寡作家と読者


 先日『サライ』の山頭火特集を読んでいたら、井月を慕って長野を旅したとあった。井月とは江戸時代の俳人で旅に斃れたひとりだが、彼のことはつげ義春の連作「石を売る」の中の「蒸発」で知った。私の知る範囲では、この作品がつげ氏の最新作であり、しかも10年以上も昔の作品である。私はつげ氏の熱心な読者ではないが、おもだった作品はすべて読んでいる。そして次に出る作品も(もしも出るのであれば)読んでみたいと思っている。熱望というわけではないが、頭のどこかで気にしているので、井月という名前に反応してしまうのだろう。
 熱心でない読者ですらこうなのだから、ファンなどは首を長くして待っているのだろう。つげ氏の性格からいって、待たれているからすぐ描くというわけではないということも、ファンは皆じゅうぶん承知している。描けない理由もわかっている。それでも待っている。昔の作品をときおりひっぱり出しては読んでみる。そうする中で、作品やつげ氏の周辺情報に鋭敏になっていく。今回の井月などもそうだろうし、彼が通った多摩川の競輪場が媒介になって、「多摩川」ということばに反応することがあるかもしれない。そういうのが、寡作家のファンのたのしみというものかもしれない。
 つげ氏の創作ペースと志賀直哉のそれは似ているかもしれないと、ふっと思った。2人を並べることはあまり適当ではないかもしれないが、少ない作品を味わいながら新作を待つというファンの様子は、案外こんなものかもしれないと、『サライ』をめくったときにそう思った。

(1999年8月14日 )


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