雨の土曜日、ちょうど17時に仕事を切り上げた彼は、彼女を自宅まで送ることになった。
今日の彼女は、彼の業務を仕上げるために、アシスタントとして休日出勤をつき合っていた。
 彼は、無断で使用していた来客用の駐車場から車を出すと、路肩に止めて道路地図を取り出した。
「さて、何処を通って帰ろうか」
「そうねえ、寺尾さんにお任せするわ」
「関越、もしくは254に出たら北上かな」
「254にしましょう、わたし道を知っているから」
「じゃあそうするか、どこかで夕飯をご馳走しよう」
「いいわね、うれしい」

 浦和−所沢バイパスを越えると、254号線通称川越街道は確実に混み始めた。
「ねえ、何処かドライブしない」
「おやすい御用だけど、景色のいい所でもこの近辺にあったかな」
「景色だったら正丸峠ね、でも今からじゃあ真っ暗だわ」
「おいおい、適格に指示を出してくれよ、何処にでも連れて行ってあげるから」
「じゃあこの先で左折しましょう、所沢方面に向かうと一面のお茶畑があるわ」 彼の車は、彼女の希望で所沢市街を抜けると狭山湖、多摩湖を通過し日光街道を越えて16号へ入った。
彼は、彼女のドライブの目的が今一歩つかめないでいたが、彼女との適度に軟らかい会話は、休日出勤のアフター5に似合っているかもしれないと思った。
先ほどからの話題は、彼の女性の好みについてだった。
彼女は、”面白い噺を聴かせて”とせがみながら巧みに彼の過去を聞き出していた。
「どのような女性が好みかしら?」
「ポリシーのある人」
「例えば?」
「生きる上での自分の主張を貫ける人」
「主張って?」
「例えば結婚している女性がいて、自分の夢を実現させるためには夫をしばらく 放り出すことも出来る人」
「それは少しひどいんじゃあないかしら」
「結婚っていうのは、お互いの夢を実現させるために助け合うことだよ。だから 夫婦は協力して生活して行くだけじゃあない。」
「夢ねえ」
 と、彼女がため息まじりに呟いた。
「夢と言っても絵空事じゃあなくて、自分の生き方さ。但し、性別や年齢を経る ことでも次第に変わるけどね」
「寺尾さんの夢は?」
「最近までは、典型的なサラリーマンさ。例えば20代でマンションを40代で 一戸建てを」
「じゃあ今は違うの」
「少し変わったね。造り上げて来たものを壊すと言うか、自分が堕ちていく姿を 夢みるよ」
「おちるって?」
「堕落さ。プライドを捨て去ると言い替えてもいいね」
「プライドね、わかるような気もするわ」
「うん、でも堕ちるの意味あいはプライドだけじゃあない。噺は少し逸れるけど、 君は結婚相手にどんな人を選ぶかい?」
「優しい人」
「月並みだな」
彼は突き放すように言うと、最近他の女性と交わした同様な会話を思い出していた。
「僕の昔の考え方では、その相手と何cmまで近づけるかが判断のポイントだっ た。つまり0cmになったときが結婚対象さ。今はその相手のために、自分が 何処まで堕ちることが出来るかに変わったよ」
彼は、噺が少し複雑になり過ぎたことを心配した。

 16号へ入った二人は、空腹を覚えた。
時刻は既に19時を過ぎ、6月に近いとはいえ日は落ちていた。
「何を食べようか」
「何でも食べられるわよ、私は好き嫌いがないの」
「そうか、じゃあ走っいてよさそうな店を見つけたら言ってくれよ」
「それじゃあ狭山で左折して、新しくできた店に行きましょう」
「おやすい御用で」
二人は複雑な県道に迷いながらも、彼女の希望通りに到着した。
店は牧場に併設されたレストランで、まともな服装を要求しているような構えだった。
「こりゃあだめだな、今日はジーンズにこんなシャツだぜ」
「そうねえ、この前来たときは、そんな風に見えなかったんだけど」
二人は、彼の提案で数キロ離れた別の店へ向かった。
牧場から10分もかからずに到着したが、看板の灯が消えていた。
「ここもだめだ、もっと早く食事にすればよかったね」
「あら、この奥にも店があるわよ」
駐車場のさらに向こう側に、暖簾の下がった店があった。
「メニューを覗いて来てくれないかい、よかったら入口からOKのサインを出し てくれよ」
「ええいいわ」
彼はすぐに車の向きを変えられるように、フロントから駐車スペースへ入った。
彼女は自分の好みだけで決めてしまうのをためらったのか、サインを出さずに戻ってきた。
「私は大丈夫だけど、釜飯のようなものばかりだったわ」
「よし、じゃあ此処にしよう」
彼は、この近辺でこれ以上遅くなると開いている店がないと判断した。

 暖簾をくぐって自動ドアを開けると、テーブル席にするか座敷にするかを尋ねられた。
彼女は、迷わずテーブル席を選択した。
店は、焼鳥屋が鳥料理の専門店に格上げされたような不思議な雰囲気だった。
しかしちょうどデッドな時間帯からなのか、店内には二組の客しかいなかった。
 彼女は鳥釜飯とハイネケンを、彼は鳥重と焼鳥を注文した。
先ず、グリーンの鮮やかな小瓶と同色のグラスが彼女の前に運ばれた。
彼が1杯目をついだ。
彼女が1口分飲むと、彼がつぎ足した。
グリーンのグラスに残った口紅が白い泡に栄えて美しいコントラストを見せていた。
彼はタングステン照明にとても合うこの色彩を、写真に撮りたくなった。
「ねえ、もっと面白い噺を聴かせて」
彼女が甘い口調で彼を煽る。
「えっ、もう酔ったのか」
彼が時間稼ぎをしながら続ける。
「じゃあ質問をどうぞ、何でも答えてやるよ」
「寺尾さん、今まで浮気は一度でもなさった?」
「知らねえ」
「いま、何でも答えると言ったじゃあない」
「そうだっけ」
「ずるい、言ったわよ」
彼は、彼女の意図を図りかねていた。
いまは、彼女に対して正直である時期か、または気の効いた返答をするべきかを躊躇した。
更にこの質問には、いくつかの問題点があった。
彼女との現状の関係では、ないと言えば疑いが残る。
あると答えれば、格好をつけているようにも取れる。
彼は返答に曖昧さを含め、次の彼女の出方を待つことにした。
「あるよ、でもそれ以上は答えられない」
「精神的な浮気じゃあなくてよ」
「ああ」
「ねえ、何人と?」
彼は予想通りの質問に、予防線を張っておいてよかったと思った。
「だめだ、それ以上は言わないと言っただろう」
彼女の質問が行き着くところまで続くと確信した彼は、防御の姿勢を見せた。
しかし、彼女は押しの強さで続けた。
「じゃあ、何回かしら?」
「知らねえ」
彼は、笑いながらも語気を強く答えた。
そして、涼しい目をしながらこのような質問が出来る彼女を、とても面白いと感じた。
進んだOLの適度な色気を含んだ雰囲気だけでは、彼もここまで言わせない。
彼は、”君と堕ちたい”という本音をどの様に表現するか迷った。
そして、次回へ持ち越した。
彼女を口説くには、もっと別なシチュエーションと過程が必要だと判断した。
仕事の帰りに、焼鳥屋では何となくつまらない。
ラフな付き合いもいい、でも自分が気に入った彼女とは、もっと”いい女”として続けたい。

 店を出ると駐車場には霧が漂っていた。
彼は県道を迂回すると、ほんの少し遠回りの道を選んだ。
雑木林の間から、ときおり霧が車をかすめて去った。
彼女がウィンドウを少し下げ、気持ちよさそうに小声で歌い始めた。
彼は、彼女が素敵に堕ちて欲しいと思った。