊プレイボーイ』1999、No.44)。私も読んでみたが(小学館版『武者小路実篤全集 第17巻』684ページ)、いつもの持論を述べているもののピントがぼやけていて生彩を欠き、あまり良いものとは思えなかった。少なくとも、苦労して探してまで読む値打ちのあるものではない。むしろ手に入りやすい文庫本の『人生論』等を読んだ方が、実篤の主張をより理解できる。
 初出は『この道』(新しき村の会報)の1964年4月1日号で、実篤晩年の文章だ。このような文章で感動したのだろうかと、ちょっといぶかしく感じた。「全集第17巻所収」というのはインタビュアーの補足だが、全集の索引を見る限りでは他に適当な文章は見当たらない。似た題名では青年期の雑感と詩があるが、そのいずれも彼女の発言内容と符合しない。昭和30年代に多く発行された人生論集の類に、同じ題名で違う文章が載っている可能性もなきにしもあらずだが(全集は3段組で文字も小さく、コピーして授業で配るのには向いておらず、何か単行本からのコピーの方が可能性がありそうだが)、確固たる証拠がないためここでは全集第17巻に拠るしかないだろう。

 逆に考えれば、実篤にとっては「当たり前」のことをちょっと下手に書いたものであっても、それを初めて読んだ彼女にとっては「読んだ瞬間に“あっ、これ、わかるわかる”って叫びそうにな」るほどのインパクトを持った文章だったとも言える。それは私が中学のときに(多分いろいろなところで誤解をしながら読んでいたと思うのだが)、自分の問題として問題解決の糸口として実篤を読んでいたのと同じようなことが、彼女の中で起こったのだと思う。
 インタビュアーとしては「宇多田ヒカル」と「武者小路実篤」をならべてそのミスマッチ感を出したかっただけだと思うが、私はやはり実篤の文章には「10代の心をつかむ何か」「求める者には応える古びない何か」があるのではないかという感触を得た。

(1999年11月13日)


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