彼は同姓の友人といっしょに退社し、ほぼ約束の時間に池袋駅へ到着した。
私鉄のホームから地下街へ通じる改札口を出ると、地下鉄の出口と合流する柱の前へ立った。
「来るかなあ」
「何が」
「時間にだよ」
「まあ無理だろうな」
「約束は6時15分だろう」
「ああ」
「本社の定時は、たしか5時35分だったよな」
「よく知らない。しかし、待ち合わせは6時10分でもいいって言ってたぞ」
「それじゃあぎりぎりだよ」
「ところでさあ、15分というのはいいだろう」
「何が?」
「これが6時丁度に待ち合わせなんてことになると、ここいらは川越の芋アイス だぜ」
30分遅れて来た彼女と合流した3人は、複雑な地下街の経路をたどり西部デパートのロフトへ急いだ。
「これがMONOマガヂンで1等賞だった、プロテックスの鞄だよ」
うんちくを傾けようとすると、2人は別の話題で忙しそうだった。
彼は少しがっかりして、近くにいた女性の店員を呼んだ。
「このA4サイズの厚手タイプは、いくらでしょうか?」
「あら、書いていないわ。少々お待ち下さい」
店員は、売り場の隅に設けられたラッピング用の作業机まで行き価格を確認してくれた。
「19800円でございます」
「カラーはこれ以外に何がありますか?」
色については、すぐに返事が返ってきた。
「このダークグレイとあとはライトグレイにブラックがあります」
しばらく見比べて悩んでいると、店内放送があと5分で閉店になることを告げた。
彼は時間内に結論を出せば失敗すると判断し、再度1人で出直すことを決めた。
「すみません、顔洗ってまた出直してきます」
売り場の女性はくすりと笑ってキャッシャーの方へ去った。
2人は、西口公園の前で彼の友人と分かれた。
彼が予約したレストランは、雑誌に掲載されていた地図によると歩いて5分以内の場所だった。
池袋に詳しい筈の友人が示してくれた方角は、彼にとって90度回っているように思えたが、とりあず従ってみることに決めた。
彼は地図上の芸術文化会館を頼りに、迂回するように彼女を連れて進んだ。
「自動車学校の調子はどうだい?」
「もう3段階なんです」
「おやっ、結構早いんだね」
「今の所ストレートなんですよ」
「教官の予約はうまくいっているかい?」
「最近は毎回違うんです、合格するまで請負性なんて言っていて」
「じゃあ苦労しているだろう」
「でも教官は優しいんです。”スニカーを履いてきてくれたら合格をあげる”な んて言うの」
彼女は、得意とする愛敬でうまく教習を切り抜けているようだった。
「やはりこの方角ではたどり着けない」
彼は呟くように言った。
2人は、すでに3ブロック程をクランクのように歩いていた。
「どうしましょうか」
「店に電話をかけて聞きたいんだけど、ここで確かめてみよう」
彼は、受付らしき場所に数人の男性がいる”防災センター”のビルへ入った。
店のコピーを見せると、消防士のような服装をした係官が対応してくれた。
係官はコピーのプアな地図を無視して、住所を頼りに調べ始めた。
しばらくすると、壁に貼ってあった大きな地図を示し2ブロック戻るように教えてくれた。
指示されたビルの角へ行くと、目的の店はすぐに見つかった。
既に予約時間には、20分程遅れていた。
店内は、手前のパーティー席と奥のテーブル席に2分され、2人は奥の4人がけの席へ案内された。
メニューを渡されると、彼女に尋ねた。
「最近は、飲兵衛になったんだよな」
「そうでもないですよ」
「グラスワイン1杯じゃあ不足だろう」
「そうですね」
「おや、この店は結構本格的だな、食前酒が幾つも取り揃えているけど、ワイン でいいかい」
「ええ、おまかせします」
彼は電話で予約していた日替りのコースに、シャブリのハーフボトルを頼んだ。
「店の中は、結構暑いな」
「上着を脱ぎますか」
彼は周りの客を確認し、上着は着けたままにすることにした。
店内には年輩の2組と若い女性客のグループがいたが、誰もがきちんとした身なりをしていた。
「ところで優子は、どんなタイプの男性がいいんだい?」
デザートが出ると、彼が尋ねた。
「そうですね、寺尾さんは女性と歩くときに車道側を歩いてあげますか?」
「ケースバイケースだね、若い頃は必ずそうしていたよ」
彼女の言いたい事は、かって彼自身が別の女性に言った言葉と同じものだった。
おそらく彼女も誰かとの会話に出て来たものを答えたのだと理解した。
彼は、恋愛を語る前に恋を語ってみたかったが、彼女との仲では少し早いかなとも思った。
店内には、ドビュッシーの月の光が漂っていた。
この曲は、彼が唯一理解することの出来るクラシック音楽だった。
会話は途切れ、彼は彼女との世代のギャップを埋める努力をしないでいた。
自分にもそのような話題に夢中になっていた時代があったが、彼女との会話で展開することを忘れ、かつての情景を1人で思い出していた。
彼の心は、まるで湖水から立ち昇る靄が月の光に映し出されるように漂っていた。
彼は、彼女が席を離れた僅かな時間に、支払いを済ませておいた。
店を出ると、二人は池袋の駅へ向かって歩き始めた。
「いくらでしたか? 私の分、払います」
「いいんだよ、二人の場合は奢ることにしてるんだ」
「じゃあ、明日もどこかへ行きましょうか」
「こらこら、なんてやつだ」
丸井スポーツ館の前まで来ると、赤信号に止められた。
「ところで、この前言っていた職場の宴会へは行きましたか?」
「いや、いつものようにパスしたよ」
「またですか」
「1次会からカラオケだって聞いていたからさ」
「そう言えば、寺尾さんの歌を聴いたことがないですね」
「そうかい」
彼はほんの少し考え込むと、言葉を続けた。
「じゃあ僕の腕を取ってごらん」
彼女が面白そうに右腕を絡ませると、信号が変わった。
彼は、横断歩道を渡りながら歌い始めた。
SPEAK LOW, DARLING SPEAK LOW
LOVE IS A SPARK, LOST IN THE DARK
TOO SOON, TOO SOON
I FEEL WHEREVER I GO
ラテン調のリズムが多い”SPEAK LOW”の2番歌詞を、彼はサラ・ボーンのバラード調で歌った。
恋を語るなら聶くようにと。
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