デスクへ戻ると、フロッピーケースの中にメモが入っていた。
”おちこんでるゾ どーする? 責任とって!!”
メモには、先日の僕の言葉に対するリアクションが書かれていた。
僕は急いで書類の山を片付けると、PCへ向かって彼女を食事へ誘うリプライを入力した。
彼女のアンサーバックは、横浜へ出て COFFEE 豆を購入し、夕食を御馳走する僕の提案に同意していた。
6月の最終水曜日、梅雨空は昨日からの雨が続いている。
定時に退社すると、待ち合わせの場所へ向かった。
少し遅れたせいか、約束の場所より手前の陸橋の上に彼女がいた。
一度はこのようにして女性を待ってみたいと思っていた僕は、そのシーンを先取りされてしまい、ほんの少し遅れたことを後悔した。
きっと彼女のことを考えながら黄昏時に見おろす景色は、流れる車のテールライトが雨にかすみ、雑然とした街並を素敵に隠してくれたに違いない。
交差点内でタクシーを止め、品川へ向かう。
バス以外の交通機関は特になく、三田5丁目は陸の孤島と言われている。
「横浜へは、よく行くのかい」
都内に住む彼女へ聞くと、めったに行かないと教えてくれる。
これから行く山手は、4年ぶりらしい。
僕達は、京浜東北線を利用して横浜へ向かった。
彼女が楽しそうな表情をしている。
僕はいまの気持ちを聞いてみた。
「いつもと逆の方向へ向かう気分は」
「なんて言うのかな、わくわくしてる」
「遠足のような」
「そうね」
彼女が話題を変え、話しを続ける。
「わたしねえ、バスが嫌いなの」
「どうしてだい」
「おつりをもらうときに、運転手さんにおこられちゃうの」
彼女は両替タイプとおつりをリターンされるタイプの、異なる仕組みに腹を立てていた。
最初に乗った電車は横浜まで至らず、途中で後続に乗り換えた。
山手で降りた僕達は、歩いてすぐの”まめや”へ向かう。
店頭にはいつものユニオンジャックが立て掛けられているが、今日は雨にうたれて元気がない。
「ここだよ」
「あら、素敵ね」
「あれ! なんだこれは」
「どうしたの」
「鍵が掛かってる」
店内はいつもとかわらない様子だったが、だれもいなかった。
僕達は隣のレンタルショップへ入り、時間を潰すことにした。
彼女がユーミンのCDを捜している。
JAZZはあまり聴かないらしい。
僕はバラードなら聴いてみたいと言う彼女に、フュージョン系のそれらしいテープを作る約束をした。
”まめや”へ戻り、しばらくするとマスターが帰ってきた。
友人に頼まれたブレンドと僕のクリスタルマウンテンをオーダーし、二人で作り付けのベンチへ腰掛ける。
彼女が”まめや”に来たのは今日が初めてだが、以前からここでオーダーできるスペシャル・ブレンドを持っている。
コロンビア,マンデリン,ブラジル,モカマタリを、それぞれ4,3,2,1で配合した物だ。
オーダーは、マイルドで濃があり、ちょっぴり苦いけれど酸っぱくないものという指定だった。
出来上がったブレンドには、代理で購入した僕が名前を付けた。
初回オーダーの日にちなみ”SUMMER SOLSTICE SPECIAL”、最も昼の長い日だった。
今日のサービス COFFEE が、切株で作られたテーブルへ並ぶ。
店の推薦するオリジナルブレンドの一つだ。
特に際だった癖はなく、薄めに抽出された味は安らぎに近いものを持っている。
ただし、ここで出されるカップにはどうしても馴染めない。
かなり使い込まれているのはかまわないが、落ち着きがない。
自分のカップをキープ出来れば、完璧ではないだろうかと思った。
店頭に並べられた生豆の湿気を、彼女が気にしている。
マスターに彼女の意見を伝えると、ローストした豆を並べる店に比較し、まったく問題がないことを強調していた。
マスターの言っていることは、ほぼ間違いないだろう。
多湿での生豆の保存は、かびにだけ注意していればよく、この店の消費量から考えるとその心配もなさそうだ。
僕達は一駅戻って、石川町へ出た。
僕は1年ぶりに”栗ノ木”へ行きたくなり、夕食はスパゲティを薦めた。
「どんな店なの」
「スパゲティの専門店だけど、昔はタコスがうまくて、冬にやっている雑炊もい けるし」
メニューにないものばかり言うと、スパゲティの種類をいくつか聞かれた。
僕の説明に一応の満足を示したが、彼女の好みを聞いておくべきだったと少し反省させられた。
”栗ノ木”へ入り、窓際に沿った奥のテーブルへ着く。
僕達の他に客はいない。
彼女が海老と帆立のホワイトクリームソースをオーダーし、飲物にはアップルタイザーを選んだ。
ここでまたお気に入りを先行されてしまい、僕は少し悔しい思いをした。
好みをすでに知っている女性ならかまわないが、後から同じ物をオーダーするのは、真似をしているようでなんとなく落ち着かない。
僕は若鳥と茸のトマトソースを選択し、ジンジャーエールを頼む。
夕食にスパゲティだけだと少し寂しいので、シェフ推薦の野菜サラダも追加した。
彼女と食事をするのは、今日が最初ではない。
仲よくなりかけた頃、一度食事へ行こうと誘っていた。
特に日を定めていなかった僕は、一ヶ月前のある日突然に、今日にしましょうと言われた。
その日僕達は、品川のレストランで景色を眺め、デザートを頂いていた。
恋愛について話し始めた彼女が、失恋を僕に訴えた。
彼女の目に涙が溜り、次々にこぼれ落ちた。
話す言葉はあまりにも透明で、すぐに僕の心へ染み込んでしまう。
絶えることなく落ちる涙は、砕け散るのが惜しいくらいに輝き頬からすくって食べたい衝動を覚えた。
僕は隠すことなく素直に語れる彼女が、大好きになってしまった。
約1ヶ月を経過して随分と落ち着き始めていた彼女は、昨日彼と会う場面に遭遇した。
とても動揺した彼女は、今日僕のフロッピーケースへメモを入れた。
サラダと飲物が運ばれてきた。
僕がブロッコリとカリフラワーが嫌いだと言うと、彼女が箸を巧みに使い素晴らしいスピードでブロッコリを食べ始める。
リズミカルに箸を運ぶ動作が、眺めていて気持ちよい。
いかにも彼女らしい、ジョークを用いた優しさの表現に感心する。
今日の彼女はストライプのシャツがよくマッチングし、外したままの袖の第2ボタンが漂う雰囲気を感じさせる。
僕は、”ふっ”と彼女との距離を縮めるような気分を感じた。
ジンジャーエールを一口飲む。
独特の匂いと炭酸の強さ以外に、喉越しに残る刺激が心地よい。
「おっ、辛口だ」
「普通と違うの」
「うん、飲んでみるかい」
と言うと、彼女が自分のグラスからストローを抜き取り、僕のグラスから少し飲んでみる。
「ほんとだ」
販売中止になった、ウィルキンソンの小瓶に似ている。
他のメーカーや今も売られている200ccサイズは、頼りない味でとても飲めた物ではない。
僕はアップルタイザーをオーダー出来なかった後悔を、少し取り戻した。
しかし、ちょっぴり味を散漫にするクラッシュドアイスが残念だ。
炭酸飲料は、一つだけ大きな氷を入れたイギリス・スタイルに限る。
”栗ノ木”を出ると、裏通りでケーキの店へ入った。
COFFEE で1つのケーキを食べ終えると、彼女が2つ目を迷っている。
彼女は、お菓子を焼くのが趣味らしい。
このような店へ来ると、目移りが抑えられないようだ。
僕は自分の選んだケーキが美味しかったせいか、遠慮しないように薦めたが、1口食べた彼女の表情から推察すると、運ばれた2つ目は選択を誤ったようだった。
21時を過ぎ、店を出る。
僕は横浜駅まで送ることにした。
彼女は東京駅まで25分、さらに乗り継がなくてはいけない。
予定時間をオーバーしてしまったことを詫びる。
まだ彼女のペースに同期させるのが難しい。
東京行が7番線へ入り、ボックス席へ一人で座った彼女が窓を開ける。
発車のベルが鳴りドアが閉まる。
私鉄や地下鉄とは根本的に異なる、JRらしいスピードで動き始める。
お互いに小さく手を振る。
この別れのシーンにぴったりの、いかにも列車らしい加速感が、いつも僕を感動に誘う。
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