横浜から西の地方駅で待ち合わせた2人は、彼のオートバイでタンデムツーリングを楽しみ、真鶴で休憩をしていた。
テーブルには、彼女の注文したトロピカル・クリーム・ソーダと彼のライム・ソーダが並んでいた。
「腕はどうだい」
敏夫は、洋子の日焼けを心配して聞いてみた。
「大丈夫よ」
「ほんとだ」
洋子は夏になって1度だけプールで泳いでいたが、彼女の腕はまだ泳いでいない敏夫より白かった。
8月の第3土曜日、敏夫は高校最後の夏休みを有意義に過ごすため、今日は洋子を誘ってツーリングに出かけていた。

 店内はピアノが置かれた大きなフロア、2人の座っているカウンターのあるフロア、そして屋外のテラスと目的別にうまくレイアウトされていた。
旧道に沿って建てられたこの店からは、海岸沿いを走る新道がよく見下ろせた。
窓際には、2つの双眼鏡が雑然と置かれていた。
おそらく、店のオーナーが眺望のサービスとして客のために常設したものだろう。
2人が双眼鏡を取り、海岸を覗く。
敏夫は趣味である銃器類の知識から、スナイパーライフルのスコープが4〜7倍であることを思いだし、このような利用方法に8倍が十分な倍率であることを説明した。
 壁には、パネルへ入れられた1枚の写真が掛けられていた。
競技用のトライアル車が、フロントのタイヤを上げて岩の上に静止していた。
敏夫は、店名の”サドルバック”から、このライダーが店のオーナーではないかと彼女へ教えた。
サドルバック本来の意味は、馬の鞍へ左右に振り分けるバッグのことをいう。
馬とオートバイは共通事項が多く、オートバイをアイアンホースと呼ぶ人もライダーの中には結構いる。

 店を出るとパーキングへ向かった。
午前から午後へ移り変わろうとする日差しが、2人の上からシャワーのように降り注いだ。
パーキングではいま着いたばかりのカップルが、敏夫のオートバイに並べて駐車しようとしていた。
車種はスズキのGSX−250E、敏夫のオートバイより年式は新しいが、今では珍しくなってしまった2気筒の空冷エンジンを登載している。
「あら、あんなところにユリが」
「ほんとだ、珍しいね」
洋子が指さす方向を見ると、パーキングの外れの崖っぷちには見事なユリが咲いていた。

 伊東に入り駅前へ出ると、商店街の入口でオートバイを停止した。
敏夫はエンジンを切り、30m程オートバイを押して路地に駐車した。
2人は”海女屋”の暖簾をくぐった。
彼の推奨する、あわびのお粥で有名な店だ。
十分にお腹をすかせた2人は、刺身の盛り合わせにさざえと蛤、そして目的のお粥を注文した。
 料理が運ばれるまでに、敏夫は先日撮影したスライドを取り出して洋子へ見せた。
「この前撮った写真だよ」
敏夫は写真部に所属していた。
彼の専門は、女性ポートレートだ。
たまに親しい女性をモデルに誘い、カメラ好きの友人達を集めては撮影会を企画する。
彼は先輩のいないこの撮影会が、気楽で大好きだった。
敏夫と洋子の付き合いも、去年に彼女を撮った頃から始まっていた。
彼が撮影する女性には、きまっていくつかの共通点がある。
丸顔かしもぶくれで、そばかすがあり、胸が大きいこと。
洋子は、そのどれにもあてはまっていた。
透過型の小型スライドビューワへ、1枚1々差し込んでは彼女へ渡した。
洋子はそれを窓側へ向け、外の明りでじっくりと観察した。
「どうしてこんなにピントが合うの」
彼女も一眼レフを持っていた。
敏夫に勧められて購入したものだ。
オートフォーカスではないが、マニュアル露出の可能な中級機だった。
敏夫は今年になって眼鏡のレンズを作り替えたことが、ピントの正確さに大きく貢献していることを説明した。

 昼食を済ませると海岸沿いのバイパスを走り、135号線をさらに南下した。
富戸から泉郷を通過し、大室山へ到着した。
2人は麓のレストハウスからリフトに乗り、頂上へ向かった。

リフトは3つ目の支柱を過ぎると突然静けさが増し、十分に観光気分を満喫させてくれた。
約4分の所要時間で頂上へ到着した。
「アーチェリーかしら」
と、洋子が質問した。
頂上は中央部が大きく窪み、いくつかのターゲットが並んでいた。
「そうなんだ、ここは休火山でこの窪みは火口だよ」
「ええっ、じゃ爆発するの」
敏夫は笑って答えなかった。
先日、近くの海底火山が噴火したばかりだった。
「一回りしようか」
洋子は、火口の反対側へまわる坂道にあまり気乗りはしなかったが、1周15分という彼の説明で歩き始めた。
敏夫はソロツーリングでここまで来ることが多く、伊東の市街で魚を食べ歩くとよく大室山で休憩していた。
晴れた日には伊豆7島のいくつかが見渡せ、彼は何時間でもここから景色を楽しむことができる。
 ときおり風に乗って舞い降りる小さな雨つぶが、2人のぶらさげたヘルメットに水滴を残した。
しかし雨具を出すほどの空模様ではなかった。
「夏休みはどう?」
敏夫は、ものごとに計画的な洋子が、どのように過ごしているかを聞いてみた。
「雅弘さんの郷里に行ってみたわ」
洋子には、以前から特別に親しいボーイフレンドがいた。
同じ高校に通っていたが、敏夫はよく知らなかった。
都会生活しか経験のない彼女は、雅弘に誘われ、彼の田舎で旧盆を過ごしたばかりだった。
雅弘の家族とも親しい付き合いをしている洋子は、一家に歓迎されて招待されたようだった。
今日のツーリングは、敏夫が雅弘との間に割り込むようにして洋子を誘ったものだ。
「あの山は面白い形をしてるわ。枯山水と言うのかしら」
天城の方向に、中国の桂林を思わせる山があった。
少し曇った空模様が、水墨画に近い景色をつくりだしていた。
敏夫は、黒いツーリングバックから愛用の一眼レフを取り出し、ショートズームを装着した。
常用しているISO400のリバーサルフィルムを入れると、山を背景に洋子の写真を1枚撮らせてもらった。
フレーミングはポートレートではなく、彼の苦手な記念写真に近いものだ。
露出は被写界深度を優先し、F11まで絞り込まれていた。
さらに、遊歩道から飛び出た杭にカメラを乗せると、内蔵されたメカニカルなセルフタイマーをセットして、彼女といっしょに写った。
3世代前のニコンが、乾いたシャッター音でレリーズを切った。

 大室山を下りた2人は、今は無料となった遠笠山道路を経由して伊豆スカイへ向うことにした。
敏夫のオートバイは、標高が上がりつつあるせいか常用回転域でプラグが被り気味になり、エンジンの吹き上がりが悪くなった。
2ストロークエンジンは、元々キャブレーターのジェッティングに神経質だが、特に気圧の変化に影響されやすい。
トランスミッションも、3速が上り勾配に適していなかった。
彼は、意識的に2速を多用してプラグが焼けるのを待ち、グリップのよい路面の助けも借りて、軽快なワインディング走行を楽しんだ。
洋子が路面に膝を擦りそうだと訴えたが、クリッピングポイントでまだ20cm以上の余裕があった。
 伊豆スカイへ入ると、敏夫は料金所で熱海峠までの支払いを済ませ、高速でコーナーをクリアする走りへ変えた。
サードギアで7000rpmを保つと、時速は110km/hに達した。
距離計が3万kmを超える彼のオートバイは、よくメインテナンスされてはいたが、リアショックのサスペンションがへたりつつあった。
120km/h近くで高速コーナーをまわると、ボトミングはしないものの、サスペンションが踏ん張りきれなくなり、スイングアームがよれそうになった。
オートバイが”限界だよ”と教えてくれる。
これ以上の荷重をかけると、ハイグリップタイヤは一気にテールスライドを始めガードレールへ張り付く結果を招く。
敏夫はこの限界のサインに従い、コーナーの手前で十分にブレーキングを完了する、スローイン・ファーストアウトの走行に切り換えた。
 玄岳を過ぎると、澄み切った空にパラグライダーが遊泳していた。
道路際に設けられた展望台へオートバイを乗入れ、2人は空の散歩に見とれながら休息を取った。
常時旋回を必要とするハンググライダーに比べ、静止可能なパラグライダーはとても気持ち良さそうだった。
「奇麗、どうして静止出来るのかしら」
「谷からの吹き上げと重力が丁度バランスしているんじゃないかな」
彼はオートバイへ戻り、タンクの上に取り付けたバックからカメラを取り出した。
少し時間をかけて、2枚の写真を撮った。
パラグライダーのカラフルな背景が、縦位置と横位置で彼女と一緒に収まった。

 熱海の市街を抜ける頃から、洋子の重心がふらつき始めた。
「休憩しようか」
「まだ大丈夫よ」
敏夫はこのような状況で、彼女が遠慮してなかなか本音を言わないことをよく知っていた。
赤信号に止められ、彼がリストウオッチを確認した。
夕食の予約時間に30分程遅れそうだった。
この後2人は、横浜へ戻り友人達と食事をする約束をしていた。
敏夫は率直に洋子へ伝えた。
「約束の時間には少し遅れるよ。いいかな」
「ゆっくり行きましょう」
敏夫は出来るだけ自動車専用道を利用し、時間を短縮するルートを取った。

 大磯の市営パーキングへ入ると、約束の店へ連絡をとることにした。
洋子が、横浜の104へ店の電話番号を問い合わせた。
オペレーターがコンピューターに切り替わり、ハンドセットから流れる数字を彼女が復唱した。
忘れないように、彼も繰り返して復唱した。
店のオーナーに友人達への伝言を頼むと、10分ほど休んだ。
缶入りのコーラを飲んだ時間であったが、タンデムの疲れが嘘のように消えた。
 パーキングの管理者が、ハンドスピーカーで利用時刻の終了を案内し始めた。

以前はここも無制限に利用できたが、暴走族対策のために意外なほど早い終了時刻を設定していた。

 2人は平塚,茅ヶ崎を過ぎ、浜須賀の交差点から134号を抜けた。
敏夫だけなら辻堂駅を経由して藤沢バイパスを走行するが、神奈川県内の自動車専用道は、自動二輪のタンデムを禁止している。
彼は、藤沢市街を通過し原宿へ出るルートを選択した。
 警察署を過ぎてJRの高架を越えると、赤信号に減速した。
ギアを落し、スロットルを煽るとエンジンの回転数を同調させた。
突然、渋滞で停止している車のドアが開いた。
敏夫の右手中指が、辛うじてブレーキレバーに掛かる。
しかしレバーを引く間もなく、フロントからドアへクラッシュしていった。
  オートバイは右ウインカー、ヘッドライトステーを折り曲げ、タンクをへこませながら衝撃を吸収した。
彼は停止したオートバイを支えようとしていたが、右腕の痛みに耐えかねて歩道側へ倒れた。
支えきれなくなったハンドルを放し、左後方を見ると、歩道上へうまく転がる洋子を確認できた。
敏夫はオートバイに挟まれた左足を抜くと、そのまま仰向けになって空を見上げた。
ヘルメットのバイザーが、ショックで半分上がっていた。
起き上がった洋子が彼のヘルメットを取り去った。
誰かが救急車を手配する声が敏夫にも聞こえた。
「大丈夫?」
洋子が動揺している様相で呼び掛けた。
「大丈夫だよ。君はどうだい」
「うん、平気」
敏夫は、心臓に遠い部所から手足を順に動かしてみた。
特に骨折している様子は感じられなかった。
洋子が、彼の右腕の負傷に驚いて息を呑んだ。
ドアに削られたらしい傷が白い脂肪を見せ、骨と勘違いしたようだった。
救急車のサイレンが近づいてきた。
のぞき込む洋子の表情が泣き顔に近くなる。
敏夫はナットコールのバラードで、 THEY CAN'T MAKE HER CRY を思い出した。
邦題は”涙ほのかに”だったと思ったが、自信がなかった。
敏夫は彼女の半べそを楽しみながら、暫くのあいだ痛みを忘れることができた。