入社11年目、僕は初めて午後の半休を取得した。
休暇カードの理由欄には私用とだけ記入した。
午後半休は、12時を過ぎると退社の権利が発生する。
僕は彼女との待ち合わせ時間を逆算し、いくつかの所用を加味して15時過ぎに着替えを済ませた。
11月の第3週、今日はとても暖かい。
JRで横浜へ出た僕は、銀行へ寄ってから1駅手前の東神奈川へ戻った。
逆算に余裕を取りすぎ、午後のひとときをお気に入りの COFFEE ショップへ入って雑文を書いた。
友人や同僚がまだ仕事をこなしているこの時間に、ペンを走らせながら飲む COFFEE は、とても贅沢な気分にさせてくれた。
駅の北側には大手スーパーマーケットが2店あり、どちらも駅からの陸橋で接続されている。
COFFEE ショップを出た僕は、近い方の店内へ入り、1階のフロアを通過した。
ビルの反対側には、フラワーショップがある。
たくさんのバラの中から淡いピンク色を時間をかけて選択し、花束を注文した。
ショップのお姉さんが、僕に尋ねた。
「プレゼントですね」
僕は半分返事に困って、ほんのり赤い小さな嘘をついた。
「彼女のお誕生日です。リボンを付けて下さい」
お姉さんはサービスでかすみそうを入れ、ほぼ想像したとおりの花束を作ってくれた。
再び横浜へ出た僕は、ブックストアとスカイビルの輸入雑貨専門店を覗き、マリンシャトルの待合室へ入った。
約束の時間までに、まだ25分もある。
ベンチシートへ腰掛け、”ケニー・G”を聴きながら彼女を待った。
シャトルが2便出港した。
乗船客は少なく、8割がカップルで、残りはものめずらしさにやってきたグループのようだ。
約束の時間に少し遅れて彼女が入ってきた。
「待ちました」
と、彼女が尋ねた。
今日は、横浜駅からの連絡通路となっているデパートが定休日で、待合室までの迂回路に迷ったようだ。
僕は、彼女に花束を渡した。
「はい」
「ありがとうございます」
「おぬしに花をプレゼントするのは初めてなのに、最初で最後になってしまったね」
と、僕が言うと、
「いいえ。2度目ですよ」
と、彼女が訂正した。
僕は、1度目だと思い込んでしまっていた。
最初は彼女が風邪をこじらせ、1週間もお休みしたときだ。
僕は社用で外出し、仕事を終えると彼女のマンションまで行った。
マンションは都内の静かな住宅街にある。
僕は私鉄駅前で切花のバスケットを購入し、突然電話をかけて来訪した。
彼女と彼女のお母さんが、とても喜んでくれたのを思い出した。
きっと僕は、お見舞いの花は同じプレゼントであってもどこかニュアンスが違うと、潜在的におかしなとらえ方をしていたからだろう。
いま最初のプレゼントを思い出してくれ、そのお礼も述べている彼女を見ながら、とても素直で素敵な人だと再認識した。
僕達は、6:20のシャトルで出港し、ベイブリッジのイルミネイションや造成中のYES’89の夜景を楽しみながら、山下公園へ着いた。
マリンタワーの側に、シックな3階建てのビルがある。
1,2階は流行を追った店が入っているが、3階へエレベーターで上がると、雰囲気はがらりと変わり、レストラン”アンカー”がある。
グルメの本には、JAZZを聴かせる英国風レストランと紹介されているが、食事は100%フランス料理を提供する。
しいて言うならば、インテリアが落ち着いていて英国風ともとれる。
僕達は、予約の定席である窓際の、眺めのよい場所へ案内された。
ビルの2階部分から外の銀杏並木へ照明があてられ、山下公園を含み海へと続く、とても広い庭を造りだしている。
白ワインで乾杯した。
料理はオードブルから始まり、グリンピースのスープに彼女はとても感心していた。
スズキと牛フィレステーキの間に出たシャーベットは、柚がとてもさっぱりしていて、口直しに最適だった。
僕達は、2週間後にせまった彼女の結婚について話し合った。
彼女は、教会で挙式を行う。
本来キリスト教はとても厳格で、神父さんは自分が納得しないと立ち会ってくれないそうだ。
彼女は、先日神父さんの所へ行き、テストを受けて来たと話してくれた。
結婚とは何か、夫婦間の本当の信頼とは何かを具体的なケースを提示して質問を受け、彼女はごく月並みな回答しか出来なかったと言った。
僕は彼女から、同じ質問を受けた。
僕は何故人間は生きているかを、僕の理念に基づき彼女へ説明したことがある。今回もその理論を展開し、回答した。
時空間を形成するのは、エネルギーの集合であり、エネルギーの流れは時間を刻む。
時空間はアナログ的に無限大数重なり合い、全ての次元はエネルギーの変調によって発生し、さらに次の変調によって前の次元は消滅する。
1人の人間は複数の次元にスペクトル的に存在し、全ての次元の集合が完成された1個人を表現できる。
我々は、一部の次元しか認識できないため、あたかも不完全な生命体のように感じているが、本来は完全である。
1組のカップルがこの一部の次元に於て不完全であっても、全ての次元を集合すると完全である。
完全とは、我々が一部の次元で認識している倫理や道徳では証明出来ないものであり、たとえ1組のカップルがこの一部の次元で失敗したとしても、それは集合された次元では完全の一部を成している。
一部の次元に存在する神は有り得ないと、僕は宗教をも否定した。
彼女は、学生時代に神の声が聞こえたというその神父さんと僕が、一度会えばおもしろいと楽しそうに言った。
食事は、フルーツに柿、デザートにアイスクリームとケーキを頂いて、 COFFEE で仕上がった。
食事と彼女との会話に熱中してしまった僕は、ピアノとベースで聴かせるJAZZのライブが、45分の演奏と30分のインターバルで続けられていた事以外、頭の中に残らなかった。
僕達は、関内駅近くの COFFEE ショップ”砂時計”まで歩いて行くことにした。
センタービル裏手に、”砂時計”がある。
以前、彼女といっしょに見つけた店だ。
店内はいつもJAZZがかかっている。
だがテレビもついていて、JAZZなんてとんでもないという客も多く出入りしている。
一度とてもよい曲が流れているときに、店のオーナーへテレビを消してくれないかと頼んだ事があった。
オーナーは、ここは客がどのようにくつろいでもよい店だと僕の申し出をやんわり断わったが、アンプのゲインを上げてくれた。
店内には、マイナーなJAZZバンドのコンサートポスターや以前に店内でやったライブの写真が、多数張り付けられている。
僕は何度か通ううちに、大好きになってしまった。
僕達は、10年以上前に聴いたブリティシュロックやオートバイの魅力を、それぞれいつものように話していた。
リストウオッチを確認すると、23時になっていることに気が付いた。
”砂時計”は、22時に閉店だ。
僕達以外の客は、常連らしき人がカウンターに1人だけいた。
明日が祝日のせいか、閉店していたのに追い出されずにいた。
”砂時計”を出た僕達は、センタービルのわきを抜け駅の北口へ着いた。
いつもの別れであれば、それぞれのホームへ上がり、先に来た電車に乗ってお互いに手を振る。
今日はそれが出来そうにない。
歩くスピードが遅くなる。
数歩先を歩いている彼女を呼び止める。
僕は彼女の肩を抱き、「さようなら」を言いたい衝動を押さえた。
小さく「じゃあ」と言う僕に、彼女がとても悲しそうな表情をした。
彼女と別れ、JRのガード下を歩きながら、この時空間を刻む砂時計の壊し方を考えた。
時に流され、砂に埋もれる自分に涙があふれた。
今日が終わろうとしている。
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